産前から産後まで。長く活躍するマタニティウェア&授乳服

スカーレット・オハラと私:ヴィヴィアン・リー自著

ヴィヴィアン・リーのエッセイ「スカーレット・オハラと私」の一部を写したものです。トピック
この記事は約9分で読めます。

このページでは、映画「風と共に去りぬ」の主演女優ヴィヴィアン・リーが書いたエッセイ「スカーレット・オハラと私」を紹介しています。

ヴィヴィアンは映画「風と共に去りぬ」で主役スカーレット・オハラを演じました。1939年にアメリカ合衆国MGM社から公開されました。

映画「風と共に去りぬ」エピソード

この映画は映画史の中でもっとも話題に飛んだ作品だといわれています。原作も映画も大ヒット。

この映画「風と共に去りぬ」の制作を担当したデヴィット・O・セルズニックは人選にうるさい人でした。主役スカーレット・オハラを選ぶとき、実に1400人の女性がテストされたといわれています。

決まらぬ主演女優

テストを受けた女優たち、錚々たる人名が並びます。

ベティ・デービス、キャサリン・ヘプバーン、ポーレット・ゴダード、ミリアム・ホプインス、ジョン・クロフォード、タルラア・バンクヘッド…。言いにくいので回りくどく書くと、当時けっして綺麗というわけではない女優シャーリー・テンプル以外の全ハリウッド女優がテストされたと。

そして遂にスーザン・ヘイワードがスカーレット・オハラ役に抜擢。選ばれた彼女は「風と共に去りぬ」パーティを開いて、アメリカ市民戦争(南北戦争)の時の衣装に限定したそうです。

しかし、調子こいているうちに制作担当のセルズニックは「やーめた」とスーザンを首に。候補はポーレット・ゴダードかと囁かれながら撮影が始まりました。

ヴィヴィアンに決定打

映画「風と共に去りぬ」はMGM社の配給ですから、セットが巨大。この撮影現場にヴィヴィアン・リーが恋人の俳優ローレンス・オリヴィエと見学に来ました。オリヴィエは同じハリウッドで映画「レベッカ」の撮影をしていて、ヴィヴィアンはロサンゼルス(カリフォルニア)まで来ていたわけです。

ヴィヴィアンたちが見学していた頃はアトランタ火災の場面を撮影中。火災を背景にした時に、制作担当のセルズニックの前にヴィヴィアン・リーの横顔が重なり、衝撃を受けたそうです。

これまでテストを受けた女優たちをはじめ、ハリウッド中の女優たちが≪アメリカ南部の女性役になんでイギリス女やねん≫とブチギレまくったそうです。

気持ちは分からなくもありませんが、怒った女優たちも地理が同じとはいえ時代が違うので、怒っても仕方がないですね。リアルな人(19世紀アメリカ市民戦争当事者でオハラに近い人物)からすると、≪なんで20世紀女やねん、19世紀の奴が演じろよ≫となりますので。

前置きが長くなりました。さっそくご紹介します。

出典と留意点

出典は次です。ただし、この出典は『スクリーン』1952年9月号から転載しています。

筈見有弘・福田千秋(責任編集)『ヴィヴィアン・リー』シネアルバム17「風と共に去りぬ」、芳賀書店、1973年、57頁~59頁。

転載は長く、引用符は見苦しいので外しています。また作品名を記す『』も目ざわりですので「」としています。漢数字は算用数字に替えています。ご了承ください。

スカーレット・オハラと私:ヴィヴィアン・リー

或る晩、私は機会があって「風と共に去りぬ」のアトランタの大火災の一場面をみながらこの映画の製作されている所をみていました。あの晩からもう幾年かの年月が経ちます。それは驚く程大がかりなセットでアトランタの町の一角の建物が戦火の為に灰燼に帰してしまという場面でした。そしてそれをみていた私は何か言葉では申し上げられない様ないいしれぬ困惑と恐怖の感情にとりつかれていました。

その晩に私はこの「風と共に去りぬ」の製作者である高名なデヴィッド・O・セルズニック氏に初めてお目にかかったのです。そしてその頃この映画はスカーレット・オハラという大切なヒロインを誰が演じるか決定しないままに、まずヒロインを必要としない場面から撮影にかかっていたのでした。

今ここで回顧してみますと、私の感じていた不思議な困惑とゆううつな感情、こうしたものが当時の大火災という特殊な環境と共に何か幻想的なものの様に浮かびあがってくるのを感じるのです。

そして私はその時にその様なことを何も知りませんでした。勿論、私の頭の中に考えとしてその様な野心めいたものが去来したとしても、又他のどなたかがその様な冒険をあえてしたとしても、私は”ナンセンスよ”と一言のもとに聞き流してしまったでしょう。

然るに思いがけない事が起りました。遂にここ数ヵ月の間私がその様なことを欲したとしても、又そうでなかったにもせよ、スカーレット・オハラという最も困難な女の性格を客観的にみなければならない立場に立たされていたのです。

この様に大切な役柄を大切な役柄を他の女優さん達が明らかに欲していること知っている為に、私にこの大役が定って後も、それで私がスカーレットの役のテストをするなんて冗談に違いないとセルズニック氏に問い合わせた位です。

そこには十数人にものぼる全国から集った候補者達がテストを受ける為に私と一緒に居ましたが、私は本当に自分がその役を演ずることが出来るなんて考えてもいませんでした。

所が1回のテストで私はスカーレットとして決定して、そこには何等のジョークのない事を知りました。その決定はあたかも大きな波で総てのものを押し流し去ってしまう程強力なものだったのです。

それからは私はスカーレット、スカーレット、スカーレットと夜から昼へ、そして日から月へと日数が経ち時が過ぎ去って行くのでした。そこで私は二つの質問をしてみました。

第一に誰もが私がその役を恐れなげうってしまうことを期待しているのではないかということ、次に、いずれにせよ弘はスカーレット・オハラなる女性をどの様に考えているんだろうか、こんな大変な役を引き受けるなんて?ということでした。こんな大変な役を引き受けるなんて? ということでした。

多分、もし私がとり乱したり、恐れたら私は恐怖にとりつかれたことでしょう。然し幸運なことに私はその役を演じることにのみ夢中でありましたし、同情的御理解を寄せて下さったセルズニック氏の御鞭撻に依ってそうした恐怖は撮影が始まる前には霧散してしまいました。

スカーレット・オハラ彼女自身として――私の考えをのべさせていただきますと、この勝気な若い女性は大へんお転婆であって、私自身の過去の経験からはこうしたことはなかったので大へんやりにくいととでしたが、この映画撮影の終り頃には彼女と同じ様なことを考え同じ様な感情に捉われたのでした。私はスカーレットを最も身近に感じて6ヶ月近くも一緒に暮しました。朝早くから夜遅く迄私は動作やしぐさの1つ1つ、ジェスチュアの片時迄真実のスカーレットである様に気を配り、スカーレットが映画中で行う卑劣な行為さえも弘の感情の中に織り込んでみたのです。映画化される3年前にこの小説を読んで以来、私はスカーレット・オハラにとりつかれていましたが、今度は私自身で演じることに依って魂を吹き込む必要に迫られるのでした。

自惚れ、スポイル、倣慢、こうしたことは彼女の性格の上に於ては真実のものでした。しかし彼女は、勇気と決断力、こうしたものをも同時に持ちあわせていたのです。ですからたとえスカーレットが自分の求める何物かを幸福を両手を挙げて握みとろうともだえ、あまりにも次から次へと男を換えて短くごたごたした落着きのない人生を味わったとしても、この小説を読まれ熱中される女性がひそかなあとがれと尊敬の念を注いでいるのだと思います。マーガレット・ミッチェル女史によって創造されたこの女性に本物の生気を注入し、より真実味をスクリーンに出す為に努力することのみが私のやるべきことでした。

時にはヴィクター・フレミング監督の指導について行けない事や私自身がどうしても避けられない感情に捕われてセルズニック氏がうまく計算だてられた計画通りに演技が出来ないこともありました。こうした場合セルズニック氏の力強い慰めをいただきましたし、ヴィクター・フレミング監督の無尽蔵に供給されるかの如き巧みなユーモアと忍耐強い御指導に依って何回もこうした気まずい思いを避けることが出来ました。こうしたスタッフ一同の協力なしでは私はとうていこの重圧にたえられなかったことでしょう。

撮影中は朝の六時半にはスタジオへ行かねばならず、朝食はメーキャップや髪を直している合間にとらねばならぬというあわただしさでした。そして8時45分には撮影の為に総ての事を完了するのでした。

勿論、そこには多少の例外はありましたが、仕事を終えてスタジオを去るのは夜の9時半か10時でした。この様な有様ですから私はハリウッドの夜の生活、たとえばナイトクラブとかバー、レストランの生活は全然味わうことが出来なかったことは云う迄もないことです。

私達はうした辛い思いばかりを味わったのではありません。共演者であるクラーク・ゲープル、レスリー・ハワードと共に楽しく仕事をいたしました。

レット・バトラーがスカーレットを抱き上げて階段を上るシーンがありましたが、ある疲れ切った午後遅くこの場面を撮影することになりました。何べんも撮り直しを行い幾度かよくない結果となりました。――そしてかわいそうなクラーク・ゲープルはその場面が満足に撮れる迄十数回も私を抱きかかえて階段を上らねばなりませんでした。屈強なゲープルさんでさえセット・デザイナーがわざと長く作ったとしか思えないとの階段に恐れをなしている様でした。

「もう1度、クラーク」という監督の言葉に彼はもう一度私を抱きかかえてその長い階段を昇りました。「有難うクラーク」とフレミング氏がいってから「今の場面はこの映画には必要なかったんだ。ただ、君がもう一度彼女をかかえて昇れるだけの力が余っているかどうかを、ためしてみたかったんだ」と申しました。クラークはれに対して何の文句も申しませんでした。クラーク自身も大いにジヨークを飛ばしましたが、もし私が彼の様な立場にあった時に彼の様になれるかどうか大変危いものだと思います。

多分、最もつらかった場面は戦争の後に廃墟と化したアトランタをさまよう場面でした。場面から場面へと撮影される度にメーキャップの係りが飛んで来て私の顔を汚したり、顔を洗ったりしました。彼は私の顔を日に二十ぺんも洗ったことでしょう。そしてこの驚くべきスペクタクルな場面は巧みに掌握され、馬や馬車や乗手は定められた場所を横切ったりしてこうした混雑の中にも、計画された統一性をもって行なわれるこの場面の雰囲気は、私をしていつの間にかヴィヴィアン・スカーレット・オハラ・リーとしてしまっていることに気付くのでした。

時にはセルズニック・スタジオで夜の十一時迄働かねばならず、更にスカーレットがタラの土地に膝まづいて”私は決して二度と飢えません”と叫ぶ場面を撮影する為にスタジオを離れて日の出前に辺鄙な場所の農場に行くのでした。太陽は午前2時すぎに昇ってくるのでした。私は眠るどころかトレーラーで自分のドレッシング・ルームを、引っぱってくる始末でした。この場面を撮り終えて自宅にたどりつくのは、午前4時半でした。又、南北戦争が北軍の勝利に帰し、北軍の逃亡兵が侵入した時ピストルで射ち殺す場面では私とオリヴィア・デ・ハヴィランドのメラニーはともに死んだ男が我の前の階段を転げ落ちる有様があまりにも真実味があるので二人ともヒステリックになるのでした。

この「風と共に去りぬ」の撮影が全部終えた時に私の胸にただ1つの後悔にも似た気持を感じるのでした。それは私の演じたスカーレット・オハラが、クラーク・ゲープルやレスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド、トマス・ミッチェル、バーバラ・オニールやその他のすぐれた多くの俳優達に依って演じられた素晴らしさをそこなってはいまいかという感情を止めることは出来ませんでした。我々はお互いにもっとフィルムをみて考えあうべきでした。「風と共に去りぬ」は私にとって忘れることの出来ない映画でありましたが、しかし私は決してこの様な経験を二度とは持ちたくないものだとつくづく思います。たとえそれが私に大きな栄誉とオスカーをもたらすものであれ、私の払った数々の苦悩と余りにも大きな期待を私の小さな体に懸けられていることを自分自身で知った時には。――

(転載以上)

「風と共に去りぬ」の映像や小説をAmazonでさがす

コメント

タイトルとURLをコピーしました
footer-insert.php