ユベール・ド・ジバンシー : Hubert de Givenchy

シェアする

広告

ユベール・ド・ジバンシー

ユベール・ド・ジバンシー Hubert de Givenchy は、1927年にフランスのオワズ県ボーヴェに生まれたファッション・デザイナーです。表記がややこしいですが、ジバンシィ、ジヴァンシー、ジヴァンシィとも。

5歳のとき家具会社の重役だった父と死別したため、祖父のもとで育ちました。祖父はコローの弟子で、ゴブラン織業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を経営していました。ジバンシーは大胆なスタイルでオート・クチュールを席巻したモードの神童と呼ばれます。

裁縫師ユベール・ド・ジバンシーは、オードリー・ヘップバーンの映画「尼僧物語」(1959年)初演のために親友の彼女をドレスアップしました。

ユベール・ド・ジバンシー : 裁縫師ユベール・ド・ジバンシーは、オードリー・ヘップバーンの映画「尼僧物語」(1959年)初演のために親友の彼女をドレスアップしました。”Couturier Hubert de Givenchy dresses good friend Audrey Hepburn for the premiere of her film The Nun’s Story, 1959.” (Rare Audrey Hepburn — Couturier Hubert de Givenchy dresses good friend…) via Flickr / myhumblefash

1950年代・60年代にはオードリー・ヘップバーン映画の衣装デザインを数多く担当しました。ヘプバーンはジバンシーに公私にわたり衣装をデザインしてもらっていました。一度だけ自分の好きなジバンシーを放棄し、マリー・クワントが「オードリー・ヘプバーンの映画衣装をデザイン」したことがあります。

下積みから独立へ

法律家になるための教育を受けていましたが、ジバンシーはクリストヴァル・バレンシアガに憧れてパリへ移ります。美術学校(国立高等美術学校)在学中の17歳のとき、デザイン・スケッチをジャック・ファットに見せる機会を得て認められ、彼の店でデザイナーとしての活躍をはじめました。その後、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンの店を経て、エルザ・スキャパレリのメゾンへ。そこでエルザ・スキャパレリの右腕としてモデリストに登用されました。

エルザ・スキャパレリ : Elsa Schiaparelli
エルザ・スキャパレリ Elsa Schiaparelli は1890年にイタリアのローマに生まれたファッション・デザイナーです(1890-1973)。父は東洋語学者、叔父は天文学者、従兄は考古学者というアカデミックな名門の家柄。第1次世界大戦後に娘とパリへ移住。オート・クチュール組合に初めてファスナーを導入しました。

4年間ヴァンドーム広場のブティックを全面的に任された後、1952年にユベール・ド・ジバンシーは独立し、コレクションを開催しました。ワイシャツ地で作成したドレスを発表。同年、モンソー公園に面した古い屋敷のサロンを借りて独立。自分の名で店舗を開店しました。開店時はとても多忙だったためフィリップ・ヴネに協力を要請し、ジバンシー店の主任テーラーに任命しました。

フィリップ・ヴネ : Philippe Venet
フィリップ・ヴネ Philippe Venet は1929年にフランスのリヨン生まれたファッション・デザイナーです。14歳の時、リヨンのメゾン・ピエール・クール(La Maison pierre court)のブルジョワ・アリストクラティックへ通い始めます。1950年代初頭にユベール・ド・ジバンシーから要請を受けて同店の主任テーラーになりました。9年間彼の下で働きました。

独立後の展開 : ジバンシー最初の作品以降

ジバンシー最初の作品は、大半が安価なワイシャツ用の木綿製。胸開きの広いシャツ、ブラウスや、大きく広いデコルテと膨らんだ袖のブラウスをスカートと組み合わせたセパレーツ(朝から夜までの)。

これはモダンで新鮮なアイデアとシャープな均衡感覚が賞賛され、ユベール・ド・ジバンシーは24歳にして「モードの神童」と呼ばれました。2ヶ月後ニューヨークで開かれた慈善舞踏会「パリの4月」では当初のアバンギャルドな作品とは異なり、エレガントな夜のドレスを展示。

ユベール・ド・ジバンシー イヴニング・ストール 1952年 シルクとガラス

ユベール・ド・ジバンシー制作のイヴニング・ストール 1952年 シルクとガラス via House of Givenchy | Evening stole | French | The Met

さらに、1953年春のコレクションで、ジバンシーは角形の広いアームホールのノースリーブ・ドレスや、トマト・グリーンピースなど果物・野菜のプリント・ドレス、他にはチュニック・ルックなどを発表。同年秋には、ツイード製のプレーンでスリムなシュミーズ・ドレス、1955年にはシャツ・ドレスや、有名なサック・ドレスなどを立て続けに発表。ジバンシーは、シンプルでスポーティな感覚の洗練されたエレガンスを生みだしました。

クリストヴァル・バレンシアガとの遭遇

ジバンシーの作品は、クリストヴァル・バレンシアガに比肩する高度な技術とオーソドックスなデザインが特徴。1953年秋のシュミーズ・ドレス以後、ジバンシーは同じスタイルを追求・洗練しました。このスタイルはアメリカで賞賛され、スレンダー・ルック、1957年春以降のソフトなラインのモノはサック・ドレスと呼ばれました。しかし、身体の自然なラインを強調した新しいスタイルは、当時なおクリスチャン・ディオールの影響下にあったパリでは賛否両論でした。

ジバンシーが、最も尊敬するデザイナー、ジョルジュ・サンク街にあるクリストヴァル・バレンシアガの店の向かいに自店を移転したのは1959年のことです。1960年からは、ダブル・フェイス(二重織り)の織物に熱中し、芯も裏もない多様なプロポーションのコートやアンサンブルを作りました。

そのうち、肩から背にかけてボリュームのある、袖でつぼまりぎみになったコートは、1960年代の代表作。伝統的ですが、ラインがシャープで、独特な繊細なセクシーさとモダンな色彩感覚が現れています。その後、ジバンシーは、コブラ皮のレインコート(1963年秋)、全面刺繍のマイヨー(タンクトップ風のアンダーウェア)と前で開いたロング・スカートや、トランス・ペアラントな夜のジャンプ・スーツ(ともに1968年秋)などの大胆な作品を発表していきました。

ユベール・ド・ジバンシー アンサンブル 1969年頃 ウール、ファー、レザー。

ユベール・ド・ジバンシー アンサンブル 1969年頃 ウール、ファー、レザー。 via House of Givenchy | Ski ensemble | French | The Met

プレタ・ポルテへの進出と映画衣装の担当

1956年の春、ジバンシーは業者と提携してリゾートウェアのプレタ・ポルテに進出。映画衣装を手がけはじめたのも、この頃からです。映画衣装ではジバンシー自身もファンだったオードリー・へップバーンの担当が有名。女性らしいエレガントな作風はオードリー以外にも多数の女優に愛されました。

映画「サブリナ」用にヘップバーンの衣装を担当したことでジバンシーは映画界でも有名になりましたが、当初はデザインすることを拒否したそうです。

オードリーが私のところへやって来て、映画サブリナのためにドレスを作るように頼んだとき、私は彼女が誰だったか分からりませんでした。私は、キャサリン・ヘップバーンだと期待していたのです。(ジバンシーはオランダで自分の新しいコレクション向けに感情をこめて記者会見に臨みました)彼女は綿のズボン、バレリーナ・フラット(靴)、Tシャツを≪幼い女の子≫のように身に着けていました、藁のゴンドラ帽子を持って。彼女はとても傷つきやすくとても優雅で若く輝いていました。 via To Audrey with love: Hubert de Givenchy’s tribute to the timeless diva | fashion and trends | Hindustan Times

ジバンシーは1968年、プレタ・ポルテの「ジバンシー・ヌーベル・ブティック」を開設。メゾン内の他、ビクトル・ユゴー街にもブティックを開設しました。デザイン分野は、インテリア、香水、帽子、バッグ、靴、手袋などのアクセサリーにおよび、男性化粧品なども手がけ、ビジネスとしても成功しました。

1978年、デ・ドール賞を受賞。

引退後

1995年の引退後、ジバンシーのメゾンはアレキサンダー・マックイーンが後継デザイナーとなりました(1997年~2018年)。

2018年3月10日にジバンシーは睡眠中に死去。長年パートナーを務めてきたフィリップ・ブネ氏が同月12日に明らかにしました。晩年にジバンシーは最近のモード界のデザインやファッションが下品だと嘆いていました(「ジバンシィ」創業者、現代のファッションは「下品」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。

晩年のジバンシーはポール・マッカートニーに似た物腰の柔らかい雰囲気を漂わせていました。この10年でモード界の第1世代がごそっと去っていきました。 リバイバルしか出来ない時代が本格的に始まりました。