アンドレ・クレージュ

概要―ミニ・スカートとクレージュ―

アンドレ・クレージュ(André Courrèges / Andre Courreges)は現代スカートの原型を提案した、前衛派の男性裁縫師・デザイナー(1923-2016)。1965年のミニ・スカートと平底ブーツ、67年の全身網タイツ、72年のシー・スルーの上衣で有名ですが、他にも様々な革新性を持っています。パリ高等服飾専門学校(École Supérieure des Industries du Vêtement – Paris, ESIV)卒業。

19世紀末以来、パリ・モードはスポーツ・ウェアを一つのアイデアの源泉としてきました。アンドレ・クレージュの作風は直線・簡単で丈が短い。脚の露出が強まるのでブーツが組み合わされることが多い。丈の短い靴にはハイ・ソックスが似合います。中国女性の纏足と同じようにハイ・ヒールが馬鹿げていて、それに比べてブーツは合理的で論理的だとクレージュは感じていました。

他の企業がスポーツ服をハイ・ファッションのアイテムの一つとして取り込んだのに対し、アンドレ・クレージュおよびクレージュ社はドレスを含めスポーツ・スタイルを発想の中心に据えたことに特徴があります。

アンドレ・クレージュのミニ・ドレス(1965年)Photo FC Gundlach via The first mini by André Courrèges 1965 | © Pleasurephoto Room

ミニ・スカート、ミニ・ドレス

ミニ・スカートの発案者はイギリスのマリー・クワントだと言われます。たとえば、1950年代後半からロンドンでDolly Birdと呼ばれた女子たちが既製スカートの丈を自分で短くする流行を受け、58年頃に最初のミニ・スカートを販売したようです(長澤均『BIBA スウィンギン・ロンドン1965-1974』ブルースインターアクションズ、2006年、39頁)。他方、クレージュのミニ・ドレス発表後、「ロンドンのジンジャー・グループ社はただちに丈の短いスカートを取り入れ、その短さを誇張したミニスカートを生みだし、マリー・クワントの名前で売りだした」(ブリュノ・デュ・ロゼル『20世紀モード史』400頁)とも言われます。アンドレ・クレージュがミニ・スカートの初発、または少なくともオート・クチュールのコレクションで初めてミニ・スカートを採用したとまとめられます。

他にも、「ロンドンの流行と並走していたクレージュは、マリー・クヮント同様、ミニスカートの創始者であると主張」(『世界ファッション・デザイナー名鑑』113頁)、「どちらが先に発明したかについては、いまだに論争がある」(『もっとも影響力を持つ50人のファッションデザイナー』52頁)多くのファッション史ではどちらが先かの論争は避けています。

ミニ・スカートの制作でクレージュは、従来の柔らかい生地を使わずに、フェルトに似た厚めの羅紗を使いました。なお、アンドレ・クレージュのミニ・スカート開発によって膝頭が露出されて以来、スカートの裾はどんどん上昇し、従来のガーター・ストッキングが忌避され、新しくパンティ・ストッキングが登場しました(ブリュノ・デュ・ロゼル『20世紀モード史』400~402頁)。

写真

個人略歴

1923年、ピレネー山脈麓、南仏ナヴァール地方の中心都市ポーの町で地主の息子として生まれました。若い頃に土木建築学を学び、兵役中も飛行学校を選ぶなど、近代未来に対する関心が強かったです。44年空軍パイロットとして兵役に従事。その後、クチュールへの興味をもちはじめ、第2次世界大戦後にパリに出て、46年にパリ高等服飾産業学院に入学。この頃、スウェーデンの既製服産業の成功に関するルネ・アンリの講演を聴講しています。47年、ジャンヌ・ラフォーリのメゾンのデザイナー助手として入店(52年に辞職)。51年からはクリストバル・バレンシアガのもとで11年間にわたって修行を積み、衣裳構築の美学と技術を学ぶ。夫人のコクリーヌ・バリエールとはここで知り合いました。

Ensemble (via The Met)

店舗展開

1961年8月にクレベール通りに店舗を開設して独立。この年の初コレクションのデザインは建築的な構成美をもち、「白の幻想」をテーマに大当りとなって一躍有名になりました。最初の4シーズンは厳しく均整のとれたバレンシアガ的な作品を追っていましたが、それ以後はソフトで軽やかな傾向を強めます。63年春は白オーガンシーに縫取りした夜のシガレット・パンツを発表し、同年秋にはスカートのヘム・ラインが膝頭まで上がった、化粧気のない、長くてたくましい脚の若いマヌカンたちが登場しました。

次いで、1964年の「ローブ・ド・パンタロン」では、夜会用の服にパンタロンを提案し、スポーティで機能的な傾向を強調、65年春には「ミニ・ルック」とよばれるミニ・スカートを発表。このミニ・ルックは、それまでオート・クチュールで最も醜い身体部分とされてきた膝頭を解放。これが爆発的なブームをよび、「未来派のバレンシアガ」と呼ばれました。67年のシースルー・ドレスのほか、宇宙服ルック、大胆なチェックとストライプ使い、チュニックとパンツの組合せなどが、ファッション界に一大旋風をまき起こしました。

photo credit: Metsuki Doll Twiggy Who? via photopin (license)

1960年代にパリのオートクチュール業界の中でプレタ・ポルテ部門をもっていた4社(ピエール・カルダン、ニナ・リッチ、イヴ・サンローラン、アンドレ・クレージュ)は、オートクチュールとプレタポルテの2事業を1つにまとめる目的でファッション・ショーのスケジュール変更を協議していました。サンローランは直ぐに抜けましたが、ピエール・カルダンとニナ・リッチは70年代初頭まで自分のスケジュールを貫きました。この過程でクレージュは4シリーズを同時に発表したわけです。ちなみに、1964年にクレージュはフランスのブルジュ(ブールジュ/Bourges)にあるサミー・エ・モーリス・ヴァンベルクの既製服工場を訪問しています。縁縢・笹縁・釦穴に関しては手作業よりもミシンの方が遥かに上手に縫製出来る事を知っていました。

1965年1月、クチュール組合の公式行事であるコレクションを踏み倒し、クレージュは同年10月に翌66年春夏向けの3ラインを同時に立ち上げました。従来のオート・クチュール部門は「プロトティプ(原型)」、プレタ・ポルテ部門は「クチュール・フュチュール(未来のクチュール)」、ニットなど安価なものは「イポルベル(双曲線)」の3部門です。66年にクレージュはプレタポルテの1号店をパリのフランソワ・プルミエ通りに開店し、次いで翌67年にUSAヒューストンのサコウィッツ百貨店とニューヨークのボンウィット・テラー百貨店に開店しました。

他方、ミニ・スカートの爆発的なブームに伴い粗悪なコピーが氾濫したため、クレージュは3シーズンにわたる活動休止を決意します。その後67年に、フランソワ・プルミエに店舗を移設し展示を再開しました。1970年、プレタ・シリーズ「イペルボール」、オート・クチュール向けの「プロトティープ」、ニットの「マイユ」の3シリーズを発表。さらにコレクションでは、「クチュール・フュチュール」を合わせた4つのシリーズの作品を同時に発表する形態を採りました。66年から67年にかけて、パリのオートクチュール組合の会員数は39から17へと急減しています。

© André Courrèges, photographed by Pierre Boulat, “Life”, May 21, 1965

ラインの多様化に留まらず、1960年代にクレージュは多角経営にも乗り出します。65年にロレアルとクレージュはクチュールと香水の会社を共同で設立しました(クレージュ・パルファン社、フランソワ・プルミエ通り40番地)。株式の持ち分はロレアル側に50%、クレージュ夫妻に50%でした。その後、1971年には香水部門、73年には紳士服・男性服部門「クレージュ・オム」をそれぞれスタート。77年には男性用香水「FH77」を発表。この頃から店舗の体勢をオート・クチュールからプレタ・ポルテへとシフトさせ、建築や産業デザインなどの分野へも積極的な活動を展開しました。72年にミュンヘン五輪の制服デザインも担当しました。

1970年代のクレージュは、スカート丈や、スカートかパンタロンかという選択などにこだわらず、年齢層にも関係ない衣裳デザインへと傾向を変えました。76年春には、67年に採用した3部門をオート・クチュールとプレタ・ポルテの2部門に修正し、プレタ・ポルテ、アクセサリー、雑貨類でも自分の商号をつける商品を全て直営工場で製造する体制を採用。オート・クチュールのエスプリである高品質を守りながら、同時にモードの大衆化をも推進する姿勢を採りました。75年にクレージュはフランス国内だけでセーターを75万着、布帛製品を6万点製造しました。1970年から76年にかけてクレージュの店舗はアメリカだけで28店に広がりました。

この頃、生産はクレージュの故郷フランス南西部のベアルン地方の下請業者に委託していましたが、後に同地に自社工場を設置します。ポー工場です。1973年の石油危機までは順調に進行しました。この頃、プレタポルテ部門で完全に自社管理を行なっていた企業はニナ・リッチとアンドレ・クレージュの2社だけでしたが、石油危機によってクレージュ社はストライキによる納品遅延を発端に徐々に完全管理の牙城が崩れていきます。

Coatdress (via The Met)

1965年以降、長い提携関係にあったロレアル社との関係の見直しが82年に行なわれ、コレクションの発表ができずに86年からは裁縫店の呼称を失うなど、クレージュの80年代は困難な時代でした。ちなみに、80年代にはヨーロッパの衣料品業界で最高品質だと認められるようになった国は既にフランスでは無くなり、イタリアでした。93年には提携会社イトキンへ譲渡した会社経営権とブランド権利を買い戻し、同年から翌94年の2シーズンにはカステル・バジャックによるコレクションを再開し、96年には香水クレージュのブランド権利を買い戻し、97年には香水「2020」を発売。このように、90年代にクレージュ・ブランドの建て直しが始まりました。

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