旗袍の変容 : 近代化に関する諸説とその限界

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旗袍の変容 : 洋裁技術の導入

旗袍の変容 : 民国期の旗袍は洋服や洋裁技術から影響を受けました。このページでは清朝期の旗袍から民国期の旗袍へ変容した点を述べた諸研究の傾向をまとめ、そこから分かる「旗袍変容の諸説と限界」を指摘します。その上で、閉塞的な研究状況を打開する観点を述べています。

民国期旗袍の変化はこちらをご参照ください→「旗袍 qipao : 概要・影響・民国期の変化

モードとファッション : 途上国日本のファッション文化」で述べたように、日本のファッション文化は欧米に対する途上文化として展開してきました。それに対して中国は中西融合の文化としてファッションを活気づけてきた経緯があります。

清朝期旗袍と民国期旗袍

清朝期の旗袍は材料生地をほぼ全て直線に裁断していました。製図・型紙(パターン)の発想はありません。完成品全体の幅は広く、シルエットはAラインに製作されたため裾は広がっています。防寒用に綿入が施される場合はとくに質感があります。袖口はやや広がる傾向があります。腕や足の露出は無く、丈が若干短い場合でもズボンかスカートが着用されました。

qipao : 清代滿族的旗袍 via 旗袍百年變奏 展現中國古典美 - 太陽報

qipao : 清代満州族の旗袍 清代滿族的旗袍 via 旗袍百年變奏 展現中國古典美 – 太陽報

旗袍変容の諸説

民国期の旗袍が洋服や洋裁技術から影響を受けたことは研究上の共通見解です[1]。しかし、旗袍が変容した点については細部で一致しません。民国期旗袍の変化に関する諸説の詳細を以下のリストにまとめます。

なお、形態の基本であるシルエットが清朝期のAラインからHライン[2]へ、さらにはSラインへと変遷した点は共通しています。また、変化の目まぐるしい立領の高低、袖の長短、丈の長短は除外しています[3]

旗袍変容の諸説の詳細

  1. 1920年代中期に腰回りが収縮し曲線が突出。袖は少し短く袖口は広く(鄭永福・呂美頤編『近代中国婦女生活』101頁)
  2. 1930年代初期に腰回りと袖口が縮小。1930年代中期に腰回りがフィット(黄能馥・陳娟娟編『中国服装史』386頁)
  3. 1920年代末に欧米からの影響でスリム化とボディ・コンシャス化(中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 上巻』166頁)
  4. 1930年代頃に肩縫、接袖が発生(中国近代紡織史編委会編『中国近代紡織史 下巻』175頁)
  5. 民国期に身体露出の開始と旗袍の曲線化、1930年代に身体全体がフィット。1920年代・1930年代頃に袖付けの導入(包銘新主編『中国旗袍』62頁、64頁、72頁)
  6. 1920年代末に腰回りのスリム化と身体ラインの明確化(華梅『中国服装史』196~197頁)
  7. 1920年代に(女性自身による)曲線美の認知と身体に沿った裁断開始(華梅『中国服装史』』198頁)
  8. 1920年代初頭に欧米服飾から曲線造体化と緊身的方向。25年に身体全体がフィット (王東霞編『從長袍馬褂到西裝革履』134頁・136頁)
  9. 細く曲線的なシルエットが特徴(謝黎『チャイナドレスをまとう女性たち』121~122頁)
  10. 改良後の新型旗袍にはダーツと繋ぎ目があり立体的(冷芸『裁缝的故事』109~110頁)
  11. 1930年代にシルエットの曲線美(白云『中国老旗袍』123頁)
  12. 1926年はまだ大袖、1934年に全身が曲線化(呉昊『細説中国婦女服飾与身体革命』283~287頁)
  13. 袖口は1928年に広く30年に締まる(黄土龍『中国服飾史略』202頁)
  14. 1930年代後半以降にダーツの導入、40年代半ばに接袖の導入(長崎歴史文化博物館編『チャイナドレスと上海モダン展』35頁、52頁)
  15. 1930年代末期に腰ダーツ・胸ダーツ、肩縫線、接袖の導入(羅麥瑞主編『旗麗時代 : 伊人、衣事、新風尚』72頁)
  16. 1940年代に腋下ダーツ・後腰ダーツ、肩縫線の導入(俞跃「民国时期传统旗袍造型结构研究」38頁、54頁)

出典 : 岩本真一(モードの世紀)作成。

注 : 「文献」は編著者・書名・頁番号のみ。正確な情報は「旗袍の図書リスト」および「近現代旗袍の変貌」論文本体に記載。

旗袍変容の諸説と限界 : 結論

このリストの共通見解を簡潔に示すと「後戻りのない構造のスリム化と、ボディ・コンシャス化の方向」[4]という高橋晴子の要約に帰結します。この方向は20世紀和服にも当てはまります[5]

このリストにある通り、旗袍に洋裁がどのように採り入れられたかを示す文献は多く、日本の着物史研究とは異なる高い研究水準を示しています。ただし、旗袍の変化がどのように着用者の行動を規定するのかについては一切言及していません。

西服(日本語で洋服)の導入はファッション(流行)で済まされるものではなく、後戻りの無い、生活に密着する変容でした。その点で、運動性に関する関心が無いのは、研究史上の盲点となっていました。それを克服したのが私の論文「近現代旗袍の変貌」です。旧型旗袍と新型旗袍の機能性や運動性の違いに注目して読んで頂ければと思います。

脚注

[1] 手縫か機械縫かの違いに言及したものは少ない。民国では電動ミシンの普及(張沙沙「民国旗袍造型研究」設計芸術学碩士論文、広西芸術学院、2013年、5頁)や、国産ミシンの実用化(1919年、中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 下巻』174頁)によって、手工縫製から機械縫製への転換がはじまった。台湾では1930年代以後にミシン縫製が導入され、手縫は補助作業に利用されるようになった(羅麥瑞主編『旗麗時代 : 伊人、衣事、新風尚』44頁・46頁)。

[2] いわゆる寸胴型。Hラインの旗袍には広い袖口が多く使われ(1920年代)、シルエットに清朝期のAラインが残っているとみる説もある(張沙沙「民国旗袍造型研究」10頁)。

[3] 他にも民国期にパイピング(滾辺)が細くなったと指摘する研究もある(華梅『中国服装史』196~197頁、陳研・張競瓊・李嚮軍「近代旗袍的造型変革以及裁剪技術」『紡織学報』第33巻 9期、2012年09月、2頁)。

[4] 高橋晴子『近代日本の身装文化』246頁・248頁。なお、従来の旗袍を継続して着用されることも多く、京派旗袍(北京中心)とよばれた。これに対し、当時の新型は海派旗袍(上海中心)とよばれた。京派と海派の詳細は旗袍史の大きな主題の一つであり、数多くの文献が取り上げている。以下に一部を挙げる。包銘新主編『中国旗袍』71~77頁、謝黎『チャイナドレスの文化史』52~65頁。

[5] 和裁・着付けの観点からは大丸弘「現代和服の変貌―その設計と着装技術の方向に関して―」(『国立民族学博物館研究報告』第4巻4号、1980年3月)。着付けの観点からは以下でも指摘されている。高橋晴子『近代日本の身装文化』247~248頁、シルエットの観点からは森理恵「「キモノ」の洋装化と民族衣装「キモノ」の成立」(武庫川女子大学関西文化研究センター編・発行『東アジアにおける洋装化と洋裁文化の形成』2008年、96~104頁)。


コメント

  1. 田中伸幸 より:

    懇切丁寧なご教示頂き、誠にありがとうございます(にもかかわらずお礼遅れてしまい大変申し訳ございませんでした)。
    紅帮、本帮の意味や出身とグループの関係、当時の営業形態などがはっきりと知ることができ、大変勉強になります。引用いただいた論文を読んで、さらに勉強しようと思います。
    その過程で再度不明な点が出てくるかもしれませんが、またご教示いただけると幸甚です。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  2. 田中伸幸 より:

    初めまして。本ページを探し当てまして大変勉強になっており、感謝しております。
    さて、新型旗袍の作製には当然仕立て人が重要な役割を果たしていると思うのですが、ここで私が気になっているのが”紅帮”(と本帮)の存在です。
    と、言いますのも、”中国旗袍”(袁杰英 編著、北京、中国紡績出版社、2000)を(の英文部分を)読んでいましたら紅帮と本帮と言う組織がある、との記述がありました。そしてこれが上海テイラーの隆盛に関わっているらしいのですが、帮と言うと青帮のような”怪しい儀式”をおこなう(杜月笙のような)”経済マフィア(あるいは、ヤクザ)”というイメージを出ません。
    その後、”紅帮服装史 主編 李学源、陳万豊”と言う本を見つけ、読もうとしたのですが中国語が読めずに苦労しています(ただ、本文を眺めると帮は組合のような感じかなと)。この辺、有名な仕立て屋とか青帮と紅帮の違いと行った初歩的なところから、当時の職人の組織形態(帮による出身地別区別やシステムの継承)など、お教えいただけると助かります。何卒よろしくお願いいたします。

    • 岩本真一 より:

      田中伸幸様
      はじめまして。丁寧にご質問を頂きありがとうございます。

      紅帮と本帮に含まれる「帮」ですが、同業組合や秘密結社の意味合いを持ちます。後者ですとマフィア風に感じますが、帮の英語がシンジケートのはずです。これにも同業組合と秘密結社の意味合いがあります。単に商店というニュアンスもありそうです…。

      「紅帮」は紅人(西洋人)に関わる集団、つまり西洋裁縫同業組合と考えて良いかと思います。あるいは、そちらの業種(の人々)。これに対し「本帮」は中国服に関わるものです。
      上海テイラーは「紅帮」に属すはずですが、やがて女性ドレス(旗袍)の製作にも関与していったはずです。しかし、ここで「本帮」とぶつかります。
      とはいえ、1920年・30年頃になると、「紅帮」「本帮」の融合した旗袍も作られ、これら二つの言葉は西洋裁縫と中国裁縫の意味合いも含むようになったと思います。単なる流派の違いに。
      別のグループに、軍服の「大帮」もありました。

      青帮は中国大運河の水運業ギルド(だから青)から始まったようですが、20世紀前半に仰るような杜月笙のイメージに繋がるのだと思います。日本でも神戸の港湾労働者(沖仲士)の仕事を支えたのが山口組でした。

      当時の職人組織形態(帮による出身地別区別やシステムの継承)についてはほとんど知りませんが、紅帮は西洋人との接触の強い地域(上海、寧波など)でテイラーが勃興し、寧波人は上海での起業を目指したそうです。上海の紅帮は上海人と寧波人が混ざっていると思います。その一部が周辺地域へ移民した時、寧波人の方が多かったようなことを聞いたことがありますが定かではなりません。神戸の紅帮は上海人か寧波人のどちらが多いか等の方が調べやすいかと思いました。
      他方、本帮は中国内に広くいたように思います。彼らが紅帮を覚えて、中国服に洋服要素を取り入れていった努力も大きかったと思います。

      いずれにしても、多くの経営体制は、店頭で小売販売、奥で製造。夫婦に加え通勤工が数人というのがオーソドックスなテイラーや中国服店だったと文献にありました。
      私の論文の一部を、長くなりますが貼り付けておきます。

      「現代ではほとんど消滅したが,学校教育で教えない裁縫技術は母から子供に伝えられてきた。縫製業においても技術伝授は徒弟制によって行なわれた。民国期中国の衣料品店舗には従来からの「前店后工場」形態,すなわち前方に小売,後方に工場を備えた形態が一般的で,夫婦経営によって受注加工を行なっていた。また,ふだんは弟子を1~2名招集し,繁忙期には新たに職工を雇用したり家族に手伝わせたりしていた。主要技術は業主が掌握し,家伝・秘伝の形で伝授された。以上,中国近代紡織史編輯委会編『中国近代紡織史 下巻』171頁。」(論文17頁)
      近現代旗袍の変貌―設計理念と機能性にみる民族衣装の方向―
      岩本 真一

      以上です。どの程度までご質問が解明されたか自信がございませんが、またご質問がありましたら遠慮なく仰って下さい。

      モードの世紀
      岩本真一

      大阪経大論集 66(3) 125-148 2015年9月