Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

ミシンの東アジアへの普及 : 第3章 質疑応答

広告

ミシンの東アジアへの普及 :  第3章 質疑応答

ミシンの東アジアへの普及 : これまで授業を通じて寄せられてきた学生方々からのご質問に章単位でお答えしていきます。著書のご案内はこちらをご参照ください。⇒「著書 – ミシンと衣服の経済史

ミシンの東アジアへの普及 : 岩本真一 ミシンと衣服の経済史 地球規模経済と家内生産 第3章
ミシンの東アジアへの普及 : 岩本真一 ミシンと衣服の経済史 地球規模経済と家内生産 第3章

岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』思文閣出版 2014年7月

  1. p59でシンガー社は横浜と神戸に2店舗を開いたとありますが、なぜ東京や大阪ではなかったのですか?港がある方がいいからですか? 【回答】シンガー社の資料を詳しく見ませんでしたが、仰る通り貿易港に近いという利点が考えられます。1902年頃には東京と大阪に進出します。06年にはシンガー裁縫所学院を開校(東京に)。
  2. 中国西北部で、日中戦争の戦火を避けるため、寧波に集中していた工場を西北部に移したとあり、3分の2を周辺地域からの移送に頼っていたとありますが、どの辺りの地域だったのか、また、時給自足を目標にしたにも関わらず、出来なかったのは、何か経済的理由があるのか。(p.79.1行目以降) 【回答】寧波は上海の直ぐ下。かなり九州に近いです。寧波に工場が多かったのは(商社なども多い)、アヘン戦争で開港した5港の1つだったからです(上海、福州、広州、アモイ)。甘粛省などはウィグルの東隣辺り。甘粛省だけで日本の本州よりデカい。あと、自給自足について、当時の布の大部分は織物で、技術的には自給自足できそうなものですが、難しかったのは、日本帝国軍が空を飛びまくっていたので空爆が一つの原因に挙げられます。よって軍需用織物が最優先されますが、局所的に勝ったり負けたりなので、双方とも布や服がボロボロになっていたかと思います。どんどん服が破れていくので、供給が間に合わない状態だったと思います。
  3. P77に毛皮のコートのような厚手の衣料には足踏式ミシンが利用されたと書いてあるがではなぜP80にあるように北部ではなく南部地域で足踏式が普及したのか。 【回答】「南部地域」は「旧満州」の南部地域のことで、南から順に今の遼寧省(省都が大連)、吉林省、黒竜江省。これら東北3省は、中国全体ではかなり北部です。
  4. シンガー社は何故日本市場への進出を後回しにしたのでしょうか?明治維新後の日本は西欧諸国程市場が大きくないにしろ西欧諸国の植民地と比較したならば、そこまで小さな市場ではないはずです。また当時はイギリスなどの西欧諸国との貿易に関してもそこそこ盛んだったはずでシンガー社が日本に進出していてもおかしくないと思うのですが? 【回答】理由は、巨大地域および大国を見ていたからです。東アジアでは清しか目に入らなかったと思います。1850年代から北米・南米へ進出し、60年代にイギリス筆頭にヨーロッパへ。ついでに植民地へ。80年代にロシア、オスマン、清に進出しようとしました。西欧諸国の植民地は日本より大きい市場がありました、インドです。19世紀第3四半世紀までは日本を明らかにアメリカは軽視していました。エピソードはゼミ中に話します。
  5. p59 L8 米国で手回し式ミシンが溢れたということは、米国でそれが大量生産されていたということなのか、新しいミシンが既に販売されていたということなのか。 【回答】1850年代に手廻式ミシン、60年代に足踏式ミシン、90年代に電動式ミシンと、動力が変わっていきました。ですから、輸出政策は、米国内に余った手廻式ミシンなどを売りさばくことから始まりました。つまり在庫処分。
  6. シンガー社の東アジア支店やシンガー社製品販売店ではアメリカ本土からの輸入品のみの販売しか行っていなかったのか? もし、そうであるならなぜシンガー社製品をコストが浮く販売国ではつくっていなかったのか? 【回答】シンガー社全体としては、低コストの国を模索していました。スコットランド、ポドルスク(ロシア)など。東アジアに関しては、138頁の図2。おおむね、米国製が増えています。ミソは英国製ミシン。

関連リンク

コメント

  1. 持永あい子 より:

    話はチョッとミシンとは離れますが、母がシンガーミシンを買った後 銀座のシンガーミシンの学校に行ったのはここのことかも知れません。昭和の初めです。
    それで私は子ども時は母の手作りの洋服を着ており、母はセーラー服が嫌いで、既製品は着せて貰えませんでした。
    昭和15年の資料によりますと中国青島は日本の鐘紡,大日紡、内外綿、日清紡等が進出しており、綿素材は街で沢山売られておりました。

    • 岩本真一 より:

      お母さん、シンガーの裁縫学校へ行かれていたのですね。関西では1930年代に岡山県が学生服製造を産地規模でやり始めていました。セーラー服は既製品として全国的な流行になったのでしょう。賛否も激しく分かれたと想像します。青島のお話はいわゆる在華紡ですね。上海にかなり進出していたのはよく聞きますが、青島にもあったんですね(あちこちの沿岸部に出ていたかもしれません)。