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スタイル用語集 : 1日1個 平日配信
新しいファッション史

モードの世紀は、人類のファッション史をまとめ直し、躍動感ある歴史を描きます。
主にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、中国、台湾、日本に注目します。

これまでのファッション史は西洋か日本か、意味不明の二項対立に固執しました。
和洋。何て厚かましい言葉でしょう。

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ピエール・バルマン : Pierre Balmain

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ピエール・バルマン

ピエール・バルマン : Pierre Balmain は1914年にスイス国境に近いピレネー山麓(フランス側)サン・ジャン・ド・モーリエンヌに生まれました。父は紳士服業、母は婦人服のブティックを経営。

1950年代のパリのオート・クチュール界の中心的デザイナーの一人。パリに衣装店を経営しました。

経歴

建築学を学ぶためにパリの国立美術大学に入りましたが、人形の衣装作りに熱中した少年時代からのデザイナー志望を捨てられず、コンコルド広場のデザインにインスピレーションを受けモード界への転向を希望します。

エドワード・モリヌーのもとに持ちこんだデザイン画が高い評価を受け、リュシアン・ルロンの店に入りモデリストとして働きました。第2次世界大戦で招集を受け、休戦後は母のブティックを手伝います。ルロンからドイツ占領下のパリに呼び戻され、新入りのクリスチャン・ディオールとともに同店で再び働きました。

創業

1945年の夏に母の援助を受け、パリのフランソワ・プルミエ通りにアパートの一室を借りて、自分のメゾンを開店。同年秋の初展示では、なだらかな肩、ウェストを絞ったフルスカートのゲピエルックのドレスや、ブロンド色のサテンに黒玉石で縫取りした美しい夜のブラウスなどを発表しました。

翌1946年の春には新鮮な「労働着ルック」のブラウスなどを発表。画家クリスチャン・ベラールが彼のために、貴婦人・上流階級のマダム・有名女優などを次々に紹介し、ピエール・バルマンは当初から「グランド・ダーム」のクチュリエとなることができました。

その傍ら、1950年代から1970年代にかけて、映画衣装や演劇衣装のデザインも手がけています。ブロードウェイ・シアトルでのソフィア・ローレン(Sophia Loren)出演「求むハズ(The Millionairess)」、ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)主演の映画「素直な悪女(Et Dieu… créa la femme)」「殿方ご免遊ばせ(Une parisienne)」など。

ピエール・バルマン「オリアネ」絹、ガラス、貝。1954・55秋冬コレクション

ピエール・バルマン「オリアネ」絹、ガラス、貝。1954・55秋冬コレクション via House of Balmain | “Oriane” | French | The Met

若手ファッション・デザイナーの競技会でカール・ラガーフェルドが優勝したのを見て、1954年に彼をバルマン店へ雇用。また、マルギット・ブランド(Margit Brandt)は1960年代初頭に若手デザイナーとしてバルマンと働きました。

特徴

また、理論家でもあるピエール・バルマンは、「ヘラルド・トリビューン」紙主催の後援会で、堪能な英語を駆使してモード美学の講義をしたのは有名です。オート・クチュール組合付属学校で服飾史を担当しました。ラジオやテレビでの講演も多いです。

作風

彼の作風は優雅です。世界中の上流階級の女性に人気がありました。1957年に発表した香水「ジョリ・マダム」の成功後、同名のコレクションを冠した作品が名高いです。

香水 ジョリー・マダム ピエール・バルマン

香水ジョリー・マダム ピエール・バルマン Jlie Madame. via VOGUE Paris, No536, Mai 1973, p2.

パリ・オート・クチュールの黄金時代といわれる1950年代に、ピエール・バルマンはクリストバル・バレンシアガ、クリスチャン・ディオールと並んで「ビッグ・スリー」と呼ばれました。1960年代にも優雅で伝統的な衣装を貫きましたが、1970年代になると「ジョリー・マドモワゼル」へと変更していきました。

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