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スタイル用語集 : 1日1個 平日配信
新しいファッション史

モードの世紀は、人類のファッション史をまとめ直し、躍動感ある歴史を描きます。
主にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、中国、台湾、日本に注目します。

これまでのファッション史は西洋か日本か、意味不明の二項対立に固執しました。
和洋。何て厚かましい言葉でしょう。

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ニナ・リッチ : 彫刻家とよばれた優秀な技能

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ニナ・リッチ

ニナ・リッチ Nina Ricci は、1883年にイタリアのトリノで生まれたファッション・デザイナー。パリのオート・クチュール「ニナ・リッチ」の創業者。

ニナ・リッチ

ニナ・リッチ : Nina Ricci via Нина Риччи — Википедия

幼時より服に興味を示し、人形の服作りに熱中。13歳の時、家族とともにパリに出て、お針子から身を起こした。18歳にアトリエのプルミエールを務めた後、宝石商ルイ・リッチと結婚。渡仏以来30年以上にわたって縫製や裁断の技術を磨き修行を重ね、「ラファン」店と共同で米国のバイヤー向けに自作品の原型(プロトタイプ)を販売する。

独立

これを機に、1932年に自分のメゾン「ニナ・リッチ」をパリのキャプシーヌ街に息子ロベール・リッチと一緒にオープン。エレガントな女性のための、技巧をこらした優雅なドレスを次々に発表した。

ニナ・リッチの服作りはデッサンを行なわずに服地を直接に顧客やマヌカンの身体の上にかけながら、ドレープを寄せカットを施す点が特徴。「彫刻家」とよばれた優秀な技能によって作られた作品は、女性らしい丸みを帯びたライン、動きのあるデザインに加え、完璧な縫製と手頃な値段で、多くの上流婦人たちに支持を得る。

デザインに専念

1945年に経営をロベールに任せてからは、ニナ自身はデザインに専念するようになる。ロベールの経営手腕や香水部門の成功などと相まって、「ニナ・リッチ」は世界的なグランド・メゾンへと展開した。1954年にジュール・フランソワ・クラエをチーフ・デザイナーに起用。

香水では、艶消しガラスの瓶に鳥をあしらった栓をした1948年の「レール・デュ・タン」(時代の空気)がよく知られ、晴れやかな中に清楚さを秘めた香りが幅広い層に受け入れられ、今でも世界中でロングヒットを続けている。1959年に老齢のためニナ・リッチはデザインからも引退。店は息子のロベールに受け継がれた。

クラエがランバンに移ると、1964年にプレタ・ポルテ界で活躍していたジェラール・ピパールがチーフ・デザイナーに就任。以来、ピパールは「マドモアゼル・リッチ」のブランドでプレタ・ポルテの分野を開拓。

死後

1970年にニナ・リッチが死去した後もブランドの躍進は続き、1976年にジョルジュ・サンク通りにエレガントな巨大ブティックを開店。さらに、1979年にモンテーニュ通りのディオール店の真向いに新しいビルティングを建て、クチュール部門を移転。ピパールは1987年にデ・ドール賞を受賞。また、香水部門でも「クール・ジョア」の発売以来、「レール・デュ・タン」など多くの人気商品を生みだし高い評価を得た。

1999~2000年秋冬シーズンより、新しいチーフ・デザイナーにナタリー ジェルヴェ(Nathalie Gervais)が迎えられた。カナダ出身のナタリーはニューヨークのFIT、パリのエスモードを卒業後、1994年にトム・フォードの依頼でグッチに2年間携わってきた。また、「ヴァレンティノ」のデフュージョン・ライン「デレクション」にも関わった経緯をもつ。新世紀に入った2001年春夏からは、マッシモ・ジュサーニがチーフ・デザイナーに就任した。

日本では、「レール・デュ・タン」や「レ・ベルドゥ・リッチ」などの香水だけでなく、化粧品の人気も高い。女性の素直なコケトリーを表現したデザイン・コンセプトが人気の理由。

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