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マレーネ・ディートリヒ:ヒトラーからの出演依頼を蹴った映画女優

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マレーネ・ディートリヒ

マレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich は1901年10月27日にドイツのベルリンに生まれた映画女優です。パラマウント社の看板娘として長らく所属しました。同社はMGM社のグレタ・ガルボに対抗しようと躍起になりましたが、映画女優としての成否からみるとガルボに分がありました。

1932年に公開された映画「上海特急」に出演したマレーネ・ディートリヒ

1932年に公開された映画「上海特急」に出演したマレーネ・ディートリヒ via Marlene Dietrich on IMDb: Movies, TV, Celebs, and more… – Photo Gallery – IMD


しかし、マレーネには帰れぬ故郷ベルリンへの郷愁が沈澱し、戦中から戦後にかけて、大多数の男性を楽しませるエンターテイナーの才能が開花しました。

経歴

父親は王立プロシア警察の将校で、母はベルリン有数の宝石商の娘でした。父が第一次大戦にロシア戦線で戦死し、母は近衛師団の中尉と再婚しました。その父も第一次大戦で亡くしています。マレーネは中流の上といった保守的な家庭に育ちました。ヴァイオリンを学びましたが、手首を傷めたために断念し女優を志願。
1921年にマックス・ラインハルトの主宰する演劇学校のオーディションを受けますが不合格。巡業中の劇団一座「グイド・ティエルシャー」のコーラスを勤めながら、翌年に再度チャレンジして入学しました。
ここの研修生としてマレーネは「じゃじゃ馬馴らし」「真夏の夜の夢」に出演。後に「偉大なバリトン」の女優が病気で倒れ、当日に急遽代役を務めたのが高く評価され、映画「男というもの」に女中役で出演しました。これがマレーネの映画デビューです。

映画デビュー

この映画はコメディ映画で1923年公開時には「ナポレオンの弟」(Der Kleine Napoleon)と解題されました。第2作「愛の悲劇」(Tragödie der Liebe)でチェコ出身の製作助手ルドルフ・シーバーと知りあい、1924年5月に結婚しました。翌年には娘マリア(後にマリア・リヴァとして女優に)が誕生しました。1975年にシーバーが死ぬまで二人は離婚しませんでしたが、ほとんど別生活でした。

映画「嘆きの天使」

1920年代の後半には舞台と映画でかなり名を高めていましたが、国際的な活躍をするようになったのは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督です。ハリウッドの監督スタンバーグはウーファ社のために「嘆きの天使」を演出することになり、ベルリンにやってました。舞台に立っていたマレーネを見てローラ・ローラ役を決めました。この映画はドイツ映画として1930年に公開されました。

グレタ・ガルボへの対抗馬

「フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」の歌とともに、退廃的な雰囲気と素晴らしい脚線美をもったディートリッヒの名はたちまち世界に広がりました。この映画のラッシュを見た時点でパラマウント社の撮影所長B・P・シュルハーグはディートリッヒと契約しました。MGM社のグレタ・ガルボに対抗すべきスターとして5万ドルの宣伝費を使って売りだしを図ります。
「嘆きの天使」に次いでスタンバーグが一手に演出を引き受けました。1930年に夫と娘を置いて単身で渡米。「モロッコ」「間諜X27」「上海特急」「ブロンド・ヴィーナス」「恋のページェント」「西班牙狂想曲」と公開が続きました。「上海特急」後にマレーネのギャラは12万5千ドルに上がりました。
「恋のページェント」から観客は飽きられていきます。「西班牙狂想曲」がスタンバーグ監督のマレーネへの溺愛が鼻に突くという指摘もあります(南部[1967]179頁)。ともかく、スタンバーグはこれらの作品をつうじて独特のスタイルと映像を使って、ディートリッヒからエキゾチシズムとエロチシズムを引き出しました。それを支援したのがトラヴィス・バントンでした。彼はマレーネの衣装を多くの作品でデザインしました。
https://mode21.com/travis-banton/

スタンバーグとの関係

パラマウント社でのマレーネとスタンバーグとのコンビをめぐってゴシップが絶えませんでした。スタンバーグ夫人は60万ドルの慰謝料を請求する離婚訴訟を起こし、このコンビは1935年に終焉を迎えます。妻が夫の能力や仕事を潰す典型的なパターンです。焼餅とは他人に焼くのではなく自信のない自分に焼くのだとよく分かります。

アメリカへの移住

スタンバーグと決裂してしまったディートリヒは他の撮影所で他の監督の作品に出演します。ローラ・ローラのイメージを引きずっていかねばならないので大変です。

「鎧なき騎士」でリスタート

1937年にイギリスで「鎧なき騎士」を撮影。この映画をつうじてマレーネは色んな映画関係者と親交を築きました。ノエル・カワード、セシル・ビートン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアたちです。

ヒトラーからの誘いとアメリカへの移住

この作品をみたヒトラーがマレーネに特使ヨアヒム・フォン・リッベントロップを送り、ナチ・ドイツ映画に復帰するよう説得しますが、彼女はこれを拒否。そのためドイツでは彼女の作品は焼却されてしまいます。彼女は夫と娘とともにアメリカへ本格的に移住しました。
1939年にアメリカの市民権を獲得。1940年代はブロードウェイで「理想の人」や「雨」のミュージカル版に出演しました。エンターテイナーの萌芽はこの辺にありそうです。
第2次大戦が勃発すると前線慰問や反ナチ活動に積極的に参加しました。このような功績から1947年にアメリカ市民最高の名誉である「自由勲章」を得ました。
1940年代の彼女の映画女優としての評価は二分されます。南部圭之助は低評価(前掲書)、弟子の淀川長治は高評価(グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ)。

エンターテイナー : 戦中に開花したマレーネの新しい才能

前線慰問では他のスターたちとは違い第一線に寝泊まりしました。この点は当時の兵士たちから強烈に称賛されたようです。アメリカのトークショー女優で美食家だったタルラー・バンクヘッド(Tallulah Bankhead)は、病気の時にナイチンゲールは要らないけどマレーネは傍にいてほしいと述べています。

エンターテイナーとしてのマレーネの評判から思うこと

このようなエピソードを知っていくと映画ではピンとこない彼女の良さが分かってきます。私は大学の授業でよく《学内最高のトーク》と言われてきましたが、業績にも就職にも反映されないので重視していませんでした。
でも活きの良い学生たちが多数在籍する同志社大学で教えるようになってから、トークの良さも一つの才能だと思いはじめていています(大学氷河期の今、そう思うしかない?)。カメラを前にしたマレーネよりもマイクを持ったエンターテイナーとしてのマレーネの破壊力を想像します。

戦後

終戦をマレーネはフランスで迎えました。そのとき「狂恋」に出演し、相手役ジャン・ギャバンと恋愛関係を続けていました。1948年に娘マリアに息子が生まれ、「世界一グラマなお婆ちゃん」といわれました。

歌手として、エンターテイナーとして

その後もたまに映画に出演し、1953年にラスベガスのサハラ・ホテルを皮切りにナイトクラブに出演していきます。「リリー・マルレーン」などの歌を引っ提げて世界各地でリサイタルを開きました。この仕事でも新たな魅力と実力を開花させました。
当サイトが大きく取り上げてきたウォン・カーウァイ監督映画「花様年華」に出演したレベッカ・パンと香港の舞台で共演しています。1960年にドイツの劇場に巡業。ミュンヘンでは62階のカーテン・コールに応えたそうです。

マレーネ・ディートリヒ『ディートリッヒのABC』

そして1961年、マレーネは『ディートリッヒのABC』を出版。後述するアフォリズムに満ちた名著です。この辺りで彼女の映画・演劇・歌手人生が結実されたとみてよいかと…。


戦後にマレーネはクリスチャン・ディオールのお得意様になり、その後はクリストバル・バレンシアガのドレスを一番のお気に入りにしました。この辺の話は世界中の著名人にみられるワンパターンです。

ジョン・デイビット・リバ「真実のマレーネ・ディートリッヒ」

戦後の多くをパリで暮らし、自伝やドキュメンタリー映像などを公刊しています。彼女の孫息子で映画プロデューサーを務めるジョン・デイビット・リバ(ライヴァとも)が、秘蔵フィルムや関係者のインタビューをもとにドキュメンタリー「真実のマレーネ・ディートリッヒ」を製作し2001年に公開しました。
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鈴木明「わがマレーネ・ディートリヒ伝」

鈴木明「わがマレーネ・ディートリヒ伝」(小学館ライブラリー、1991年)はマレーネの人生を20世紀の政治史と絡めた伝記です。著者が戦後ドイツの分断をどう見たのかを想像しながら書いているので、とてもバイタリティーに溢れた本になっています。
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なぜ100万ドルの脚線美だったのか

マレーネはパラマウント社のキャッチフレーズ《100万ドルの脚線美》で見事な脚部がクローズアップされたのはよく知られています。このきっかけとなったのが「嘆きの天使」でした。男装でも人気の高かった彼女は女装では脚線美に注目されました。

クプファー・ザックス(銅版画家ザックス) ブロンド・ヴィーナス(映画ポスター) 1932年.カラーオフセット.204cm × 95.5cm (ドイツ歴史博物館 P 62/599)

クプファー・サックス、ブロンド・ヴィーナス(映画ポスター)、1932年。カラーオフセット、204cm × 95.5cm。(ドイツ歴史博物館 P 62/599)


上のポストカードは1932年に公開された「ブロンド・ヴィーナス」のポスターから製作したものです。このイラストで分かるように、モデルのマレーネは脱いだ赤色ドレスの内側で左足を前に出してポーズをとっています。上の白色シュミーズは対照的に強調されていません。

1930年代にみる女性美基準の転換

1910年代の絵」に紹介したように女性美基準は1920年代まで胸部にはありませんでした。また「授業で言及するマリリン・モンローの文脈」に触れたように、乳房が女性美基準として注目されるようになるのは1930年代にブラジャーが立体的に構成されてからのことです。
しかも、ハリウッド映画界にそれが反映されたのは1940年代です。ですから「嘆きの天使」も「ブロンド・ヴィーナス」も胸部を強調せず、従来の映画の慣習どおり脚部を強調しているわけです。

マレーネの受け取り方

マレーネは1901年生まれですから、乳房の協調や立体的ブラジャーの普及には抵抗があったはずです。1961年に初版を出した自著のなかで彼女自身、「胸」や「ブラジャー」という言葉で想像する事柄を次のように述べています。
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まず胸は、

ご時勢から、容易に脇にどけさせられる、大きくて、やわらかな、たれさがった乳房がよろしいようです。美しい乳房は、ふたついっしょに押さえつけたり、ひっぱりだしたりできない。それらの硬さには、それなりにこちらの思いどおりにならないところがあるのです。(マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒのABC』福住治夫訳、フィルムアート社、1989年、59頁)

次いでブラジャーは、

アメリカでは不思議なことがおこっている。明らかな新規軸、ドレスの下や、もっとひどいばあいにはセーターの下の、あの輪郭もあらわなスチール製構造物のこと。あれを見ると、男性は頭をピンと立てたり、人によっては口笛を吹いたりする。そのことはむしろ感動的というべきで、どんな男性が夢想家肌なのか、わからせてくれます。(同上書、58・59頁)

という具合です。マリリン・モンローが生まれたのは1926年。二人の年齢差は25年、一世代分のずれがあります。マリリンの方がマレーネよりも胸部重視やブラジャー立体化に抵抗は少なかったと考えられます。

もしマリリン・モンローが女性美基準や乳房の強調について言及している文献があれば、ご教示ください。

この項目を閉じるに、今でもファッションの基本といわれる靴について。

靴はスーツやドレス以上に重要。いい靴をはくと容姿全体がエレガントに見える。質も悪い靴を三足買うより、いいものを一足求めなさい。(同上書、241頁)

脚線美の時代を代表する映画女優の名言です。
ここで紹介した本はディートリヒ自身が書いたもので、730ほどの言葉に対して想起した切り返しを一つずつ綴っていったものです。いわゆるアフォリズム。
かなり売れたのか「まえがき」で

世界中のほとんどの国から、このABCブックをほしい、というたくさんの手紙をいただいたので、私の心情と情緒的経験をつづったこのこの新版を、あらためて世に出す(1984年版まえがき)

と述べています。
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いろんなファッション歴史の本を読んで何も学べなかった残念なファッション歴史家。パンチのあるファッションの世界史をまとめようと思いながら早20年。2018年問題で仕事が激減したいま、どなたでもモチベーションや頑張るきっかけをください。

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