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エルテ:アール・デコの代表的画家・デザイナー

エルテ Erté パーソン
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エルテ(Erté/ロマン・ド・ティルトフ Romain de Tirtoff)は1892年にロシア西部のサンクトペテルブルク(当時はペテルブルク)で生まれたファッション・デザイナーです。

映画衣装分野ではアール・デコの代表的画家・デザイナーとして知られています。パリでイラストを中心に仕事をし、1920年代半ばにハリウッド・デヴューしました。

主にMGM社の映画作品で衣装デザインを担当しましたが、ハリウッドではわずか1年間だけ働き、その後映画界に完全に幻滅し、やがてパリへ帰ります。

生い立ち

エルテは幼い頃にバレエと絵画に関心を持ち、何世代にもわたって男性が海軍に従事してきた家族にとっては例外的でした。そのため、家族はエルテの芸術面での経歴を全く受け入れませんでした。

しかし、彼の母は肖像画家ならば許すと、彼の芸術への関心に同意しました。家族が芸術を恥と思っていたため、ロマン・ド・ティルトフは自分のイニシャル(R.T.)をフランス語の発音に合わせて、エルテと名乗ることにしました。

パリへ

セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)率いるバレエ団バレエ・リュス(Ballet Russe)の舞台を見た時、エルテはパリで衣装デザインを追求する決心をします。

1912年の冬、彼はパリへ引っ越し9ヶ月後にロワイヤル通りのドレスメーカー「キャロライン」(Caroline)に雇われました。

しかし、たった1ヶ月後に解雇されます。彼のデザインは美しかったのですが、キャロラインは魅力的ではないと感じました。彼女はエルテに「ドレスのデザイナーにだけはなるな」と忠告しました。

アウグスト・マッケ「ロシア・バレエ」油彩、カード・ボード / August Macke (1887–1914), "Russisches Ballett 1", 1912, oil on cardboard.

アウグスト・マッケ「ロシア・バレエ」油彩、カード・ボード / August Macke (1887–1914), “Russisches Ballett 1”, 1912, oil on cardboard. via File:Macke Russisches Ballett 1.jpg – Wikimedia Commons

そして、エルテは有名な仕立屋のポール・ポワレに自分のデザインを持って行きました。ポワレなら自分のデザインを理解してくれると思ったのです。

1914年に第1次世界大戦が勃発し、メゾン・ポワレは閉店します。そこで、エルテはポワレ店の前任ドレスメーカーと提携し、大規模なアメリカの小売業者に衣服を販売しました。

この間にエルテは細心のイラスト技術を完成させましたが、ほとんど致命的な猩紅熱の発作が出て、エルテはパリを諦め、モンテカルロで療養します。療養中、彼はフランスという創造的な中心地から遠くに暮らすことで、自分の経歴が無くなるのではないかと気にします。

エルテのイラストが表紙になったハーパース・バザー誌

エルテのイラストが表紙になったハーパース・バザー誌 via The Erté Years – 1915-36 – 140 Years of Bazaar

パリでの復帰

健康が回復すると、エルテはいくつかの絵を「ハーパース・バザー」誌に投稿しました。新聞発行人のウィリアム・ランドルフ・ハーストは同誌との10年間の独占契約をエルテに申し出ました。

彼は新しい名声を得て、1919年には衣裳方で有名なマックス・ウェルディと一緒に、パリのミュージックホールのフォリー・ベルジェール(Folies Bergère)で働くようになりました。フォリーズでの仕事はエルテのエキゾチックなデザインにとって完璧な突破口となりました。

エルテ「フォリー・ベルジェール プリマ・バレリーナ」

エルテ「フォリー・ベルジェール プリマ・バレリーナ」Erte, “Folies Bergere: Prima Ballerina”, Metallic & Gouache on Paper via Erte’s artwork titled Folies Bergere: Prima Ballerina presented by Artophile

米国映画界での仕事

彼の作品はすぐに米国の演劇や映画で取り上げられました。たとえば「ジーグフェルド・フォリーズ」「ジョージ・ホワイトのスキャンダル」(オリー・ケリーが衣装・風景を担当)、「アール・キャロルズ・ヴァニティ」「グリニッジ・ビレッジ・フォリーズ」等。

この頃、米国の映画監督セシル・ブラウント・デミル(Cecil Blount DeMille)がエルテに映画の衣装デザインを依頼しますが、ハーストがエルテを説得し、コスモポリタン・フィルムズと契約させました。

エルテはハーストのために「レストレス・セックス」(1920)の有名な場面、ダンスホールやバビロンの空中庭園をデザインしました。ハーストが前年に着手した Bal des Arts でもエルテは協力しましたが、この作品は実現しませんでした。

ハリウッドでのデヴュー

1924年、MGM社の共同創始者であるルー・B・マイヤーがヨーロッパに旅行した際にエルテを説得しました。それに応じたエルテはハリウッドに引っ越し、MGM社は彼のために精巧な黒・白・灰色のサロンを土地の1区画に作り、彼と彼の恋人ニコラス・オロウソフ(Nicholas Ourousoff)のために家を借りました。

エルテがハリウッドに到着するやいなや、MGM社の広報部は素早く動きました。エルテをハリウッドに連れて来たことで、メイヤーは、フランスの空想デザインで最も洗練された創造者エルテに、ファッションに取りつかれた映画観客者たちをぶつけようとしました。

しかし、そこには同社幹部たちが避けることのできない大きな問題が潜んでいました。エルテのデザインは実用的な衣装に全く変換できず、いくつかの作品は実際に女優たちの自然な振る舞いを強く制限したのです。

メイヤーとエルテとの契約は、ポーリン・スターク主演の「パリ」(1926年)と「モンテカルロ 」(1926年)の2つの映画をデザインすることをエルテに要求しただけでしたが、メイヤーは他の作品への関与も歓迎し、次のような映画がエルテの手に依りました。

「からくり四人組」(1925年)ではエイリーン・プリングル(Aileen Pringle)のガウンをデザインし、「ベン・ハー」(1925年)の衣装類、「ダンス・マッドネス」(1926年)のダンスホールにいくつかの衣装やマスクをデザインしました。

エルテ「モンテ・カルロ」署名入り、セリグラフ

エルテ「モンテ・カルロ」署名入り、セリグラフ / ERTÉ, “Monte Carlo”,

hand-signed serigraph via Discover the art of Erte, father of Art Deco, at Martin Lawrence Galleries

リリアン・ギッシュとの確執

「ラ・ボエーム」(1926年)で女優リリアン・ギッシュ(Lillian Gish)の衣装をデザインした時に問題が生じました。彼女はこの映画で貧しいミミ用にエルテがデザインした羊毛のドレスを着ようとせず、絹のドレスを着ることを主張したのです。

エルテがギッシュにそれは馬鹿げているぞと伝えたところ、彼女は猛烈に怒ってその場を去ったそうです。エルテのデザインしたベル・エポックの衣装は聴衆に対してミミの貧困を正確に伝えないとギッシュは思ったのです。彼女はぼろぼろの絹ドレスを主張しました。

確立されたスターとしてギッシュは、衣装がスクリーンでどのように読まれるかを知っていた上に、望むものを得られる強い影響力を持っていました。彼女は、ムゼッタ役を務めた共演女優ルネ・アドレー(Renée Adorée)にエルテのデザインを拒否するよう説得しますが失敗に終わります。その時、エルテとギッシュとの確執が公になりました。

この確執からギッシュはエルテの衣装を捨て、エルテ同様に映画衣装をデザインしてきたルシア・コールター(Lucia Coulter)にデザインを任せるようになりました。コールターは当時MGM社のワードローブの長にいました。「ラ・ボエーム」の広報資料にはエルテの名前は一切記されませんでした。

リリアン・ギッシュ、ジョン・ギルバート、ルネ・アドレー「ラ・ボエーム」 / Lillian Gish, John Gilbert and Renée Adorée in La Bohème (1926)

リリアン・ギッシュ、ジョン・ギルバート、ルネ・アドレー「ラ・ボエーム」 / Lillian Gish, John Gilbert and Renée Adorée in La Bohème (1926) via Lillian Gish, John Gilbert and Renée Adorée in La Bohème (… | Flickr

MGM社からの離脱

リリアン・ギッシュとの確執があったものの、エルテはそこで躊躇しませんでした。

最後の一藁がエルテをパリで襲いました。メイヤーの最初の広報ではエルテのMGM社赴任が以前に宣伝されました。その後、脚本は4回修正されました。同社スタジオはエルテに対して物語を実現させるために衣装とセットをデザインまたは再デザインするよう依頼しました。

最終的な脚本が承認された時、エルテは3〜4週間で50もの衣装を準備することを期待されました。

エルテの試練はそれだけではありませんでした。

脚本が示すパリはハリウッドが想像したパリであって、エルテが実際によく知っていた都市ではありませんでした。

「映画プロデューサーたちには優雅さや味といった概念がなかった」と後にエルテは語っています。「脚本家たちは不慣れで、映画は幻想的でしたが、有害な種類のものだった。私は集中する必要があったが、MGM社では不可能だった。私は去らなければならなかった」。

1925年11月、彼の離脱が発表されました。

パリでのキャリア末期

MGMを退社したエルテはオロウソフとともにフランスへ戻り、レヴュー、バレエ、オペラの衣装を上手にデザインしました。

1970年代にアール・デコのデザインが復興したとき、エルテは自分の有名な絵画類を複製して財務面で大成功を収めました。彼の有名人の地位は終わりまで耐え忍びました。

彼は1990年4月21日にニューヨークで死去しました。

エルテの位置づけ

エルテの衣装やイラストはエキゾチックで演劇に向いていましたが、セシル・B・デミル監督の映画群に使われたクレア・ウェスト(Clare West)の衣装に比べると奇抜ではありませんでした。たとえば、ウェストのデザインによるバーバラ・ラ・マー(Barbara La Marr)、メイ・マレー(Mae Murray)、ポーラ・ネグリ(Pola Negri)らが着用した衣装の方がエルテよりも奇抜で、異邦人的なデザインでした。

次の写真はパラマウント社「ベラ・ドンナ」の広告です。この映画でポーラ・ネグリの衣装を担当したのがクレア・ウェストかハワード・グリアか定かではありませんが、いずれにしてもエルテの衣装より、下のネグリの像の方が奇抜だと感じます。

ポーラ・ネグリ「ベラ・ドンナ」

ポーラ・ネグリ「ベラ・ドンナ」Pola Negri, “Bella Donna,” Paramount, 1923, via New from the Pola Negri Photo Archive – Write, Re-Write, Repeat

アール・デコは演劇に相応しかったのでしょうか、それとも映画に相応しかったのでしょうか。

映像技術が未熟な当時の映画は、演劇から生まれてきたように私は感じます。画面は粗く、映画は演劇とともに、俳優たちの動作を大きく見せる必要があったのでしょう。ですから、細かい裁縫技術よりも大胆な衣装スタイル(衣装形式)が必要とされたと思います。

とはいえ、そこそこフィットしたスタイルも当時の映画に見られます。こちらは動作の少ない場合に用いられたのか、肖像写真の類型に入るのか、これらの点を意識して今後も映画群を見ていきたいと思います。

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