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アンドレ・アニ:André-Ani – MGM社 エルテの後任

グレタ・ガルボ出演、クレランス・ブラウン監督 Clarence Brown の『肉体と悪魔』1927年。 人物と企業
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アンドレ・アニ(André-Ani)は1901年に米国カリフォルニア州オークランドに生まれたファッション・デザイナーです。MGM社でエルテの後任を務めました(1925年から1928年まで)。

当時、同社は女優の衣装に金銭を出し惜しみせず、アンドレ・アニは重要な女性スターたちのために衣装をデザインしました。

そのスターとは、グレタ・ガルボ(Greta Garbo)、ノーマ・シアラー(Norma Shearer)、クレア・ウィンザー(Claire Windsor)、メイ・マレー(Mae Murray)、マリオン・デイヴィス(Marion Davies)、カーメル・マイヤーズ(Carmel Myers)たちです。彼女たちの多くはプライベートでもデザインを頼みました。

グレタ・ガルボ出演、クレランス・ブラウン監督 Clarence Brown の『肉体と悪魔』1927年。

グレタ・ガルボ出演、クレランス・ブラウン監督 Clarence Brown の『肉体と悪魔』1927年。 Flesh and the Devil via Highlights from the 20th San Francisco Silent Film Festival | Film International

生い立ち

アンドレ・アニの両親はイタリアのコモで結婚し、1888年に米国カリフォルニア州アラメダ郡に移住してきました。

同地に家族は定住し、父は14番街の家から数ブロック離れた場所で大きな酒場を営みました。1903年3月にマッシモは脳卒中を起こし、47歳で突然死亡しました。アンドレ・アニが生まれて2年後のことでした。彼の母親も2か月後の1903年5月に亡くなり、アニと5人の兄弟は孤児になりました。

母親の叔母がアニ兄弟を引き取りましたが、シングル・マザーとして自分の家族を世話することで忙しく、あまり世話をしてくれませんでした。兄弟はいわば急成長を余儀なくされ、仕事と住居を求めざるを得ませんでした。

アンドレ・アニは2歳で孤児になり生活はとても苦しいもので、彼は猫背に悩まされました。兄弟同様、アニは生活費を稼ぐために年齢を高く偽り、大人の世界に入らざるを得ませんでした。

旅立ち : セレクタシン・セリグラフィックス社に画家として就職

アンドレ・アニの芸術の才能が現れ始めた時、友人たちはアニに対して、サンフランシスコで芸術教育を受けるのを手伝ってくれました。アニはたった数日で受講に馴染み、学校の教員たちはアニの能力にとても感心しました。

アンドレ・アニは16歳の時、サンフランシスコのセレクタシン・セリグラフィックス社(Selectasine System社とも)の画家になりました。 その頃、同社はセレクタシン過程を開発していました。この過程は1つの画面と重く不透明な顔料を使用して多色組成物を製造する方法です。

この過程は1918年に「Method of delineating or reproducing pictures and designs」(外部リンク : Google Patent)として特許が取得されました。この技術は1930年代後半までスクリーン印刷を支配し、その後は、より薄い色の層を備えたマルチ・スクリーン過程が選択されるようになります。

セレクタシン・セリグラフィックス社でアニが経験したことは、後に役立ちました。MGM社で衣装を満たす布が見つからなかった時、アニのデザインを社内の布に印刷したのです。1918年にアニは同社を去り、オークランドの叔母の家で独立した画家として仕事を続けました。

映画界での就職

彼がロサンゼルスに移った時期は定かではありません。最初に手がけた映画「If Marriage Fails」(1925年)はオリジナルのフィルムが失われています(ベル・ベネット主演)。

【左】クレア・ウェストによる「For Sale」出演のクレア・ウィンザー用衣装スケッチ。

【左】クレア・ウェストによる「For Sale」出演のクレア・ウィンザー用衣装スケッチ。 Claire Windsor “For Sale”, 1924. 【右】アンドレ・アニによるノーマ・シアラー「His Secretary」用衣装スケッチ。 Norma Shearer “His Secretary”, 1925. (c) Paramount / Kobal Collection via Deborah Nadoolman Landis, Hollywood Costume, p.14.

1925年、MGM社で衣装デザインを担当していたエルテが映画ビジネスに嫌気をさし同社を辞める直前、アンドレ・アニは一緒に仕事をしていました。

エルテが退社した直後、アニはジョーン・クロフォード(Joan Crawford)主演、エドマンド・グールディング(Edmund Goulding)監督の「パリ」(Paris/1926年)の衣装デザインを引き継ぎました。

エルテと違いアニは衣装デザイナーとして長い経歴を持つようになり、ハリウッドの偉大なスターたちの衣装を55本以上の映画でデザインしました。

グレタ・ガルボのハリウッド映画デヴューで衣装デザインを担当

アンドレ・アニは、グレタ・ガルボが1925年にMGM社に着任した時、彼女のハリウッドでの衣装を初めてデザインし、異国的で触れることすら憚れる創造物のようなイメージを作り上げました。

「イバニエスの激流」Torrent(1926年)、「肉体と悪魔」 Flesh and the Devil(1926年)、 「明眸罪あり」The Temptress(1926年)です。

グレタ・ガルボのハリウッド1作目『イバニエスの潮流』の公開スチール。

グレタ・ガルボのハリウッド1作目『イバニエスの潮流』の公開スチール。 via Greta Garbo, 1926 | Surface Noise™

アニはグレタ・ガルボの衣装をデザインする時、かなり困難を抱えいてたと述べています。ガルボには衣服の好き嫌いが多かったからです。

たとえば、毛皮のついた衣服は絶対に着ない、奇妙な襟と袖口を好む、長いスカートを穿くべき時に短いスカートを穿きたがる、等々です。

女優たちの不完全さを隠すために普段からベルベットやブロケードや流れるように柔らかい素材を使ってきたアンドレ・アニにとって、ベルベットに対するガルボの嫌悪感は特に悩みの種となったようです。

MGM社を退社後

1928年にMGM社を去った後、アンドレ・アニは1930年にユニヴァーサル社に勤め、その後、フリーランサーになりました。

彼の最後の映画はハル・ローチ・スタジオ製作、ロバート・ヤング主演の「Vagabond Lady」(1935年)でした。

1953年に彼は故郷のオークランドで亡くなりました。布と鋏の無い生活が想像できないというのが彼の口癖でした。

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