新ドイツ零年 : 概要と様々な東西について

新ドイツ零年 : 概要と様々な東西について

新ドイツ零年 : 概要

元スパイだった主人公が迷う東西ドイツ消滅後の統一ドイツ。主人公のレミー・コーションはカサブランカ会議(1943年)以後忘れられた最後のスパイとして生きてきたが、1990年にベルリンの壁が取り払われドイツ統一が実現した後、仕事を失い一人旅へ出る。その旅の途中、彼に焦点を当てる形でドイツの有名な街並みや文化人が多数引用されていく。主人公は実在する人物とは映されず、単なる人物史に留まる映画では無い。

ジャン・リュック・ゴダール『新ドイツ零年』1991年、フランス。

Jean-Luc Godard, Allemagne année 90 neuf zéro, 1991, France

孤独、何も変わらない(新ドイツ零年)
孤独、何も変わらない(Solitudes, un état et des variations) (c) brainstorm 1991

『新ドイツ零年』にみる様々な東西

本作には様々な東西が出てくる。東ベルリン・西ベルリン、東ドイツ・西ドイツ、東側諸国・西側諸国、東洋・西洋…。街や政府の東西、国家の東西が揺れ、主人公のレミー・コーションは個人の東西の揺れと折り合いを付けようとするが、周囲の人間と打ち溶けあうことは無い。元司令部が書類を無くしてしまい、仕事も見つからない。ベルリンの壁崩壊は、新ドイツに大衆が喚起し、はっきりとした物質的な力となって自由主義は共産主義を打倒したことを示すと確信された。

レミーは旅先のホテルのメイドに尋ねる、「君も自由を選んだのかね」。彼女からの「労働は自由にする」との返事に、一人になって聖書をめくりながら「下衆どもめ」と吐露する。ベルリンの壁が崩壊したことは「理念が大衆に浸透する時、それは物質的な力になる」とかつてカール・マルクスの言った通りの事態。だからレミーにはベルリンの壁の崩壊がマルクスの勝利と映る。世間と主人公との現実理解の壁は、かつてのベルリンの壁のように「長くて短い」。壁のように綺麗に分断されたタマラ・ド・レンピッカ「緑の少女」のカードがくっつけられても、繋ぎ目は残り、状況は変わらない。

新ドイツ零年 (c) brainstorm 1991
タマラ・ド・レンピッカ「緑の少女」1932年/Tamara de Lempicka, Ragazza in verde, 1932, in Allemagne année 90 neuf zéro (c) brainstorm 1991

『新ドイツ零年』にみる東西の変化 : 激動の後に過去は意味を持たない

この作品は、数々の名言が散りばめられているが、とてつもなく単調である。あるいは、フランスの映画監督がドイツ諸文化を引用するという珍しい姿勢の元で、引用を知らないと見ていて退屈である。単調で退屈な理由は、主人公のレミー・コーションがたどるのは自分史ではなく20世紀現代史だからであって、激動の後に過去は意味を持たないことを示しているからだ。その分、映像美に触発されることはこの作品に多い。ところで、主人公のレミー・コーションのように激動を理解はできても納得のできない大人にとっては、激動後の自己闘争は大変となる。映画で述べられるように子供と老人は成長しないが、大人は成長する。十分に老人の部類に入るはずのレミーがいまだ大人であることを歴史や社会から強いられた点が、何とも重々しい。

ゴダールは、政治経済や哲学を語る一方で必ず愛を語るが、この作品で、自分を忘れられず、かといって自分を愛せない主人公には、上手く愛を与えられなかったようだ。せめて彼が、内戦しか知らず、湾岸でしか戦争を経験したことのないUnited States of America(アメリカ合衆国)だったなら、もう少し愛に踏み込めたかもしれない。

kostume(衣装): Alexandra Pitz(アレクサンドラ・ピッツ), Julia Griep(ユリア・グリープ)

ジャン・リュック・ゴダール『新ドイツ零年』1991年、フランス。

Jean-Luc Godard, Allemagne année 90 neuf zéro, 1991, France

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