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ヤフオクで念願の「ドレスメーキング」をゲット

「ドレスメーキング」1949年9月・10月号、通巻3号、鎌倉書房。 日記
「ドレスメーキング」1949年9月・10月号、通巻3号、鎌倉書房。
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初出勤

今日は初出勤、今年は龍谷大学から。

 2019年の初出勤は龍谷大学

2019年の初出勤は龍谷大学

頭痛が続くのでロボットのように淡々と喋ってそそくさと新幹線乗って北区、いやここ都島区。

妻よごめんなさいの帰りまで新幹線。稲荷駅で15分ほど待たされて辛い。観光地化に鉄道も駅も追い付いていない…。2019年1月7日、JR京都駅にて。

妻よごめんなさいの帰りまで新幹線。稲荷駅で15分ほど待たされて辛い。観光地化に鉄道も駅も追い付いていない…。2019年1月7日、JR京都駅にて。

帰ってからも頭痛が取れんので熱測ったら何と36.1度。エコ岩本が36度超えると、けっこう辛いです…。

ヤフオクで念願の「ドレスメーキング」をゲット

とりあえず、年末年始にがんばったヤフオクから、ぼちぼちと雑誌が到着。

まずはトヨクヒ・コーヒーに5冊ほど置いていてテンション上がっていた「ドレスメーキング」。創刊号には手が出せないけど、第3号、なんと1949年! なんと1000円!(74年のは500円!)頑張った!

「ドレスメーキング」1949年9月・10月号、通巻3号、鎌倉書房。

「ドレスメーキング」1949年9月・10月号、通巻3号、鎌倉書房。

両親が7才くらいの1949年のと、わてが4才くらいの1974年のと。カメラ技術が全く違いますが、1949年の方が質感ばっちり。何かと1970年代は既に貧しくなっていたようです。まぁ、8月号という季節柄、服が軽量になるので仕方ない面も。

「ドレスメーキング」1974年8月号、通巻285号、鎌倉書房。

「ドレスメーキング」1974年8月号、通巻285号、鎌倉書房。

今のデザイン業界、ファッション業界は文化式の一辺倒。ドレメ式は衰退していて、「ドレスメーキング」誌は1993年頃に廃刊。他方の文化式(文化学園大学系)は今でも健在で「装苑」誌の刊行も続いています。文化もええけど、ドレメと競合していた時代は活き活きしていますね。

1949年版をパラパラめくって知ったのは、裁縫用語の「仮縫い」を当時は旧字体で「假縫い」と書いていたことです。

伊東茂平「私のきもの」7冊

そして日本の草創期ファッション・デザイナーである伊東茂平の主宰する雑誌「私のきもの」シリーズ。これもヤフオクで買いました。7冊で2,000円だったので入札者に感謝。しっかり勉強させて頂きます。

伊東茂平「私のきもの」シリーズ。私のきもの社。1960年頃に刊行された7冊。

伊東茂平「私のきもの」シリーズ。私のきもの社。1960年頃に刊行された7冊。

これは表紙とタイトルの「ギャップ」に惹かれました。「着物」は着るものであってキモノに限定されるものではないという大らかな時代を想像させたからです。これが刊行されたのは1960年。ちなみに1950年の「婦人画報」の連載「意匠学講座」で田中千代はスーツまでも漢字で「着物」。呉服業界への断固とした拒否でしょうか、潔さと本質を垣間見ることができます。

着物は着る物ではなくなった

この後にキモノ用語が普及していったのか、それで呉服業界は蛸壺にはまって自爆したのかなと想像しますが、一筋縄ではいかないようです。「着物」「和服」「キモノ」が洋服とともに普及していくのは1920年代にも見られた現象ですが、アンチ洋服の代名詞として和服という言葉が1950年代・1960年代に普及していったことが次の言葉から伝わってきます。

私のきものが伊東茂平先生の命名で創刊されてから満15年、「私のきもの」という独自な名前によって皆様のご愛顧を得て参りましたが、時代の変遷とともに「私のきもの」という語感も創刊当時と大変違い、殊に最近海外に進出することが多くなるとともに、和服と誤解されることがしばしばなので、この際、16年目の第1号新春号より私のきものを「モード・エ・モード」と変更することになりました。それと同時に伊東先生の作品こそ大型化する必要を痛感し、A4版と型を変え、一層内容の充実化を計って皆様の御期待に添いたいと思いますので私のきもの同様「モード・エ・モード」を御高覧下さるよう御願いいたします。

この「私のきもの改題のお知らせ」が掲載されたのは改名の前号にあたる第60輯・秋号(1960年)5頁。着物を海外にアピーすることが増えた時代に和服という言葉が強く理解されるようになり、着物と同義的に使われはじめました。そして、着物(着る物)という一般的な意味を排除したということです。ちょうど西洋服飾史家たちがドレスという言葉に過剰な意味を加えようとする傾向と同じです。

伊東茂平

伊東茂平は戦前から戦前からファッション・デザイナーとして活躍していた肩で、1929年にイトウ洋裁研究所を設立、1946年に伊東衣服研究所を設立しています。1950年に同研究所は東京都世田谷区、名古屋市中区、兵庫県尼崎市、大阪市南区にあったことが確認されます(「婦人画報」1950年9月号)。

1952年には学校法人女子美術大学の付属洋裁学校を開設。1960年頃には西武百貨店が招聘して西武学園伊東衣服研究所を開設しました。

フラッパー・ガール時代とは?

「私のきもの」をパラパラめくっていると、面白そうなタイトルの記事。この記事は伊東茂平へのインタビューで、「きく人」に伊東孝(伊東夫人)、伊東達也(一族色の濃い雑誌だな)、安東武男の3人。

冒頭の小見出しが《「1925年」の復活》と意味ありげなカギカッコ付きなので少し読みますと、1960年頃に流行していたフラッパー・ガールは、もはや新しいファッションを提起できない現代だから仕方のない傾向だとの悲観的見解。

私はモードが1970年代に停止した(ネタが尽きたという意味で)と思うのですが、伊東茂平は1960年には停止していたという見解ですね。モード史で最も活気があったようにも思える1960年代、およびその前の1950年代がダメだったと見る説は面白いです。

しかも、1925年を最も生々しく感じさせるのは、1960年代の最も奇抜なファッション・デザイナーの一人だったピエール・カルダンクリスチャン・ディオールは少ししか1925年の影響を感じないけど、カルダンは露骨だというわけです。1950年代のカルダンの服をきちんと調べてみて、いずれ見解をまとめたいところです。

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