ロイ・ホルストン・フローイック : Roy Halston Frowick

ロイ ホルストン フローイック Roy Halston Frowick は、 ホルストン社の創業者で、1932年、アメリカのアイオワ州デモインで会計士の次男として生まれたファッション・デザイナーです。母親から裁縫の影響を受け、7歳のときに作ったフエルトのクローシェが処女作といわれています。10代には、母と姉妹のために帽子を作成して、服装を潤色し始めました。1学期だけインディアナ大学に通い、1952年にシカゴへ引っ越し、そこでアート・インスティチュート夜間部に通い、ウィンドウドレッサーとして働きながら、ファインアートを学びました。カット、ディテール、仕上げにわたり職人的技法を駆使した、ファッション界における最初の国際的スーパースターと言われます。

ホルストン イヴニング・ドレス 1978年頃
ホルストンのイヴニング・ドレス 1978年頃 via Halston | Evening dress | American | The Met

ロイ・ホルストン・フローイックの創業

1957年にホルストンはニューヨークへ移り、ミシガン・アベニューで、自分の最初の店「Boulevard Salon」をオープン。この時から、自分のブランド名にミドルネーム Halston を使うようになりました。また同年、リリー・ダッシェの帽子部門のスタッフも務めました。。ダッシェとの出会いは、25歳年上の恋人で当時有名だった美容師アンドレ・バシルの紹介によるものです。すぐさまダッシェの共同デザイナーとして活躍しました。ここで、ファッション・エディターや出版社との交流が深まり、翌1958年からは、バーグドルフ・グッドマン百貨店の帽子部門(ミリネリー部)で、帽子デザインに専念。その頃、ジョン・F・ケネディが大統領在任中にジャクリーン夫人のために制作したピルケース・ハットが、「あの大きな頭にもフィットする!」ということで、一世を風靡。「ジャッキー・ケネディ・ピル・ボックス」と呼ばれました。1962年には早くも婦人帽子の斬新な作風でコティ特別賞を受賞しています。

ホルストン の多角経営化と売却

1966年にホルストンは自店を増やし、ドレス部門にも手を広げ、1968年にホルストン・リミテッドを設立しました。翌1969年、トータル・ファッションをテーマに初めてコレクションを開きました。1970年には、ホルストン・インターナショナル社を設立。1972年、プライベートな顧客のためにクチュール・サロンを開設したのち、既製服、セーター、レイン・ウェア(雨着)、毛皮、香水、紳士服、タオル、スポーツ・ウェア、香水、家具のデザインなど、多方面に活躍を続けます。ホルストンは生活全般に至る多くの部門を開設し、ライセンス・ビジネスも含めて一大「ホルストン王国」を築きました。1970年代の半ばまでには、民族衣装を意識したペザント・ルックが、ヨーロッパのデザイナーたちによって作成されていましたが、ホルストンは、堅苦しさを持っていたヨーロッパ・タイプのペザント・ルックに対し、頑なに抵抗しました。1973年にベルサイユで行なわれたファッション・ショーで、ロイ・ホルストン・フローイックは極端に単純なドレスを発表し、ファッション界を驚愕させたといわれます。

また、彼は極端に細いモデルを起用し、自分の作品を着せていましたが、アメリカ合衆国の全ての女性にドレス・アップさせる自信を持ってもいました。1978年、『ニューヨーク・タイムズ』のファッション部編集者のバーナディン・モリスにロイ・ホルストン・フローイックが語ったことによると、「太い女性にも何かドレスアップしなきゃ。たとえば、チュニックとズボンはいいよ。だって、ボディを延長するんだから。お尻の大きい女性には、プリンセス・ラインがピッタリだ。それに、体形のよくない女性には、カフタン調ドレスがグッド。」

ホルストンのライセンスは、日本では東レのエクセーヌ(ウルトラ・スエード)が独占し、生産が間に合わないはどの成績を収めたといわれます。これは、「ホルストンのウルトラスエード」という名で、1970年代のアメリカで最もポピュラーなドレスとなりました。1つのパターンで4万5000枚も売れたという記録があります。色の選択と、ウォッシャブルだった点が成功の要因だと分析されています。しかし一方で、ロイ・ホルストン・フローイックはゴシップ記事を賑わす面もありました。ニューヨークの悪名高いナイトクラブ「スタジオ54」の常連となり、そこでドラッグを使用していることが報告されたり、ライザ・ミネリとともに、同性愛者の休日の行楽地でのパーティーに参加しているところを目撃されたりしました。

1973年、ホルストンの商号は、ノートン・サイモン・インダストリー(NSI)の一部となりました。1975年、メンズ・ウェアと香水部門を新たに展開。香水「ホルストン」は豆の形をしたボトルで、そのデザインは、エルザ・ペレッティが手がけました。しかし、NSIとの提携は、望んだほどの利益をもたらしませんでした。それに、自分がデザインしていない商品にまでホルストンの名前が使われることを嫌いました、それを拒否すれば、自分が期待する生産レベルを維持できないこともロイ・ホルストン・フローイックは知りました。こうして、ホルストンというブランドは、眼鏡から、エイビスのレンタカー従業員の制服にまで見られることとなりました。

ホルストンの衰退は1982年に始まりました。NSIからの依頼で、ロイ・ホルストン・フローイックがJCペニーとライセンス提携して価格を下げたラインを展開したため、高級百貨店バーグ・ドルフがホルストンとの提携を破棄したのです。これを機に、長年のクライアントたちも、別のブランドへ寝返りを打つようになります。結果、ロイ・ホルストンは、自分の会社を巨大なコングロマリットに売却しました。1980年代に自分のブランドに対する権利をホルストンは失いました。その後、ロイ・ホルストン・フローイックは、1988年にエイズと診断され、1990年3月、サンフランシスコにて、エイズ関係で併発した肺癌によって死去しました。

ホルストン アンサンブル 1967年
ホルストンのアンサンブル 1967年 via (a) Halston | Ensemble | American | The Met

ロイ・ホルストン・フローイックの作風

作品はシンプルな美を追究し、軽量で概念的な芸術原則に基づいたシンプリシティ(単純さ)は、イヴ・サンローランのファンタジーを痛烈に批判したこともあります。カシミヤのセーター、シャツ・ウェストのドレス、単純で上品なズボンなどが代表的で、「ファンシーなドレス」とはほど遠いものです。ロイ・ホルストン・フローイックのシンプリシティにかかれば、夜会服でさえ、実に単純で魅力的でセクシーな作品となりました。有名人の顧客はずば抜けて多く、先述のジャッキー・ケネディ・オナシスをはじめ、カトリーヌ・ドヌーヴ、エリザベス・テイラー、ベイブ・ペーリー、シルヴァーナ・マンガーノ、バーバラ・ウォルターズ、ローレン・バコール、マーサ・グラハム、ビアンカ・ジャガー、ベティ・フォード(フォード元大統領夫人)、パット・ニクソン、アリ・マッグロー、ライザ・ミネリらを顧客に持っていた。コティ賞は3度受賞。


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[投稿日]2017/02/18
[更新日]2017/05/25