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旗袍 : 世界で最も知られた民族衣装の概説と歴史

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旗袍 : 概説

旗袍 qipao とは、スーツを除けば旗袍は世界で最も知られた民族衣装です。スリット(開衩)、立領(詰襟、チャイナ・カラー)、斜め開きの襟(大襟)、首→右肩→右脇腹へ規則的間隔で留めるチャイナ・ボタンなどで有名なドレスです。

旗袍の英語表記は qipao (チーパオ)。英語文献では長衫(cheongsam)、つまり長い着物と表記されることもしばしば。厳密にはチャイニーズ・ドレスですが、日本ではチャイナ・ドレスとよく呼ばれます。

旗袍を掻い摘んでまとめますと、中国清朝を支配した女真族(満族)の長い衣装が呼称の由来です。漢民族は満族を旗人と呼んでいました。その後、現在にいたる旗袍の原型が形成されたのは1920年代・1930年代のことです。

なお、旗袍が導入した洋裁技術の内容をスリム化およびボディ・コンシャス化の観点から記した記事は「旗袍の洋服化」をご覧ください。

アトリエ・レイレイ atelier leilei : チャイナ服の専門店
アトリエ・レイレイ atelier leilei / チャイナ服の専門店 : 妻が運営する手作りチャイナ服の店 アトリエ・レイレイ (atelier leilei)を紹介しています。ブログでは制作日誌、着用日記、衣服文化などについて書いています。ショップではチャイナ服を専門とし、大人の女性が着る上品なチャイナ服をコンセプトにしています。

旗袍の歴史

清代の旗袍

女真族(満族)が着用していた頃の旗袍はズボンと組み合わせて着用されました。後代に比べてゆったりと感じる布の量感は綿入や袷の習慣があったためです。

次の写真は廣州集成圖像有限公司所蔵のものです。写真の角度と被写体の角度から、立領と開衩が目立ちませんが、大襟は左の女性からは太い10本ほどの縁取り線を、真ん中の女性からはナルト風に装飾された布がパイピング(縁取り)としてあてがわれていることを確認できます。真ん中の旗袍の下方に縫目があります。これは左右の綿入が混ざって異動するのを防ぐためで、清代旗袍にはよく見られます。

清代満州族の旗袍 清代滿族的旗袍

旗袍 : 清代満州族の旗袍 清代滿族的旗袍 via 旗袍百年變奏 展現中國古典美 – 太陽報

洋服の民族衣装への影響

中国、朝鮮、日本、ベトナムでは古代中国から衣服(主に漢服)の影響を強く受けてきました。その内、朝鮮と日本では、それぞれツー・ピースおよびワン・ピースの形態を採った衣装として一部の人々に展開してきました。チマ・チョゴリ(치마・저고리)と着物(きもの)です。

これらはいずれも20世紀になってから、洋服からの影響を受けて民族衣装として再編成されたものです(「和服の洋服化 : 衿元・胸元と端折りの関係から」ほか)。チョゴリ、着物、アオザイ、旗袍を貫通する決定的な変化は綿入の消滅でした。このうち中国の旗袍は、ベトナムのアオザイ(Áo dài、襖)と同じく洋服の影響を強く受け、身体のラインを強調する裁縫技術が積極的に導入され、1世紀前の姿とはずいぶん違うようになりました。他民族衣装への旗袍の影響は「袖形成と上下の組み合わせからみた東アジア民族衣装の展開」をご参照ください。

民国期旗袍の変化

曲線造体・緊身的方向の発生

民国期に旗袍は漸次的に洋裁(西式裁縫)を採り入れました。1910年代・1920年代には清朝期旗袍に対し細くなりました。綿入が消滅したので、旗袍が柔らかく見えるようになります。しかし、1930年代からは旗袍の緊密性や拘束感が強まります。体型が如実に表れ、身体に密着する立領と身頃が際立ってきます。

旧旗袍は長袖でしたが、新旗袍の袖の長さは色々で、袖無や半袖が多く長袖は少数でした。新旗袍は1910年代半ばに上海で流行した後,1920年代から1940年代にかけて全国的な広がりを見せました。特に広東省広州市辺りでは爆発的な人気を呼びました。

1930年代キャバレー内で写された5人のダンス・ホステスたちの写真。

1930年代キャバレー内で写された5人のダンス・ホステスたちの写真。 A photo of five dance hostesses taken inside a cabaret in the 1930s. via Beneath the Glitz and Glamour: The Untold Story of the “Lancing” Girls | BiblioAsia

それからというもの、袖の長さ、立領の高さ、開衩の深さ、丈の長さ、柄の豊富さ、身体密着度などが旗袍の多様性を構成していきました。これらの傾向は地域と時期によって異なります。1930年前後の代表的な旗袍は、北京拠点の京派と上海拠点の海派の違いが有名です。いずれの旗袍も綿入が消滅しましたが、生地柄は後者の方が西洋風に華美で、また腕と足の露出を強めていました。新しい旗袍が「曲線造体」(身体に沿う曲線、スリム化)で構成され、「緊身的方向」(身体密着的な方向、ボディ・コンシャス化)に形成されたのは、欧米の裁縫技術を取り込み、立体構成で作られるようになったからです(詳細は「旗袍の洋服化」)。

セット・イン・スリーブの導入

旗袍が導入した洋裁技術の一つに接袖が挙げられます。旧旗袍は肩と袖が水平に連なっていて(連袖または平連袖)、衣服形態上に肩と腕という区別が存在しませんでしたが、1940年頃から新旗袍は接袖(set-in sleeve)を採り入れ、肩と袖が別々に裁たれた後に縫合されるようになりました(接袖)。肩・袖の裁縫方法が変化したことは新旧の間にある地味ですが決定的な変化です。

図 3 実験衣1(民国期型旗袍) 図 4 実験衣2(現代旗袍) いずれも蔡蕾作成。

図 3 実験衣1(民国期型旗袍) 図 4 実験衣2(現代旗袍) いずれも蔡蕾(atelier leilei)作成。

上の写真、図3が連袖の旗袍、図4が接袖の旗袍です。前者に運動性が高い点は別の記事で記しています。ご参照ください。

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アトリエ・レイレイ atelier leilei / チャイナ服の専門店 : 妻が運営する手作りチャイナ服の店 アトリエ・レイレイ (atelier leilei)を紹介しています。ブログでは制作日誌、着用日記、衣服文化などについて書いています。ショップではチャイナ服を専門とし、大人の女性が着る上品なチャイナ服をコンセプトにしています。

ダーツの導入と乳房の強調

旗袍が導入した洋裁技術の2点目にダーツが挙げられます。脇ダーツ、腰ダーツ、胸ダーツが着用者の好みや着用状況に依って選ばれる場合がありました。ダーツは衣服を女性の身体に一層フィットさせ、スリム化を超えてボディ・コンシャス化に向かいます。

マニッシュ・ルックやギャルソンヌ・ルックなどに見られた Flat boy-like の基準が退化し、欧米では1930年代にブラジャーが立体的になり、それとともに女性美基準に乳房が加えられるようになりました。辛亥革命から北伐にかけての20年間で中国の女性解放運動(feminism)は盛り上がり、その一部に天乳運動が起こりました。これは従来から束縛されてきた女性の乳房を開放させる運動です。それが欧米の女性美基準の変化と呼応して、中国でも乳房を強調することが増えていきます。

1926年5月の雑誌「良友」から

旗袍のイラスト 「良友」第4期、1926年5月、5頁

旗袍のイラスト 「良友」第4期、1926年5月、5頁

1933年6月の雑誌「良友」から

旗袍のイラスト 「良友」第77期、1933年6月、見開き1頁

旗袍のイラスト 「良友」第77期、1933年6月、見開き1頁

顕著なのは路上の広告や雑誌の広告と記事に水着が増えたことですが、上のように同じ雑誌でも1920年代と1930年代では旗袍と乳房の描写が変わっていきます。見比べてみて下さい。1926年5月版では二人の女性の脇下から腹部にかけての線はほぼ直線です。これに対して、1933年6月版では脇下から既に乳房が膨らみはじめ、腰にかけてかなり窪んだ線になっています。

とはいえ女子学生の制服としての旗袍はスリム化したとはいえボディ・コンシャス化するまでに至っていません。次の写真は1930年代上海の女子学生たちを写したものです。

旗袍を着た女子学生たちの写真(上海、1930年代)。

旗袍を着た女子学生たちの写真(上海、1930年代)。Pictured are female students in 1930s Shanghai. via Changing Fashion of Chinese Women in Last Century – All China Women’s Federation

上海とはいえ学生たちの旗袍の丈は長いです。しかし、スリットは手前一番右の女子学生の場合、膝頭直下まで入っています。学生としては長い気がしますが、この原因が軽い運動を学校でするからか、上海だからか、どちらかは分かりません。出典元の Women’s Foreign Language Publications of China によると「qipao was gradually modified to highlight curves of women’s chest, waist and hips」ですから「旗袍は変化し、女性の胸・腰・尻の曲線を強調していった」ということです。

肌着・雑貨の変化と戦時の物資不足 : 映画「ラスト、コーション

1940年代まで旗袍の裾丈は足首から膝までを上下しました。脚を見せるという選択肢が旗袍に備わったため、当時は主として防寒目的で膝下を覆うストッキングやタイツが穿かれるようになりました。同じ目的で外套も着られ始めました。脚の露出はハイ・ヒールのパンプスが好まれました。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナ・ボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。

映画「ラスト・コーション」でタン・ウェイが旗袍を脱ぐ場面。チャイナ・ボタンを一つずつ外していきます。中からスリップ・ドレスが見えています。LUST|CAUTION (c) 2007 Haishang Films

上の写真はアン・リー監督の映画「ラスト、コーション」(Lust|Caution, 2007)の一場面です。1942年の上海が舞台です。

タン・ウェイ(湯唯 Tang Wei)演じるワン女士がトニー・レオン演じるイー氏の前で旗袍を縫いで行く場面です。チャイナ・ボタンを一つずつ外していき、中からスリップ・ドレスが見えるようになります。

さらに旗袍を捲ると、次の場面のように、彼女はガーター・ベルトとストッキング(合わせてガーター・ストッキング)を穿いていることがわかります。この直前の場面で、彼女のストッキングは後が縫われているシーム・ストッキング(フルファッションド・ストッキング)でした。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。

タン・ウェイが旗袍を捲ると、中からガーター・ストッキングが現れました。LUST|CAUTION (c) 2007 Haishang Films

ラスト、コーション」のヒロインタン・ウェイは1万人の中から選ばれました。候補にはチャン・ツーイーやスー・チーらもいました。当時の旗袍を着て演技する難しさをタン・ウェイは次のように話しています。

チャイナドレスを着こなすには、歩き方や座り方だけでは不十分で、その背景にある文化を理解しなければ駄目なんです。先生からは昔の人たちの日常生活、たとえば歯の磨き方などまで、いろいろなことを教えていただきました。それから、膝に輪ゴムを巻いて、脚が開かないように動く練習もしましたね(笑)。普段の私はボーイッシュな格好をしていることが多く、チャイナドレスはおろかスカートさえめったにははかないんです。この撮影を通じて、自分の少しは女性として成長したかなと思います。via 張一帆編『聴く中国語』日中通信社、第74号、2008年2月号、5・6頁。

チャイナ・ボタンの着脱やガーター・ストッキングの着脱は結構手間のかかるものです。ボタンに関しては1940年頃からはチャイナ・ボタンの裏側にホックを付けるようになりました。おそらく戦後、ファスナーが一般的となり、チャイナ・ボタンはホックの時期と同様に見せかけの物になっていきます。

チャイナ・ボタンは手作業で作るには、小さい割に手間暇かかるので、現代旗袍ではほとんど機械製で、着用時にボタン留めではなくファスナーに代替されています。ガーター・ストッキングはパンティ・ストッキング20世紀半ばからパンティ・ストッキングに代替されていきます。

民国海派旗袍赏 : 南京金陵大学学生,摄于1940年

民国海派旗袍赏 : 南京金陵大学学生,摄于1940年 via 相册_POCO空间_POCO网(POCO.CN)

上の写真は、1940年に撮影された南京金陵大学学生たちの海派旗袍だと転載元に説明されています。抗日戦争(日中戦争)時、物資欠乏と節約強要は中国も日本も同じでしたが、旗袍には国産布を用いたため衣服の材料生地は不足しませんでした。とはいえ、かなり装飾が質素になっています。なお、私の妻が2015年に雲南省博物館で開催された海派旗袍展に行きました。その感想が写真付きで「海派旗袍展-雲南省博物館 | atelier leilei」に詳しく述べられていますので、ご参照ください。

近代香港への旗袍の影響

香港では、裕福な上流階級の妻や娘、映画女優や歌手、それに売春婦など、色んな女性が新しく用意されたトレンドを受け入れ、旗袍を着ていきました。テーラーやドレス・メーカーたちは、顧客とともに新しくて壮大なデザインを作っていきました。

① 1938年金谷白蘭地月份牌畫(Golden Valley Brandy calendar poster, 1938.) ② 1920至1930年代徳国徳利香水肥皂廠月份牌畫(Calendar poster for Georg Drall, a soap manufacturer from Germany, 1920s - 1930s.)

① 1938年金谷白蘭地月份牌畫(Golden Valley Brandy calendar poster, 1938.) ② 1920至1930年代徳国徳利香水肥皂廠月份牌畫(Calendar poster for Georg Drall, a soap manufacturer from Germany, 1920s – 1930s.) via Inspirational Thoughts: Another Display of Old Hong Kong (c) Inspirational Thoughts

旗袍は新しいファッション・アイテムとして、1920年代・1930年代の上海、広東、香港で大々的なプロモーションが行なわれました。特にカレンダー・ポスターが外資系企業や中華系企業に依って作られ、旧暦年末に顧客にプレゼントされました。広告ポスターも多種多様に旗袍を着た女性たちをスケッチしています。

チーパオや洋服を着た女性たちを描いた広告ポスター via 協興隆老広告 11 Old Advertisement of XienXing Long, 11st series.

チーパオや洋服を着た女性たちを描いた広告ポスター via 協興隆老広告 11 Old Advertisement of XienXing Long, 11st series.

新奇なドレスを着た美しい女性のイメージは、これらの広告カレンダーや広告ポスターの中で最も人気のある主題となり、旗袍はそれを描く画家たちの間でも大変な人気を呼びました。こうしたポスターは、後に衣服を学ぶ学生たちにとって重要な画像ソースとなりました。

近代台湾への旗袍の影響

20世紀前半の台湾では、台湾総督府からの圧力と中国大陸への敬意に挟まれた形で服装が変化していきました。1911年以降、辛亥革命の影響を受けて留学帰りか高学歴の若者を筆頭に、男性は断髪にスーツ、女性の場合も断髪にワン・ピースとして着る西洋風ドレスや、ジャケットにスカートやズボンというツー・ピースが流行し、革靴も普及しました。1920年代になると一般的に男性の大半と子供が西洋風の服装を取り入れ始めました。旗袍が大陸や香港経由で台湾へ普及しはじめたのは1930年代になってからのことです。こうして、戦時期には西洋風、伝統的ツー・ピースとともに旗袍は選択肢の一つとなっていきます。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。

1937年に撮影された盧山婦女談話会の写真。左から3人目が張維楨、4人目が宋美齢、右から2人目が呉貽芳、1番右が高君珊の各女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、36頁・37頁。

伝統的ツー・ピースとは清朝期漢族のツー・ピース衣裳で中国大陸のみならず台湾でも着用されていました。植民地化以降にも洋服との共通性から普段着として着用が続けられました。1920年代には洋服の影響から身体に沿った形へ生地が減量し、先述のように1930年代後半以降は上海からの影響で旗袍が増えていきます。

台湾総督府による同化政策が強化されたのは1936年以降のことで、特に旗袍では特有の布製ボタン(チャイナ・ボタン)を別のボタンへ付け替えるよう強制されました。しかし、台湾女性は従来通り着用を続けて抵抗し,総督府は1942年頃に諦めました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。

Chi-Chien Sewing College の教師と生徒(台北、1935年)。1940年代に女性雑誌が普及し、海外の裁縫技術が多種にわあり導入され、この写真のように西洋ファッションは日常着として台湾女性たちに浸透していきました。そして伝統的な台湾ドレス・日本ドレスは減退しました。 Courtesy of Mr. Li Fu-li via Claire Roberts, ed., Evolution and revolution: Chinese dress 1700s-1990s, Powerhouse Publishing, 1997, p. 82

和服は式服の一種として用いられる場合があったようで、総じて台湾では、19世紀末からの政治的背景のもとで「中・洋・和」の服装混合現象が生じました。台湾における「中・洋・和」服は、洋服>旗袍・漢服>和服の順に多く着用されました。旗袍は漢服同様に日本人から蔑視され、作法の強要が付随する和服は嫌われ、洋服には抗日の意味合いと世界標準への平等性が期待されていたわけです。(以上、台湾に関する記述は、岩本真一『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』オンデマンド版、思文閣出版、2017年、111頁・112頁を引用・要約しています)

戦後の旗袍 : 中国大陸・香港・台湾

中国大陸

1950年代は絹や綿の生地で半袖や長袖の旗袍が愛用されていました。丈は膝頭と踝のちょうど間くらいの落ち着いたものが多く着られました。1950年代は旗袍の歴史の最後の華でした。

他方で抗日戦争から国共内戦に至る過程で女性の軍装化が進み、藍色または藍灰色の干部服、列宁装(列寧装)、棉大衣などが好まれました。特に列宁装は中性化された女性服と言われます。これらはいずれも折り領や折った立領になっていて、多くはセット・イン・スリーブ。領は旗袍とは異なった形で西洋服の影響を受けたものでした。

特に文化大革命によって旗袍は概ね禁止され、その上半身部分をジャケットにしたチャイナ・ブラウスが下衣のズボンとともにツー・ピースとして普及します。

チャイナ・ブラウス : 基本は旗袍

チャイナ・ブラウス : 基本は旗袍 Balzac and the Little Chinese Seamstress (c) 2003 UCV, LLC. (c) 2003 United China Vision.

文革期農村の男女を題材にしたダイ・シージエ(戴思杰)監督の映画「小さな中国のお針子」Balzac Et La Petite Tailleuse Chinoise巴爾扎克与小裁縫, Balzac and the Little Chinese Seamstress)では上のような衣服が登場します。

チャイナ・ブラウスにゆったりしたズボンのツー・ピース

チャイナ・ブラウスにゆったりしたズボンのツー・ピース Balzac and the Little Chinese Seamstress (c) 2003 UCV, LLC. (c) 2003 United China Vision.

これは上の場面のように2部構成が念頭に置かれ、文革の指導方針通り運動性を確保しました。ブラウスも機能性を確保するために、接袖では無く連袖になっている点に注意して下さい。

香港

他方、香港の旗袍はどうだったのでしょうか。1950年代・1960年代に、旗袍はとても人気が出て、さまざまな年齢の女性や外を歩く全ての女性たちが少なくとも1着か2着の旗袍を衣装家具に持っていました。10代学生、事務員、主婦、ウェイトレス、職業婦人たちは、自分の地位にふさわしい旗袍様式を見つけていきました。

最も有名なスタイルの1つは、ハリウッド映画「スージー・ウォンの世界」The World of Suzie Wong (1960) でスージー・ウォンを演じたナンシー・クワン Nancy Kwan(關家蒨)着たミニの旗袍です。

ナンシー・クワンが演じたスージー・ウォンの黒色ミニの旗袍。

ナンシー・クワンが演じたスージー・ウォンの黒色ミニの旗袍。 via The World of Suzie Wong (1960) | Pretty Clever Films

これをきっかけに、香港のエンターテインメント業界の女性たちは、とてもタイトな旗袍を着るようになり、深いスリットから脚や輪郭が露わになりました。テイラーたちは、腰と尻の周辺部分を補強する依頼を多く受けました。笑ったりくしゃみをしたりして自分の着る旗袍が裂けるのを止めたかったからです。

旗袍には反対者たちもいました。1960年代初頭、香港社会の保守的なメンバーたち、女性団体の指導者たち、そして宗教団体は、保守的な服装を促進するキャンペーンを始めました。高いスリットを持つタイト・フィットな旗袍を避けるように女性たちに勧めました。出版社の報道では、ナイトクラブで働く女性の一部がスリットにファスナー(ジッパー)を縫い付ける折衷策を講じ、スリットの高さを状況に合わせて調節できるようにしました。

1960年代から1970年代にかけて、香港では旗袍のピークを迎えました。その後、中後年女性のみが着用するようになり、フォーマルなイベントでは旗袍に合った素材の洋服ジャケットを併用するようになりました。

次の写真は1960年代の香港を舞台とした映画「花様年華」の一場面。数十着もの旗袍が出てくる映画として有名です。

ウォン・カーウァイ『花様年華』

ウォン・カーウァイ『花様年華』(王家衛『花樣年華』/Wong Kar-wai, in the mood for love) (c) 2000 by Block 2 Pictures Inc.

香港では立領が高く、緊縛的といえるほどスリムでボディコンシャスな旗袍が流行りました。袖は接袖が主流です。丈は膝頭が隠れる程度で、座ると膝頭がちょこんと見えます。スリットは今ほど深いものではなく、太腿の中ほどまで切り込まれています。といっても、民国期旗袍よりも丈が短くなっているので、スリットはかなり深いように感じてしまいます。

スリットは今ほど深いものではなく、太腿の中ほどまで切り込まれています。

スリットは今ほど深いものではなく、太腿の中ほどまで切り込まれています。王家衛『花様年華』 (c) 2000 by Block 2 Pictures Inc.

この映画に出演した女優、レベッカ・パン(潘迪華)は「当時のチャイナ・ドレスというものは10cmくらいの高い領がほとんどだった」と述べています。主演女優のマギー・チャン(張曼玉)は映画の撮影を振り返って、次のようにインタヴューに答えました。

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。女性特有の美しいライン、その美しいラインをくっきり見せることができる。領の高い部分とか。最初は慣れなかった。ドレスはきついし、ハイ・ヒールも辛い。髪のセットや化粧も長かった。

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。

チャイナ・ドレスは女性を美しく見せる服。王家衛『花様年華』 (c) 2000 by Block 2 Pictures Inc.

台湾

抗日戦争終了後、日本人は台湾を去りましたが、50年間にわたる植民地支配の影響は直ちに解消されたわけではありません。その上、国民党と共産党による内戦の結果、蒋介石主導の国民党政権が台湾に逃亡してきました。そして、それまで居住していた台湾人と中国本土から新しく到着した人々の文化と行政の違いが衣装に反映されていきます。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。

1940年頃の姜蘊華(左)。中国瀋陽にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

中国式の衣服は、今日のように急速に変化しなかった。そのため、1945年以降の写真は、優雅に目立つ中国大陸の女性と、改装された伝統的な服装の台湾島の女性が共存し、日本人と西洋人の衣服も重なっていきます。両女性間の服装の差異は短期間だけ続きました。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。

(上)1962年に撮影された鄭雪霏氏。米国留学時に搭乗した船にて。 Courtesy of 鄭雪霏女士(下)姜蘊華・胡崢嶸夫妻。台中公園にて撮影。 Courtesy of 胡季明女士。 via 羅麥瑞主編『旗麗時代―伊人、衣事、新風尚―Qipao : memory, modernity and fashion』國立臺灣博物館・輔仁大學織品服裝學系、2013年、48頁。

結局のところ、西洋文物の流入と大規模な工業生産の影響下で、台湾人は徐々に西洋化していきました。当時の衣料は、1960年代から世界中で流行したナイロンのような人工繊維が台湾でも普及していき、その意味での国際化が実現しました。それとともに、生地柄の色やデザインは西洋的なものとなり、特に幾何学的デザイン、チェック(格子柄)、ストライプ(縞柄)が流行していきました。

アトリエ・レイレイ atelier leilei : チャイナ服の専門店
アトリエ・レイレイ atelier leilei / チャイナ服の専門店 : 妻が運営する手作りチャイナ服の店 アトリエ・レイレイ (atelier leilei)を紹介しています。ブログでは制作日誌、着用日記、衣服文化などについて書いています。ショップではチャイナ服を専門とし、大人の女性が着る上品なチャイナ服をコンセプトにしています。

現代旗袍の確立 : 1980年代・1990年代 中国大陸の旗袍

文化大革命が過ぎ、1980年代から旗袍は今と同じ奇抜な形態を持ち始めました。文革後の中国ファッション業界は春を迎えました。

1980年代を通じて人々は直ぐにでも旗袍の人気が出ると予想しました。社会がより寛容になるにつれて人々は美しいファッションを目指すだろうから、旗袍には流行の余地があると考えられました。しかし予想に反して旗袍は直ぐには人気が出ませんでした。

旗袍の不人気

それもそのはず。まず、文革後の解放感は多くの中国人の目を外に向けさせたからです。人々は外部の事物を熱狂的に追求し始めました。ドレス、ベルボトムス、ヘア・スタイル、フットウェア…。爪先から頭まで西洋を模倣しました。

そして1960年代・1970年代の中国で旗袍はほとんど着られなかったため、旗袍を仕立てられるドレス・メイカーやテイラーがいなかったからです。ブロケードやサテンその他の伝統的なドレス生地はほとんど無く、メーカーは新しい布を見つける努力もしませんでした。また民国期の連袖旗袍を作る技術もありませんでした。

旗袍の陳腐化

そのため旗袍の業者たちはそのラインを変更し、プリントされた派手な柄、深いスリット、袖無し、短い丈を特徴にする旗袍を作り始めたわけです。生地の節約と裁縫の簡素化によって旗袍は陳腐な衣装になりました。

さらに、1980年代・1990年代に女性の仕事範囲は拡大し、野外活動が増えました。生活のスピードも加速し、現代社会における女性の理想的なイメージは若さと活力に満たされたものになりました。

このような結果、旗袍の形態は簡素な方向に均一化されていき、イベント衣装やレストランの制服になっていったわけです。

現代旗袍の方向 : 無限の中西合併

現代旗袍は丈が短くなったことと、スリットが尻臀にまで深まってきたことが特徴です。これらの方向性は1920年代から見られた長短・深浅の延長線上にあります。

西洋と中華が一体化することをよく中西合併と呼びます。20世紀の旗袍史は洋服と旗袍との中西合併そのものでした。現代旗袍は今もこの枠組みに収まっています。

附属品を含めた中西合併

附属品を含めた中西合併を見ましょう。既に述べたように一つ一つ留めていたチャイナ・ボタンの着衣作業はホックやファスナーで代替されるようになりました。極端な事例は次の写真です。

現代旗袍の一例。大襟全体をジッパーに代替させた旗袍。ポリエステル製。

現代旗袍の一例。大襟全体をジッパーに代替させた旗袍。ポリエステル製。 © 2017 latest style, fashion design via Buy Knee Length Side Zipper Sheath Qipao Dress :

また、戦後の香港で見たように、スリット部分のファスナーももちろん、今では大襟部分全体をファスナーにしたり、後身頃を二つに割ってファスナーを付けたりと、着やすさが追求されるようになっています。

現代旗袍の一例。袖にトランスペアレントなメッシュの長袖部分は別売。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。

現代旗袍の一例。袖にトランスペアレントなメッシュの長袖部分は別売。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。 © 2012-2017 cozyladywear.com. via Blue Long Sleeve Chinese Qipao / Cheongsam Dress

この写真は現代旗袍の一例です。素材はレーヨンとヴィスコースです。商品詳細には「Hidden zipper at back」とあります。この作品を後から見ると次の通りです。後身頃真ん中がくっきりと割れていることが分かります。襟元から腰辺りまでジッパーを上下させて着脱します。

現代旗袍の一例。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。後身頃真ん中がくっきりと割れていて、襟元から腰辺りまでジッパーを上下させて着脱します。

現代旗袍の一例。レーヨン、ヴィスコース製、2017年。後身頃真ん中がくっきりと割れていて、襟元から腰辺りまでジッパーを上下させて着脱します。 © 2012-2017 cozyladywear.com. via Blue Long Sleeve Chinese Qipao / Cheongsam Dress

また、このページでは紹介しませんが、現代旗袍の中には大襟を止めて中襟にする旗袍も出ています。そうすると領が立っているだけで旗袍と呼べるのかどうかという問題が出てきます。つまり、旗袍の定義が崩れてしまうわけです。

その意味で現代旗袍は行き場を失い、単に雑になった気がします。民国期旗袍(近代旗袍)の方が多様で深みがあったように感じます。次に紹介する生地を含めた中西合併が行きつく所でしょうか。

生地を含めた中西合併

たとえばサンフランシスコで活躍するデザイナーのセシリア・チィエン(Cecilia Chiang)。

彼女の作品は旗袍の不変要素(立領・大襟・スリット)をベースにした作品がほとんどですが、ヨーロッパへ旅行する度に現代風の生地をよく購入します。そして仕立屋に指示して縁飾りや刺繍を加えたり、着古されたアンティークなガウンから切り取った部分を加えたりしています(以上、Saks show celebrates Lunar New Year with clothes designed by Cecilia Chiang – San Francisco Chronicle)。

一目惚れ

そんな思いをしながら、私は上海灘(SHANGHAI TAN)というブランドの次の旗袍に一目惚れしました。アンドレ・クレージュを思わせるパイピング(縁取り、ストラップ)の使い方が格好良いです。対照性の強いストラップなので、ラフな割に余りルーズに感じません(と思うのは私だけか…)。

コントラストの効いたパイピングの毛織物製旗袍(上海灘 SHANGHAI TAN)。

コントラストの効いたパイピングの毛織物製旗袍(上海灘 SHANGHAI TAN)。Wool Contrast Strap Short Sleeve Qipao Dress via Wool Contrast Strap Short Sleeve Qipao Dress

旗袍という言葉

中華民国議会では旗袍の言葉の是非がたびたび議論されました。旗袍という名前が旧政府の清朝を想起させるという理由からです。しかし,長衫や長袍等,候補に挙げられた呼称では男性衣服名と混同するという理由で,結局は旗袍で統一されていきます(1920年代初頭)。1929年4月に国民政府が「服装条例」を公布し、旗袍が女性の礼服として正式に決められました。

旗袍のデザイン・ポイント

以下の3箇所は旗袍の製作過程の中でもっとも難しくて手間のかかる作業です。

  • 高い領
  • チャイナ・ボタン
  • パイピング(縁取り)

旗袍の領を高くする場合は、硬い芯地を入れます。そうすると、型崩れせずキリっとした形になります。チャイナ・ボタンは市販の物よりも自分で作った方が形が良く、かけ易くて長持ちします。縁取りは配色のアクセントが大事です。違う色の生地を使ったり、幅広くしたり、二色使いでダブルにしたりと、パイピング(縁取り)一つで旗袍の表情も変わってきます。

妻の運営するチャイナ服専門店「アトリエ・レイレイ」。ぜひお越しください。

妻の運営するチャイナ服専門店「アトリエ・レイレイ」。ぜひお越しください。 via atelier leilei

アトリエ・レイレイ atelier leilei : チャイナ服の専門店
アトリエ・レイレイ atelier leilei / チャイナ服の専門店 : 妻が運営する手作りチャイナ服の店 アトリエ・レイレイ (atelier leilei)を紹介しています。ブログでは制作日誌、着用日記、衣服文化などについて書いています。ショップではチャイナ服を専門とし、大人の女性が着る上品なチャイナ服をコンセプトにしています。

旗袍 : 過去の展覧会

旗袍は世界で最も知られた民族衣装です。旗袍や変容期の民国時代の文化について、日本でもしばしば展覧会が催されてきました。

神戸ファッション美術館「チャイナ×チャイナ×チャイナ」

チャイナ×チャイナ×チャイナ チラシ@神戸ファッション美術館

チャイナ×チャイナ×チャイナ チラシ@神戸ファッション美術館

神戸ファッション美術館「チャイナ×チャイナ×チャイナ」は2008年07月12日~2008年10月07日まで開催されました。その趣旨は次の通りです。

チャイナドレスは中国語で「旗袍」といい、現代では世界的に注目されているファッションアイテムの一つです。近年、多くのデザイナーたちがデザインソースとして用い、映画では『花様年華』や『ラスト、コーション』において、その美しさが映し出されていることは、周知のことでしょう。
その歴史を辿ってみると、清朝の貴族である「旗人」たちが着装した袍服から派生し、20世紀初頭の上海で現在のかたちが誕生したといわれています。
清朝期の伝統旗袍から20世紀初頭~中葉にかけて流行した「新型旗袍」まで、襟や袖のかたちを含む、シルエットや色、模様など、さまざまな変化をお楽しみください。あわせて現代旗袍、そして京劇や崑劇の衣装も展示します。この展示により世界中を魅惑し、影響を与え続けているチャイナドレスの魅力を再考する機会になれば幸いです。 via 展覧会・イベントの紹介 | インターネットミュージアム

連袖と接袖の違いについて踏み込んだ解説は有りませんが、旗袍の転換期(人に依っては誕生期)を20世紀初頭~中葉と見ていて、襟や袖の形の変化、シルエット、色、模様の変化が生じた点は、やはりダイナミックなものだったと想像できます。

長崎歴史文化博物館「チャイナドレスと上海モダン」

謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン チラシ@長崎歴史文化博物館

謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン チラシ@長崎歴史文化博物館

長崎歴史文化博物館「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン」は2011年1月29日~2011年3月27日まで開催されました。東北芸術大学に勤務される謝黎さんが集めた旗袍数百点のうち厳選した約170点が展示されました。チラシには

20世紀初頭の上海で現在の形が誕生しました。租界を通じた西洋文化の浸透や、消費文化の拡大を背景に誕生したこの新しい衣装は、やがて当時の「摩登女子(モダンガール)」の流行ファッションとして一世を風靡します。 via 長崎歴史文化博物館|年間スケジュール:企画展

と述べられています。中華民国時代(民国期)にあたる1920年代・1930年代に旗袍は劇的な変化を遂げていきます。その内、古風なものは京派(つまり北京風)、新奇なものは海派(つまり上海風)に分離し、それぞれの風格を持って行きました。日本で発行されたものの中ではこの展覧会のカタログは一番詳しいです。

ブリヂストン美術館「描かれたチャイナドレス」

描かれたチャイナドレスー藤島武二から梅原龍三郎まで チラシ@ブリヂストン美術館

描かれたチャイナドレスー藤島武二から梅原龍三郎まで チラシ@ブリヂストン美術館

ブリヂストン美術館「描かれたチャイナドレスー藤島武二から梅原龍三郎まで」は2014年04月26日~2014年7年21月まで開催されました。チラシには

1910年代から40年代にかけて日本人洋画家が描いた中国服の女性像30点と、同時代のチャイナドレス6点を展示したものです。東西文化の融合やオリエンタリズムの側面から、成熟していく日本洋画の展開を紹介」しました(via 展覧会ポスター 1952 – 2015 | ブリヂストン美術館)。

と記されています。日本人画家が中国服に魅了された当時の様子を感じられます。1920年代後半に旗袍およびチャイナ・ブラウスは日本でも流行しました。

兵庫県立美術館ほか「チャイナ・ドリーム 描かれた憧れの中国」

チャイナ・ドリーム 描かれた憧れの中国―広東・上海 チラシ@兵庫県立美術館

チャイナ・ドリーム 描かれた憧れの中国―広東・上海 チラシ@兵庫県立美術館

「チャイナ・ドリーム 描かれた憧れの中国―広東・上海」は2004年に下記美術館でそれぞれ開催されました。兵庫県立美術館(7月24日~8月29日 )・福岡アジア美術館(9月4日~10月17日)・新潟県立万代島美術館(10月23日~12月5日)。この展覧会は旗袍を主題にしたものではありませんが、中国印刷技術の変遷をイラストから辿るというもので、カタログには清朝期旗袍、民国期旗袍、人民共和国期旗袍が随所に登場します。特に1920年代から1940年代にかけて商業ポスターに描かれた旗袍が多く見られます。

関西学院大学博物館「装いの上海モダン」

装いの上海モダン 近代中国女性の服飾 チラシ@関西学院大学博物館

装いの上海モダン 近代中国女性の服飾 チラシ@関西学院大学博物館

「装いの上海モダン 近代中国女性の服飾」は関西学院大学博物館で2017年10月28日〜12月16日まで開催されました。この展覧会は、広岡今日子さんが1987年から集め始めた旗袍の一部を公開したものです。

収集された旗袍は100点を超えるとのことで、在日旗袍研究者の謝黎さんを思い出します。ただ、カタログ『装いの上海モダン―近代中国女性の服飾―』を見ると、チャイナドレスという言葉には「もやっとした気分」(同書4頁)になられるとのこと、半ば同感です(私の場合、残りの半ばは諦め)。

チラシの裏には近代旗袍が「1920年代から30年代に全盛期を迎えた新しい服装であり、当初は日常着としても着用したため、多くの人が想像する「チャイナドレス」とは異なる実用にかなったもの」記されています。連袖旗袍まで踏み込んだ理解では無いかもしれませんが、既に述べた連袖の運動性や機能性がやはり当時の中国で十二分に発揮されていたことが再認できます。

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コメント

  1. 持永あい子 より:

    再コメ 失礼致します 上海灘は上海のは行きました。全体に洗練された商品でしたが、これは素晴らしいですね。随分前に東京の銀座に出店しましたが、内容がお粗末で集客出来るかしらと思いました。今は多分無いと思います。

    • 岩本真一 より:

      上海灘の銀座店も日本進出もあったことを知りませんでした。ネットで調べてみたら2009年秋頃に閉店していますね。このページの上海灘のは配色が好きで(紅白)、パイピングが少しだけアンドレ・クレージュを思い出させてくれるので、気に入っています。紅色が地でパイピングが白色だったから、なお良かったのですが…。

  2. 持永あい子 より:

    このページも興味深く拝見しました。謝黎さんの神戸の展示は見に行きました。ブリジストンのも見に行きました。ブリジストンでの実物の展示は謝さんの提供でした。
    そのブリジストンの展示を見た上海から麗澤大学に留学して来た院生の論文作成に指導教授から頼まれて可成りの時間話しました。論文のコピーは指導教授から送られて来ましたが、最後のページに私の制作文章がそっくり記載されていて、驚きました。その院生は一言のお礼の言葉も無く帰国して仕舞いました。

    • 岩本真一 より:

      コメントありがとうございます。このページはサイト内で最も時間を注いだ記事の一つです。修士論文かのような勢いで、調べては書き直しを続けてきました。2007年・08年頃には明らかに中華圏の留学生の不勉強が目立つようになりました。あい子さんの助言はお役に立たれたようですが、注釈なしの引用や修士号取得後の一報無し、などは留学生らしいと言いますか…。豊かになるとレベルが下がるのは仕方がありません…。
      旗袍を調べるようになったのは2010年頃からだったと思います。そのため、謝黎さんの展示会もブリヂストンの展示会も行ってません…。著書やカタログで勉強しました。ブリヂストンの展覧物の実物が謝さんのものだとは知りませんでした。300点以上集められたとのことで脱帽ものです(ラベル分析が欲しい所ですが)。