ニュー・キモノ

ニュー・キモノ : 衣服的根拠と経済的根拠

ニュー・キモノ とは、新たな発想で制作された現代和服の総称です。ニュー・キモノが着物として認識されるのは、着物の普遍要素・不変要素たる、袂のある広袖、平肩の袖(連袖)、打ち合わせの裾を含むためです(詳細は「和服の洋服化 : 各部の不変と既変」)。

商品として根拠とされるのは既製服で安価なもの。20世紀を通じて極端にフォーマル化された注文仕立の着物とは異なる商品戦略の上に、ニュー・キモノは成立しています。したがって、ニュー・キモノは若年層に断続的に流行してきました。また、アンチ・フォーマルに基づくため、素材の自由度も広がり、絹に限らず、ウール(羊毛)、綿、合成繊維のポリエステルなども積極的に使われています。

ニュー・キモノ : 断続的な人気

ニュー・キモノ は、大塚末子が1950年代に発表した着物類を端緒にします。この着物は、袖口を絞った上衣にモンペの下衣が組み合わされ、プリント柄が採り入れられていました。当時は、ニュー・キモノという言葉では理解されず、まさに着物を普段着として着るために考えられていました。

大塚末子の ニュー・キモノ
大塚末子のニュー・キモノの一例 via 学校法人大塚学院 創立者・大塚末子の横顔

その後、ネックレスやイヤリングなどのアクセサリーを付ける着方が増えました。高度成長期を経て、バブル経済の段階に入った1980年代中頃から、近代(明治・大正・昭和初期)を想像させる色や柄の着物が流行し、それらも最近ではニュー・キモノと呼びます。しかし、近代を一括できる時点で、着物は異文化となり、伝統衣装とは呼べなくなっています。大塚末子が考えた普段着としての着物が現在からかけ離れたのが1980年代。この時期以降に刊行されたファッション辞典類にニュー・キモノという言葉が初めて記されるようになります。

ニュー・キモノの流行は大きく三つに大別されます。1に、1950年代から1960年代にかけて、2に、1980年代、3に、2010年代です。簡単に説明します。

1950年代~1960年代

この段階は、大塚末子を発端にします。アンチ・フォーマル・ウェアとして、普段着の着物を意識して作られていました。たとえば、

  • 大塚末子『新しいきもの双書〈第5〉部屋着・ねまき・下着』婦人画報社、1959年 (amazonへ)
  • 大塚末子『きもの実用学―晴着からふだん着まで―』婦人画報社、1967年 (amazonへ)

には、普段着を軸とする設計理念が垣間見られます。

ニュー・キモノの素材は絹に限らず、ウール(羊毛)や綿を使う場合もありました。しかし、1970年代の石油危機頃から消費が鈍化し、洋服の中でもスポーツ・ウェアが人気となり、街頭でも運動着が着用されるようになりました。他方で着物業界は硬直化し、フォーマル一辺倒に傾きます。戦前から始まっていた複雑な規範化が1970年代に強化され、成人式や結婚式のフォーマル・ウェアとして、暴利商売の土台が形成されました。

1980年代

次にニュー・キモノが流行となったのは、新装大橋の大橋英士が火付け役となりました。雑誌『anan』でニュー・キモノ特集が組まれ、中森明菜が「Desire」をニュー・キモノで披露しました(「きもの文化と日本」78頁)。中森明菜は「Desire」のシングル・レコードのジャケットに着物を着たため、この曲の場合はテレビ出演でも着物にこだわりました。下にyoutubeを貼り付けますが、この着物、かなり雑でダサい印象です。もちろん、歌唱力はエグい。

この時期のニュー・キモノは、ポリエステルで5万円くらいのものも販売され勢いは良かったのですが、DCブランドをはじめ100ほどの商号(ブランド)がひしめき合って、需要規模を遥かに超えた供給過多に陥り、数年で一気に消え去りました(「きもの文化と日本」78・79頁)。

2010年代

2010年頃から日本では京都を中心に観光立国が目指されるようになりました。2014年まで日本は韓国に観光業で負けていたのですが、京都観光地化に成功したことが一つの起因となり、韓国との順位がチェンジします(詳細は外部リンク「世界観光ランキング – Wikipedia」をご参照ください)。国内・海外からのリピーターが長期的に確保できるのかはかなり怪しいですが、京都観光地化には、着物を着ると街中の喫茶店やレストランでおまけをして貰えるという「京都きものパスポート2016~2017」等の仕掛けがあったと思われます。

京都きものパスポート2016~2017
京都きものパスポート2016~2017

個人的な実感では、この試みは海外からの旅行客にも大人気を呼んでいます。20年ほど前まで閑古鳥しか鳴いていなかった鴨川デルタにまで、国内観光客も外国人観光客もやってきます(一部は着物を着て)。そして、もう一つ、「きもの文化と日本」の共著者の一人、矢嶋孝敏(株式会社やまと代表取締役会長)は1990年代から浴衣を積極的にカジュアル・ウェアとして販売するようになりました。最近、どちらかといえば着物よりも浴衣に観光客の人気が集まっている点は1990年代に起因を求められそうです。

まとめ

和服の洋服化以後、20世紀を通じて着物は、19世紀の姿を失いました。ニュー・キモノは、フォーマルでは無いカジュアル路線を行くものですが、当然ながら、胸元の緩みは無く、端折りの弛みもありません。裾を引くこともレンタル着物では出来ませんし(自分や家族が買ってくれたものでも裾は引けませんが)、綿入もほとんどされません。ニュー・キモノがどれほどカジュアルを目指そうとも、19世紀の着物・和服が持っていた自由な着方を許すものでは無く、あくまでもフォーマルの廉価版という束縛から逃れることはできません。

大丸弘・高橋晴子『日本人のすがたと暮らし―明治・大正・昭和前期の「身装」―』三元社、2016年

非生活的需要への依存という現象が、(花柳界と;岩本注)おなじような立場におかれた和服にもみられる。そのひとつは、日本人の心の故郷、日本の民族衣裳だから大事にしよう、という、いわば超越的観念化。第2は、むしろその非日常性の上に居直ったともいえる、アイデア遊びとしての、各種のニュー・キモノ。第3は、非日常的なものであるからこそ、人目を確実に惹く、という価値、いわば異装性の強調、などがそれである大丸弘「現代和服の変貌Ⅱ―着装理念の構造と変容―」『国立民族学博物館研究報告』千里文化財団,第10巻1号、1985年7月、220頁)

生活向け衣服として改良に失敗した着物・和服は、根本的な限界を孕んでいることを知って下さい。中森明菜は「Desire」でニュー・キモノ(和服)を確かに着ましたが、それ以外の曲では、ひたすら洋服だったことを想起すべきです。

なお、和服の洋服化については、以下の記事をご参照ください。


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[投稿日]2017/05/30
[更新日]2017/05/30