モード とファッションの関係

モードとファッションのずれ

このページではフランス語と英語をかけあわせて, モード と ファッション の関係を考えています。「モードとモデラート」で述べたように、20世紀後半に日本で洋裁が大流行した時、日本で先鞭を切っていた服飾研究者や衣服設計師たちは、挙って高級品や一品物の流行をモード、汎用品・量産品・低級品の流行をファッションと捉えました。この誤解は日本が服飾後進国であったことを物語り、また現在でもこの性格から抜け出られていません。

戦前から戦後にかけて、ファッションということばのうえでの誤解はが生じたのは、日本人にファッションへのあこがれを最初に教えてくれたのが、パリのオートクチュールのデザイナーたちの名前だったためもある。その誤解とはファッションとモードのつぎのような区別だ。パリの少数のデザイナーたちの、芸術作品ともいうべき創作物がモードであるのに対し、そのパテントが主としてニューヨーク7番街のアパレルメーカーに売りわたされ、アレンジされて、大衆化したかたちと価格で普及したものがファッションである、という説明だ。(大丸弘・高橋晴子『日本人のすがたと暮らし―明治・大正・昭和前期の「身装」―』三元社、2016年、530・531頁)

フランス語と英語にみる モード と ファッション

フランスとアメリカの2地域の衣服・服装が日本に導入されて以来、高級なフランスと低級なアメリカという区分、そしてOrder Made(注文生産)のフランスとReady Made(既生産)のアメリカという区分が日本で確立していきました。そこで、服飾に関わる言葉の幾つかをフランス語と英語を比べてみます。
フランス語 英語
mode fashion
magasin store
boutique shop
maison house
Nouveau new
Prêt à porte Ready to wear
Prêt à faire ready made
haute couture high fashion
beauté beauty
style

vogue

style

vogue

フランス語で言えば格好良い言葉が、英語で言えば安っぽく聞こえてしまいます。逆に言えば、日本では聞き飽きた程度に深くアメリカ文化が浸透しています。

モードとファッション : 日本のフランス受容とフランスの実情

戦後日本では、服飾系専門学校及び女子大学家政学部系に導入された裁縫教育はフランスのモード産業化の影響を受けた経緯があります。この事態には、19世紀後半から20世紀転換期にかけてリヨンを始めとするフランス絹織物業の国際的地位が低下する背景がありました。イギリス産業革命の成果としてマクルスフィールド等の織物産地が絹織物生産を開始したためです(以上、岩本真一「一九世紀後半の日本絹織物業における機械化過程と世界史的背景―杉田定一の海外視察旅行に関連して―」大阪経済大学日本経済史研究所『経済史研究』第12号、2009年)。そのため、フランスでは代替産業としてモード産業が選択されました。その後、1954年にフランスの衣料・服飾品とそれに付随する高級感を世界的に普及させることを目的とした企業団体「コルベール協会」(現コルベール委員会)が設立され、積極的な既製品販売が導入されました。

文化服装学院を訪問したピエール・カルダン。1960年代のミニ流行前に、学生の大半が膝頭を出している。
文化服装学院を訪問した引き気味のピエール・カルダン。1960年代のミニ流行前に、学生の大半が膝頭を出している。作業用のドレスやスカートはミニの方が良い。 via Designer | Pierre Cardin

このようなブランド産業化の一環として、1958年以降、ピエール・カルダン()がしばしば来日した事例が挙げられます。当時の日本では闇雲に歓迎されました。しかし、トイレにもカルダンと揶揄されたライセンス戦略は、カルダンのブランド力を低下させた一面もありました。ファッションやブランドの後進国であり糠喜びが絶えなかった日本の企業は競い合ってライセンス戦略に順守したのです。ピエール・カルダンやアンドレ・クレージュ( / Andre Courreges)はオート・クチュール業界の内部から既製品を推進しました。それを受容した日本はオート・クチュールの権威を借りて、オート・クチュールでは無い製品(つまり既製品)を製造販売し始めた訳です。次の写真はフランスのポーにあったクレージュのアトリエです。トルソーがあり、アイロンがあり、ミシンがあり、そして人間がいます。ごく普通の製作所です。

モード と ファッション ポーにあるクレージュのアトリエの様子 (c) Courreges / DR, ディディエ・グランバック『モードの物語―パリ・ブランドはいかにして創られたか―』古賀令子監修、井伊あかり訳、文化出版局、2013年、130頁
ポーにあるクレージュのアトリエの様子 (c) Courreges / DR, ディディエ・グランバック『モードの物語―パリ・ブランドはいかにして創られたか―』古賀令子監修、井伊あかり訳、文化出版局、2013年、130頁

さて、日本の高度成長期、ピエール・カルダンは、1958年に日本デザイン文化協会から招かれて初来日し「立体裁断を日本のファッション関係者に紹介」しました。その時、文化学園で作品ショーも開催したり(学園の歩み | 学校法人 文化学園)、特別技術講習会を開催したり(ドレメの歴史 | Doreme ドレスメーカー学院)しました。続く60年代に日本では百貨店がカルダンの作品を輸入し始め、70年代になると日本のデザイナーたちが渡仏し始めました。20世紀中期のモード産業における仏日関係は、大英帝国の没落と日本帝国の上昇が交錯した20世紀初頭の日英同盟に近しい事態に思えて仕方ありません。

なお、この点は、蓮實重彦・山内昌之『20世紀との訣別―歴史を読む―』(岩波書店、1999年)が興味深い議論をしています。蓮實重彦はハリウッドに対抗するヨーロッパ映画産業のブロック化の立場や、日本の映画会社が欧州ではなく米国へ視察団を派遣した経緯に注目する一方で、山内昌之は当時日本が重要な段階にあった対露関係にあって、英国との同盟に一定の高評価を与える姿勢で返答しています。蓮實は日英同盟を英国の没落と判断し、山内は日本の国際デビューの一始点であると判断している訳です。日英同盟を日本側の理由のみで理解するのは一面的であり、蓮實の外的観点は一考に値します。

フランス詣 : モードとファッションに関する日本の研究者の欠陥

フランスのモード業界の事例が示すように、栄光もあれば没落もあります。モードは格好良いがファッションは普通とか、ブティックは選ばれた店だがショップはどこにでもあるとか、このような意識には、フランスに対する服飾コンプレックスがにじみ出ています。

『フランス・モード基本用語』(深井晃子・原由美子・石上美紀編、大修館書店,1996年)に顕著なように、服飾におけるフランスの動向は未だに研究上の規範とされています。深井晃子は「最も頻繁に話題に上る最強の高級ブランドの多くを生んだフランス」(深井晃子編『ファッション・ブランド・ベスト101』新書館,2001年,16頁)との認識を示していますが、この引用文からは「最強」と「高級」が根拠無きままブランドに形容されることによって、説明項に転化されています。転化の際に着目されるのは「いわば経済学者が数値化しにくい曖昧な部分。しかしそれこそが、多くの人々をひきつける価値を生む部分」(同、15頁)です。〈多くの人々をひきつける価値〉って、一体何なのでしょうか?

また,この「曖昧な部分」は「伝統の技、吟味された材料、時代を読み込んだ美的センスなり新鮮さ、そうしたものがその商品には詰め込まれている」(同上)という隠蔽を経た上で読者の理解を要求しています。このような神話化がブランド品と同様にモード論やブランド書籍では頻繁に行なわれてきました。引き合いに出されている「経済学者」という比喩は「曖昧な部分」を曖昧なままに残すことで何某かの価値が存在するかのような錯覚効果を読者に与えるには都合が良いものです。

なぜフランスのブランドが高級なのかは説明をせずに、フランスのブランドは高級であるがゆえにフランスのブランドを紹介するといった姿勢がモードやブランド関係の著書群を貫いています。いわばフランス・モードならぬ「フランス詣」という態度です。その意味で衣服史研究や服装史研究における文明開化は現在も継続され、留学を権威とした帰朝報告が後を絶ちません。(フランス詣については、岩本真一「衣服用語の100年─衣服史研究の諸問題と衣服産業の概念化―」に詳しく論じたので、そちらもご参照ください。

冒頭で引用した大丸弘・高橋晴子の指摘から衣服史研究や服装史研究を出発したいところです。


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[投稿日]2017/01/20
[更新日]2017/05/30