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20061116

小袖の変化

(1)中世後期
①公家の上層では白平絹(下着)、武家では小袖の重ね着や奇抜な成金趣味的デザイン(上着)。
②小袖の着流しの普及 ⇔ 摺箔、刺繍、唐織物、緞子等の生地。
③身幅が広く、袖幅の狭い小袖の出現 ⇔武家や町衆等の裕福な都市居住者たち 。
④平絹を除く絹織物では、経糸に生糸、緯糸に練糸を利用し、生地に張りがある。

(2)近世前期
①身幅が狭く、袖幅の広い小袖の再現…慶長小袖として富裕層へ。庶民は平安時代末期以来、これ。
②練絹の再活発化…飛鳥・奈良時代に貴族階級で流行していた「綺 」が沙綾・緞子として再普及。
└ 一説では、中国の明王朝滅亡後に大量の職工が日本に渡り堺を中心に製織 → 西陣へ普及。
③慶長小袖の変化…慶長後半期、デザインにおける区画の抽象性が変化し、山形や雲形等の具象性へ。
④小袖デザインの進化…細密・濃厚な文様と色彩(寛永小袖)や、大柄で動的な文様(寛文小袖)へ。

(3)近世中期
①小袖の定型化
├武家だけでなく町人も、袖付から袖口まで円弧を描いた小袖を着用(江戸中期まで)。
└身体の輪郭を現わしやすい柔軟な生地と、身体とのスペースが狭まった織幅。
②小袖の選択肢…形状のデザインではなく、材質、色、文様デザインに主眼。
└絹織物においては、西陣機業の多くが公家・上級武家向けから町人向け製品の製造・販売へ。
③生地デザインの変化
├絣 の登場…江戸時代中期後半から、腰替りの筋や格子の中か無地の中へ絣の利用が開始。
├縞柄 の普及…技術的には既に平安期に製造可能だったが、江戸中期に縦縞が町人の間で流行。
└友禅染の意義…17世紀末に登場し、小袖の模様染に画期的な影響。一定の技術水準に達した18世紀中葉以降、デザイン細部の複雑化へ主眼がシフト。
※小袖のキーワード:桃山時代の小袖、慶長小袖、寛文小袖、友禅小袖(友禅染)。

(4)「江戸の下着」
①室町時代における変化─小袖の下着から上着への変化
東の国の野蛮な兵士たちの生き方が、次の時代の生活スタイルを作った。重ねられたキモノは次々と脱皮される。袴の切れ目からは下着がのぞく。短くなった活動的な上着の袖からも、下着があらわになる。下着はいやおうもなく人目にさらされ、ついに完全に脱皮されて、下着は上着となる。貴族や武家の男や女たちの肉体は、農民や兵隊や労働者たちと同じ衣装の下で生き始める。その脱皮によって上着となった下着を、「小袖」という。小袖が上着に転化するとともに、着物がはち切れんばかりに、肉体が「動き」始める。
田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995年、243~244ページ。
②小袖にみる上着と下着の「揺れ」
上と下、表と裏という対立は常に動き続け、一定ではない。江戸時代の下着についてよくわれることは、禁制が厳しいために下着で贅沢をした、という見方である。じじつ、上着と下着の区別がないはずの農民にいたるまで、木綿の縞の上着の下に、絹、縮緬の肌着や、紺や紅の木綿(基本は麻。木綿は贅沢品。染はなおさら高価)の下帯を使っていたことがわかっている。…中略…為政者そのものが、上着に禁制をきびしく、下着の禁制をゆるくしていたためなのである。贅沢をしていないかのようなふりを、みんなでしていたからである。
田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995年、248ページ。

近世における産地の事例(1) ─桐生の織物業、村山の紅花生産、河内の木綿

(1)桐生の織物業─「関東の西陣」の勃興と「京都西陣」の衰退
①中世後期…仁田山絹(桐生付近)・日野絹(藤岡付近)で和糸の平絹生産⇔西陣中心の中国産白糸
②近世前期…幕府 が1685年以降は白糸輸入を制限し、1713年の国産糸使用、養蚕奨励策を提起。その後、1722年に三井越後屋が出店、翌年からは京都から吟手染が導入。1733年には紅染め。5年後の38年には高機が伝えられ、30年に生じた西陣の大火によって職工が大量に流入。
③近世中期…1743年に縮緬、45年に絽、48年に飛沙綾、50年代前半に紋絽の生産開始→江戸・京都へ販売。西陣側は、44年に桐生産織物の販売禁止を幕府へ誓願(西陣高機屋仲間31名)。
④近世後期…1783年に水力利用の撚糸器「八丁車」が開発され、5年後再発した西陣大火により、織物師や徒弟達が流入、緞子、金襴、繻子、御召縮緬、天鵞絨(ビロード)等の高級織物の産出。天保年間(1830~44年)にマニュファクチュア経営開始(堅染→紡績→染色→機織→製織)。
⑤地域間分業…北上州の養蚕、中上州の製糸、桐生・伊勢崎の織物。

(2)村山地方の紅花生産─京都紅花問屋への抵抗
①近世前期…元禄期に紅花生産が活発化。特に、出羽国村山地方(現/山形県村山市)が筆頭。
②近世中期…1735年に京都で紅花問屋14軒、紅粉屋(紅染屋)が148軒、幕府の指定を受け、京都入荷の紅花が紅花問屋の独占下に。以後、価格調整は生産者側になく、問屋側に掌握されたため、1740年には京都町奉行所にて問屋仲間の廃止を要求した裁判が頻発。1765年に問屋は全廃。京都の問屋全廃後は加工過程の利潤が増加し、村山地方は小規模なマニュファクチュア経営も含め隆盛。

(3)河内木綿の広がり─稲作以上の長期作業が可能
①17世紀後半…宮崎安貞『農業全書』で、河内・和泉・摂津が既に高利潤との指摘。
②18世紀前半…一大産地へ。干鰯・油粕などの綿作肥料が周辺で大量に調達可能。
③実綿・繰綿の販売の仕組み…大坂の問屋等に販売するか、農家自体が素朴な下機を用い綿布に。
④綿布販売の仕組み…摂津・河内産は大坂の問屋へ、和泉産は堺の問屋へ。※堺の自治と今井町。
⑤綿作技術の伝搬…18世紀中期には、丹北郡東出戸村(現/大阪東住吉区長吉)で59名の奉公人が就業し、世紀後半にかけ減少(特に播州姫路が最多)→奉公人による各地への綿作伝播へ。

近世における産地の事例(2) - 加賀絹(金沢藩)の場合

(1)北陸地方の経済的基礎
・日本海側における米穀生産地帯 ←17世紀以降の活発な新田開発
・『耕稼春秋』にみられる生産力向上への努力。
・米単作地帯として、早期に国内市場に編入。

(2)特産物生産地帯…小松・城端絹・越中八講布・能登縮・輪島塗・売薬(越中)・越前紙など
①加賀絹生産の特徴…山間部農民の副業である養蚕製糸業の発達を基盤に発達。
②原料の集荷先
 ・小松・城端絹…原料糸は、領内では五箇山糸、領外では北陸各地における山間部の養蚕・製糸業地帯。
・越中八講布・能登縮…原料苧は東北の米沢付近。
(3)問題点
・原料と販売ともに、領外・遠隔地に依存。
・需要が特定層に限定。
・有力問屋の介入(領外に多い)。
(4)領外問屋の影響
・原料集荷と製品販売の過程いずれも、生産地が領外問屋資本の下請けといえる例が多い。
・生産者・地元商人の課題…領外問屋(近江商人・京都加賀絹問屋など)の支配にいかに対抗するか。
(5)加賀絹の歴史
 ・中世末…石川・河北の両郡に織物業者が多数存在。
       1598(慶長3)年に、前田利長による領内織物尺度の統一。
  ・近 世…絹織物産地に、小松・城端・井波・(隣藩城下町)大聖寺など。
(6)小松絹(代表的)
  ・1637(寛永14)年:絹道会所設置(統制機関)
  ・製品の多くが京都へ移出。領内市場が狭い。染色加工技術が西陣に独占。
  ・加賀絹問屋の成立(京都)…享保年間(1716~35年)5軒、宝暦年間(1751~63年)4軒。
   ※生産地は前貸支配下にあり、会所による尺幅統制や口銭徴収がなされても、産地が加賀絹問屋の支配下にある以上、会所による上記のような統制は、加賀絹問屋の生産地支配体制に寄生する形態を取らざるをえない。
・1668年(寛文8)年頃…絹織物は他国への移出筆頭、生糸は移入筆頭。
※領内は福光糸・五箇山糸など。領外は、越前(府中・粟田部・大野・勝山・福井・今庄)、江州(長浜)、越中(八尾)など。
  ・1772~80(安永)年頃…小松での生糸移入量は5,800貫余、うち半分が領外生産分。

近世における産地の事例(3) - 西陣の場合


近世における呉服商の展開─大丸屋呉服店(現/大丸百貨店)を中心に

(1)呉服とは?
①(広義)和服用の織物・反物の総称。
②(狭義)太物(麻・木綿)に対する絹織物・反物の総称。
 ※語源~呉服(くれはとり)=中国華南にあった呉 から来た職工(織物女工)。
 
(出典)黄遵憲『日本國志』1898年、浙江書局、第4丁 。

(2)呉服店とは?

【呉服(ごふく)】 「(前略…)徳川時代にはすでに呉服店の名称が用いられており、前述の太物を扱う店は太物店とよばれ区別され、呉服店は絹物を扱う店として格の高い商店とされた。今日のデパートの多くはこの呉服店が発展したもので、そのためどのデパートでも婦人服にはとくに力を入れている。」
田中千代『田中千代服飾辞典』同文書院、1969年、303ページ。
【呉服屋(ごふくや)】 「室町時代には呉服屋ができたが、発展したのは江戸時代になってからである。元禄時代(1688~1703)、それまで上層階級の呉服を独占していた呉服師が幕府や藩の財政難によって営業不振に陥ったのに代わって、江戸、大坂、京都などの消費地をもった呉服屋が盛んになった。元禄文化の担い手となった町人は呉服にまで贅(ぜい)をつくし、その結果ますます呉服屋は発展することになった。また呉服問屋(どいや)と呉服小売り屋に別れたが、両方をかねる大きなものもあった。現代のデパートのうち、老舗(しにせ)の多くは呉服屋から転進したのである。」※「呉服」は別項目に独立。
文化出版局編『服飾辞典』文化出版局、1979年、290ページ。
【百貨店(ひゃっかてん)】 「デパートメント・ストアともいう。大きな売り場面積をもつ各種商品小売業で、昭和49年3月に廃止された百貨店法の規定している売場面積を持つ店舗をいう。同じように大規模な小売業としての量販店との違いは、セルフ・サービスの販売方式をとらず、チェーン・システムを採用せず、品ぞろえとしては、ミドル・プライスの上からベター・プライスのプライス・ゾーンを主力としているのが特徴である。都心百貨店、ターミナル百貨店、郊外型百貨店、地方百貨店に区別することができる。法的には量販店とともに大規模小売店舗とよばれている。」
杉野芳子編『(最新)図解服飾用語辞典』鎌倉書房、1986年、177ページ。
【デパートメント・ストア(department store)】 「百貨店のこと。小売り業態のひとつで、衣・食・住などの生活に関わる多種多様な商品を、対面販売方式を基本に提供する大規模小売店舗。商品及びサービスの高級感や長い伝統による信用をもつところが多く、都心型百貨店、ターミナル百貨店、郊外型百貨店、地方百貨店に区別される。既定としては、店舗床面積が都市部で3,000m2以上、その他の都市で1,500m2 以上(大規模小売店舗法による)とされる。’80年代後半は第3次リニューアル・ブームといわれ、各店で積極的にリニューアルが推し進められた。売場、サービス機能の充実に伴う新しい生活文化提案型企業としての期待も大きい。」
バンタンコミュニケーションズ編『新ファッションビジネス基礎用語辞典<増補改訂版>』チャネラー、1995年、938ページ。

(3)大丸屋呉服店(現/大丸百貨店)

①18世紀後半の店舗
・18世紀後半…大丸の店舗が最も多く開店した時期。
・江戸店持京商人・江戸店持上方商人…京都本店→大坂→江戸という展開。大手呉服問屋に共通 。
②京都総本店(1729年設置)の役割
・経営理念の公布や経営管理から、営業販売・仕入・生産にいたるまで、あらゆる意味で大丸の中心。
└各店の元締、若干の小売、京都各店・江戸店・大坂店・名古屋店の仕入業務、人事・営業等。
③加工工程の内部化
・小紅屋(京都)…染物屋であったこの店舗を1741年に買収し、加工工程を内部化。
└仕上加工の内部化は加工費用の削減を目指したもの。
④「棚卸帳」
・本店の棚卸帳…支店からの剰余や加工の利潤などが棚卸延銀として計上。
・大坂店・名古屋店・上の店・江戸店の棚卸帳…すべて本店との受渡勘定(出入勘定)から記載開始。
・京都本店…以下2店舗以外の全店舗の仕入を担当。
・上の店…西陣織物の仕入を担当。
・江戸店…関東産織物の仕入を担当。
※他店は上の店・江戸店を除き、基本的に販売業務のみを担当。
⑤諸品仕入の構造…大丸の仕入は、仕入先に関して大きく3つに分類可。
・唐物…糸割符仲間に属し長崎本商人としての活動が認可され、中国等から絹を中心に輸入。
・西陣…上の店が本店の代理として専門的に仕入。
・国産(西陣を除く)…江戸店が本店の代行機関として関東物を仕入れ、尾州以西・山形・群馬・栃木・新潟等には本店から出張購買(仕入)を実施(買宿制度)。
・仕入担当店舗…京都本店・上の店・江戸店
⑥具体的な仕入品目
・関東地方産(関東物)…上州絹・郡内絹・上州紗綾・福嶋・八王子太織・青梅嶋・桐生物
・北陸地方・中部地方…加賀絹・信濃紬・越後縮・加賀嶋・越前晒
・その他…奈良晒・近江晒・丹後縮緬・丹後太織・木津晒
  ⑦1870年代の大丸
  ・京都博覧会にて要職に就く一方で類焼が重なり、京都・大坂で2店舗閉鎖→近世的経営体の限界?

研究史 - 近世は「綿布か麻布か?」

(1)通説…国内の綿作・綿業は15世紀末から16世紀中葉にかけて始まり、その後、近世において麻布を本格的に駆逐してゆく。→(関連)永原↓ (2)永原慶二…近世における麻布の衰退に力点をおき、近世の国内綿業の発展を強調 。 (3)林玲子…近世における麻布利用の広範さを指摘する見解 。


★お勧め書籍
竹内誠『体系日本の歴史10 江戸と大坂』(1889)小学館ライブラリー、1993年。
田中優子『江戸の想像力 - 18世紀のメディアと表徴』(1986)ちくま学芸文庫、1992年。
田中優子『近世アジア漂流』(1990)朝日文芸文庫、1995年。
林玲子『流通列島の誕生』講談社現代新書、1995年。
村上信彦『服装の歴史1─キモノが生まれるまで』理論社、1990年。
村上信彦『服装の歴史2─キモノの時代』理論社、1984年。
安岡重明他編『日本経営史1 近世的経営の展開』岩波書店、1995年。
吉永昭『近世の専売制度』吉川弘文館、1973年。

★お勧め展覧会
「更紗今昔物語 - ジャワから世界へ」(2006年9月7日~12月5日/国立民族学博物館)
「更紗とプリントドレス展」(2006年10月21日~2007年1月16日/神戸ファッション美術館)
※上記いずれかの展覧会の感想レポートを提出すれば(2,000字程度)、期末考査・評価に加味する。その際、入場券を感想レポートとともにホッチキスで添付して提出すること。入場券なきレポートは受け付けない(または捨てる)。なお、逆に、提出しなくても期末評価がマイナスになることはない。

★お勧めサイト
「日本の服の歴史 資料 Maccafushigi」
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/index.html






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