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20061019

【履修上の留意点】

①単位認定…期末試験で得点が60点に満たない場合、特にレポートと出席を加味する。60点以上の場合、レポートや出席日数等は優良可に分かれる。②出席日数…就職活動やクラブの公的活動などで欠席が多く、「どうしても自信がない」、「気になる」という場合、試験の近づいた授業日、終了後に学籍番号等を教えに来てください。③遅刻…遅れて教室に入っても、レジュメを教室の前へ取りに来てから受講すること。レジュメ無しに講義を聴くのはキツイし、授業を聴いている時間が勿体ない。④普段の勉強…興味ある授業を中心に、1日400字はまとめる練習を続けよう(読んだ本の引用ノート・まとめノートでも良い)。1年間に書き溜めれば12万字は越える。続けていけば、1回生や2回生の場合、今は下手くそでも、卒業論文までには比較的楽に文章を書けるようになるはず。⑤勉強の質問…当大学内では研究室を持っていないので、オフィス・アワーは取れない。大経大への出勤日である木曜日と金曜日のうち、木曜は時間が取りにくい。金曜の16:30以降が望ましいが、木曜の授業終了後などに事前予約して欲しい。ただし、試験対策などの露骨な質問は避け、楽しく勉強する方法や、面白そうな本を尋ねるなどの質問、または、どのような勉強・専門に向かうかについて相談する程度。質問は、レポートで代替しても良いし、自分で調べたものをまとめたレポートを出してもいい(ただし、そのようなレポートは期末評価に関係はない。単に、文章や論点運び方のコメントを返答したり添削したりするだけ)。

前回までの補足

(1)国郡の形成と国内ルート  ・国郡制…「国」は日本国の国制に大きな影響をもっていた。「国」は、823年の加賀国分置でほぼ形を整えている。なお、「郡」については、境界が比較的「郷」に近く、社会・経済により密接に結びついていたため流動的であった。「国」の境界に関しては、七道も大きな役割を占めており、本州の地形からは考えにくい大通りが、軍事目的を中心に建設(この項目は、網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年、「第3章 列島社会と「日本国」」を参照した。)。 (2)原材料・繊維・布における献上品としての違い  ・布より糸、蚕より苧麻を献上させた方が輸送上・生産上のメリットは大きかった。 └蚕が生育する桑は、実を落とした場所に実生で成長するため、戸籍の人頭別賦課(戸主への課税)は困難。言い換えれば、農民の所有地(田んぼや畑など)を単位にした献上は難しく、班田制の崩壊とともに、荘園公領制と呼ばれる地域単位(荘郷単位)での賦課へと11世紀(平安後期)に転換した。そこでは、「桑代(くわしろ)」という形の賦課が導入され、桑の生育地や所有者がどうであれ、名・郷・荘(ある程度の地域)を対象にした桑の本数を計上させる方針を採用した。ただし、桑の葉に成育する蚕を把握するのは非常に複雑であり、また、桑の本数を把握しても、それが木材へ利用されるケースもあり、統一した「蚕種量」の正確な尺度が当時は存在しなかったこともあり、難航を極めていた(蚕種量の尺度が統一されたのは近世になってからである)(この項目は、主に永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年「III 荘園制下の桑・糸・絹・綿3 桑への賦課」を参照した。)

補足

3限で話さず6限で簡単に触れた内容(陰陽道~特に女・男、土地・資本との関連で) (出典)デヴィッド・ハーヴェイ『パリ─モダニティの首都』(大城直樹・遠城明雄訳)青土社、2006年、339ページより転載。

(1)フランス語「capital」(英語の「資本、首都」)(ジャック・デリダ『他の岬 - ヨーロッパと民主主義』みすず書房、1993年。本書は、第1次世界大戦がヨーロッパ知識人に与えた衝撃を多様な観点から捉えている。また、本書では、「土地と都市」または「土地と資本」というセットになった近代国家的発想を疑問視しており、20世紀末から21世紀にかけての「首都」・「都市」のあり方や、近代に形成された国民国家の概念を再検討する必要性を論じた斬新な作品といえる(なお、この点は再度授業で取り上げる予定)。)
・男性名詞として「資本」、女性名詞として「首都・都市」。
(2)生産三要素と家族モデル
・『資本論』でマルクスが「工場法」に触れつつ、女性や子供の労働問題を集中的に取り上げているのは正解。また、生産三要素(土地・資本・労働)を家族三要素(母・父・子)として読み替えたのはフロイト。
(3)資本主義(=男性主義・男根主義)と現代社会の問題点(日本の場合、工業化(第2次産業化)は、およそ明治~1970年代。高度資本主義化(第3次産業化)は90年代~現代辺り。)
・工業化・資本主義化(第2次産業化)においては資本崇拝(経済学で頻出する「資本」概念は難しい。とりあえず、ここでは「会社」または「工場」と考えておく。「父親」を入れても良い。)が顕著であり、男女不平等が顕著(近代家族という父親中心主義・長男中心主義(家父長制)にもとづいた家族史と経済学との関わりを論じた著書に、上野千鶴子『家父長制と資本制 - マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店、1990年を挙げられる。また、明治期以降にみられた近代家族の形成過程から分析を始め、戦後の高度成長期以降にみられる家族変容と女性の文化受容のあり方にまで焦点を当てた著書に、上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店、1994年がある(この点は再度授業で取り上げる予定)。)。さらなる資本主義化(第3次産業化)が高度に進む過程で、工場や企業の海外移転(移植産業化)が生じ、外国の低賃金労働力(現在なら中国・東南アジアがメイン)をもとに第2次産業を維持し、日本国内では、日本国籍の男女間所得格差は解消に向かい、貨幣崇拝(顕著な例は、男性の場合、「金がないと女にもてない(金があれば女にもてる)」という幻想や、女性の場合、「金があるから一人で暮らせる」という発想。)に陥る。その結果、家庭崩壊・家族非構築という独特の問題へ突入。さらに、女性の高学歴化(≒男女平等化)は、セックス・レスや晩婚化という問題を取りながら、女性領分の放棄を生み出し、出生率低下という形で、少子化、すなわち「労働力再生産」(ここでは、製造技術・販売技術等の伝達といった労働者育成や、子供の出産・育児を指す。)の減退という致命的問題にまで波及。→問題が進行するにつれ、国家は危機を通過し解体へ(この点、近代日本の対アジア関係史研究が「国民国家の<形成→変質→限界>という内的求心力の過度な高まりと、秩序破壊的な進行の再発防止に役立つ面を籠谷直人は評価している。しかし、この内的求心力は外的排他性とセットになっている点について籠谷は批判的であり、横断的なアジア通商網に焦点を絞った近代日本の特徴を捉え直そうとしている(籠谷直人『アジア国際通商秩序と近代日本』名古屋大学出版会、2000年)。しかし、「横断的なアジア通商網」は、何も籠谷の注目する中国人華僑たちの商業活動だけに留まらず、<植民地都市の建設(中国遼寧省の大連など)→軍需産業化による経済協力(トヨタのトラック、日産の化学産業等々)→侵略戦争>といった「縦断的な旧満州地域」という観点からも検討可能なものであり、私自身は、黒竜江省・吉林省・遼寧省を中心に形成された近代中国の一部「旧満州」における幾つかの都市内部のコスモポリタン性を強調したい。また、最近の日本経済史で当然の如く使用されている「アジア」という用語の歴史性は、必ず再検討される必要がある。私見であるが、「アジア」は「オリエンタル(東方の・東洋の)」と密接に絡んでおり、「エウロパ、エウロペ、ユーロパ」(ギリシャ神話に登場する美女の名前)を語源とする「ヨーロッパ」という地理的用語に対する「非ヨーロッパ」の意味合いを持っている。すなわち、ヨーロッパ諸国の征服地が「アジア」の概念であり、それは、現在に至る長期にわたって「西アジア」から「東アジア」へと膨張された。すなわち、「アジア」とは、地理用語の「ヨーロッパ」に対し、歴史用語として存在するのである。したがって、「ヨーロッパVSアジア」という枠組み自体がヨーロッパ中心史観であるといえる(この点は再度授業で取り上げる予定)。)
 

初めての渡中(陰陽道との関連で)


※2004年夏、上海浦東国際空港着陸後、リニア・モーターカーに乗り、地下鐵「ロンヤンルー(龍陽路)」駅に到着した時の会話。
(1)タクシー運転手7名に囲まれた状況で20歳前後の女性が登場。
“May I help you?”
“I wanna go to Hangzhou(杭州). Please tell me how to go to the railway station.”
(2)二人で歩き始めて。
“Where are you from?” “I came from Daban (Osaka 大阪).”
“Daban? Is it in Korea(韓国) or Japan(日本)?” “….Japan….” “fu--------.”(以後、戦中と現在の話)
(3)二人で地下鉄に乗りながら。
“We have respected our father, Europe & America, but forgotten our mother, China, for 150 years.”
  「私たち(日本人)は、これまでの150年間、父であるヨーロッパやアメリカ合衆国を尊敬してきたが、母である中国を忘れ続けている。」

中世とは何か─日本国の崩壊 → 再建

(1)律令制の完了=終焉
①大化の改新(645年)以降、①公地公民(私有地の廃止、戸籍の作成、班田収受)②中央(畿内)集権的組織運営と地方統治(国司派遣による国衙形成など)③税制度の確立の3点を中心に展開された律令制が、延喜式(905年/醍醐天皇)を最後に、明治まで律令系の法典は未制定。
②10世紀前半から…諸地域で独自の活動が活発化(以下で紹介するのは、承平の乱、天慶の乱と呼ばれる場合もあるが、天皇の代替わりによる呼び名は覚えにくく不便なので、本講義では西暦の副次的なものとして利用するに留める。)
・既に、東北では、安倍・清原氏から奥州藤原氏まで、独自の政権が成立し、日本国に対して独立的。
・平将門の乱…「東国」の「西国」からの自立志向(平将門が日本国からの東国(≒関東)の独立をめざし、失敗した経緯は以下の通り。将門は、武神八幡神の託宣と菅原道真の権威とを背景に、自らを「新皇」と名乗った。政権は短命であったが、常総・武総の内海や、相模湾の水上交通などを支配・利用し、西国に対する「坂東」の自立を目論んだものの、限界は、暦博士未設置と新国号未設定にあった。すなわち、天皇の代替わりを中心にした元号に代替するものと、新たな国号を設置しなかったことが、国家としての独立を失敗させた。)
・藤原純友の乱…活動範囲は畿内から太宰府まで。新羅との連動も強い。
③10~11世紀の他地域の状況…南国では、10世紀末に奄美の人々が太宰府へ攻め入り、11世紀までには、壱岐・対馬、沖縄、朝鮮半島、中国大陸を含めた活発な貿易圏が形成。

(2)古代の終焉=12世紀後半~平氏と源氏
①西国と東国との分裂へ(20世紀後半の日本史学のオーソドックスな日本史の説明では、日本国という1国を公家政権・武士政権の二重支配の下に展開された観点が強い。例えば、井上清『日本の歴史』(岩波文庫)を代表的なものとして挙げることができる。しかし、網野善彦の場合は、東国の独立性を強調しており、私自身も、一旦日本国が東西に分裂した点、言い換えれば従来の日本国が一旦崩壊したという見解を強調したい。つまり、井上の場合、「日本国」という国家を固定的なものとみている嫌いがあり、国境は変動しやすいという点を看過しているといえる。それに対し、網野の場合は、日本国内部の独立的契機の事例を複数挙げ、国境の変動性を強調している。私の場合は、さらに、それを国家としての崩壊という形で、より明瞭なイメージで捉える必要があると考える。)
・西国…「西国国家」は、平氏政権下に組み込まれ、西日本を拠点に、中国大陸(宋)との貿易まで展開。
・東国…源氏中心の東国勢力(頼朝の樹立した鎌倉の政府が、京都の朝廷の改元(養和・寿永)を無視し、治承の元号を使い続けたことは、暦博士を置かず、西国とは異なった時間を支配できなかった平将門と一線を画する点である。また、頼朝は、関渡津泊に対する支配権を行使するなど、内海・海上交通を積極的に利用した。)。後に源平の闘いに勝ち、頼朝は京都の朝廷と和解後、征夷大将軍へ。
②日本国の拡大・分裂
・九州に鎮西奉行を設置し、東北には奥州藤原氏を攻撃し滅亡させ、奥羽を支配下に。
・日本国の統治権を分割する二人の王(天皇と将軍)・二つの国家(平安朝と鎌倉幕府)が対峙する図式へ。
③現代にも影響を与える東西意識…表「東西男女の婚姻率」の構成比から(出典は、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫、1998年、38ページ)。

(3)「日本・日本人意識」の形成(この節は、網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年「第3章 列島社会と「日本国」」に依拠した。)
①「日本国」という国号
・7世紀の成立当初から、異国・異界に対する自己認識として機能。
・以降、「日本」全体に対する認識が、百姓の上層男女にまで広く浸透したのは13世紀(日本国分裂=東西分裂という政治体制との時間差)。
②中世の「和州」・「和国」
・とくに、唐・天竺などに対して、異国と日本とを対照する場合、「和」「大和」「倭」の呼称がしばしば利用。
・「ヤマト」の読みは、公的な「日本」という呼称に密着しつつ、私的・日常的世界を中心に古くから浸透。
・「大和」という呼称が列島に浸透する過程は、畿内中心的な中華思想の意識が浸透していった過程。
・中世末期の日本国の範囲は、東が日下(現/多分、茨城県辺り(クサカの地名は多すぎる。))、南が熊野の道(現/和歌山県)、西が鎮西(現/熊本県)、北は佐土嶋(現/新潟県)。
・商人たちの活動によって、本州・四国・九州領域とする意識が浸透・定着。


(4)中世の動揺~天皇・天皇制の地位凋落
①東アジア状勢
・モンゴル帝国(元→世界史上最大の面積を誇った国家)→「宋」後の中国
├既に侵略済みの高麗を通じ、1266年に日本へ通交を求める使者を派遣。日本は数度にわたり黙殺。
├1268年(文永5年)に南宋(唐滅亡後の中国政権の一つ)攻略を開始。
├1274年(文永11年)、朝鮮半島の月浦(現在の馬山)を出発し、博多、箱崎おける戦闘へ(このとき、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人が動員されたといわれる。モンゴル帝国の侵攻は急ピッチで、10月5日に対馬、14日には壱岐を攻略し、19日には博多湾、20日に東進し、百道原つづいて博多、箱崎へ上陸(以上、日付は太陰暦による)。なお、この戦争については、以下に紹介する網野善彦の考え方が現代のアジア状勢を考えるうえで重要である。「モンゴル襲来後、(中略)とくに寺社の側からのさかんな発言を通じて、「日本国」意識、「神国」意識が、それ以前より強まったこともたしかであり、朝鮮をはじめ、沖縄、北海道など列島外の人びとを夷狄視、蔑視する見方が、それとともに多少とも浸透したことは事実である。しかし、それは「日本民族」という意識などとはほど遠いものがあった。(中略)モンゴルと闘うために、日本との連帯を求めた三別抄にみられるような「朝鮮民族」の意識と比べ、それははるかに未熟なものだったことは間違いない。敗れたとはいえ、モンゴルと徹底的に闘った高麗に対し、暴風雨によって難をまぬがれた「幸い」が逆にこの結果を生んだのである。つい四十年前まで(岩本注:日中戦争・太平洋戦争期、つまり、1930年代~45年を指す)、「神風」が吹くことを期待するようなおろかさをもちつづけた日本人の「民族意識」が、いかに根の浅いものかを徹底的に考えない限り、われわれは、最近の中国をはじめとする東アジア・南アジアの人びとからの批判のような、「恥知らずの民族」という汚名を、いつまでももちつづけなくてはならないことになろう」(網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社、1998年、253ページ、初版は1982年)。)
└1281年(弘安4年)、高麗軍中心の東路軍4万、旧南宋軍中心の江南軍10万の軍隊が九州北部へ出発(日本側が博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いていたため、東路軍より先に到着した東路軍は、防塁のない志賀島に上陸するが、そこに構えていた日本軍から一斉攻撃を受けた。文永の役の教訓から元軍の戦法に精通していた日本軍は優勢に戦い、ゲリラ戦術も含めて、元軍を海上に留め続けさせた。東路軍は、遅れてやってきた江南軍と合流したが、元軍からすれば、暴風雨が起こった上、背後に玄界灘(夜間渡航の怖さを東路軍が熟知していた)が控えていたため、身動きが取れず、南宋人以外は日本人によって惨殺された(以上、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社、1998年)。)
②元寇以後の国内関係
・14世紀までに、東国、西国、関東、関西、九州、中国、北国、奥羽などの地域呼称が成立し、再び独立した活動が活発化(倭寇など日本国の枠を越える商人・海賊も)。
・14世紀前半には、建武新政下の日本列島における政治力学へ…東国・九州・尊氏(足利氏支配下の室町幕府は日明貿易を中心に海外交流を推進していた。)VS西国・東北・後醍醐。
・15世紀後半にかけて、各地の守護を中心にした動乱が頻発し、将軍足利氏の権威が凋落し、戦国時代へ。
③日本国の事実上の崩壊~朝鮮半島との接触
・九州・瀬戸内海沿海・若狭以西の山陰諸国…朝鮮国王と接触、善光寺(長野県)による使者の派遣など。
・東北…アイヌとの交流を深めようとした。

(5)大航海時代以後における中世の再安定化=近世への移行
①16世紀東アジアの変動と沈滞
・16世紀の日本列島…琉球王国と、崩壊途中の日本国が並立し、戦国大名が各地に割拠。
・ヨーロッパの大航海時代(この時期のヨーロッパの重大な事件に「魔女狩り」がある(ネットが使える状況なら、http://ja.wikipedia.org/ で調べてください)。魔女狩りは、民族や国民の一種の集団的なヒステリック・発狂によってなされた嘆かわしい大事件であった。そのなかで、オランダは、魔女狩りの規模が小さかっただけでなく、多のヨーロッパ諸国に比べ早期に終了している。また、オランダは、メンデルの法則などで知られるように、16世紀に「植物革命」と呼ばれる学問的な飛躍を遂げている。この飛躍は、学問的蓄積となってイギリスへ舞台は移り、18世紀に見られた「産業革命」へと接続される。この辺の経緯については、中井久夫『西欧精神医学背景史』みすず書房、1999年(1979初版)「7 魔女狩りの終息と近代医学の成立 - オランダという現象」を参照されたい。)にタイアップし、東南アジアからアメリカ大陸まで環太平洋へも交易活動(大名ではキリシタン大名などが出現するなど、一部キリスト教が流入) 。
・16世紀半ば…海域独自の秩序に対して、列島・半島・大陸の諸国は「海禁」政策による再統一へ(対明貿易(朝貢型貿易)に関わったベトナム・ジャワ・フィリピン・シャム・マラッカ・朝鮮・琉球・日本等の各地域は、地域間の沿岸交易を展開し、多岐にわたる交易網を展開。例えば、明王朝の冊封を受けた琉球の場合、薩摩藩との交易だけでなく、朝鮮や東南アジア地域と交易しており、その朝貢品には日本の銀塊、硫黄、南海産の象牙、胡椒が含まれるなど、国家間貿易という枠組みを乗り越え、かなり活発的(ジャンク貿易)。)
②列島の再統一(鎖国は徳川幕府(江戸幕府)による政策としては一定の機能を果たしたが、現在の日本国の領域全般を支配できた訳ではない。すなわち、九州や北海道のような両サイドにおいては、特に鎖国方針が貫徹せず、特に「四つの口」(長崎・薩摩・対馬・松前)と呼ばれる地域では、中国やオランダとの貿易が、密貿易も含めて活発化していた。また、列島の海岸部を全て徳川幕府が掌握できた(管理できた)ということは、地図を見れば「ありえない」と考えられる。「四つの口」の「国境」に関する具体的なイメージは、「第5回沖縄研究国際シンポジウム - 近世の紀行文にみる境界としての薩摩と琉球」のうち、熟美保子の「近世の紀行文にみる境界としての薩摩と琉球」で簡単に紹介されている(http://venus.unive.it/okinawa/ja/sunti/minori.html)。)
・再統一発想の端緒は織田信長。天皇の権威を背景に、武力で日本国再統一を実現したのが豊臣秀吉(この時点で、近代(明治~昭和初期)に連なる国民国家形成の端緒とみる説もある(勝俣鎮夫)。)
・豊臣政権…侵略的国家という性格。この性格は、日中戦争・太平洋戦争期に再発。
・江戸幕府(家康の遺言によって、江戸城ないし徳川政権の安泰を願って建設された日光東照宮(栃木県日光市にある神社)もまた、風水思想を導入している。http://ja.wikipedia.org/ で「日光東照宮」を調べてみよう。)…海禁政策(鎖国)を重視して成立。道南から奄美大島までを領土とした日本国として出発(秀吉の命令で造営された大阪城は、当時、畿内最強の武士軍団を誇っていた石山本願寺(キーワードは、狼煙の活用)を壊滅させた跡地に建てられた城である。秀吉は同時に、仏教勢力全般を押さえるために、信長のキリスト教輸入奨励を継承しつつ、他方で、大坂に散在していた仏寺を現在の上本町~日本橋の地域一帯に集中的に移転させた。今でも多宗派の仏寺が入り混ざっている。)

東西分裂後の日本列島における荘園公領制と絹織物生産

(1)荘園公領制に見る東西の違い(この節は、主に以下を参照した。網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年。また、本書では、鎌倉期以降、レジュメ本文以外にも、「東西の差異」が様々な側面でみられることになった。①特に貨幣の東西、②神仏の東西、③被差別部落の東西の3点が挙げられる。①貨幣の東西比較では、米が年貢として多く利用されていた西国では、12世紀における中国(宋)の銭貨流入には影響されず、むしろ東国で流通した。西国には13世紀後半以降に流通しはじめたが、米の貨幣としての機能(交換手段、支払い手段、価値尺度)が、後世にも根強く意識された。②神仏に直属する職能民の捉え方では、西国では、土地制度としての荘園公領制とともに、天皇と結びつき王朝を支える神人・供御人などの職能民に即した制度が形成されたが、この制度は東国では作動していない。中世の時代を通じて、東国は、海上交通・陸上交通を利用した、宿や市庭などが活発に機能し、都市・都市的場所が、西国に劣らない密度をもっていた。しかし、鎌倉幕府は、「道々の輩」や「町人」を召使いとして採用することを禁止し、幕府の諸機関の必要に応じて活動することを保証した点は、西国と決定的に違う。また、武士についても、「殺し」を芸能として天皇家・寺社などに使える職能民として捉える西国研究者と、軍事組織として捉える東国研究者の観点の違いにも影響を与えている。③「被差別部落」の差異については、東国では、非人・河原者などを記した史料が少ない。これは、神人・供御人などの制度が浸透していなかったためであるが、もう一つ重要な要因がある。それは、13世紀末以降、畿内・西国では、それまで畏怖の対象であった「汚れ」への忌避感が強まり、その「清目」に従事する非人や河原細工丸に対する蔑視が表面化したことである。これに対し、東国で被差別民がはっきりと姿を現わしてくるのは江戸時代・綱吉の時期に入ってからではないかと思われる。これに関し、江戸時代あたりでは、職能特権については、被差別部落だけでなく、東北・東国・九州などの職能民が頼朝の権威に由緒を求めているのに対し、畿内周辺の職能民が天皇・天皇家に関わる人々に特権の起源を求めている点が対照的である。)
◆西国・東国とも、荘園公領制という同じ土地制度にもとづき人民を支配したが、以下の3点に大差あり。
 ①単位のあり方
・東国・九州中南部…郡・条・院(令制の郡から転化)が基本単位で、これら自体が荘へ。
・九州中南部を除く西国…郡が徴税単位としてはさほど機能せず、小規模の郷が中心(これが荘に転化)。
└同じ「荘」でも、西国の方が小規模であることが多い。
  ②領主のあり方
・西国…徴税単位の田畠が平民百姓名。様々な職が補任的な関係をもつ「職の重層的体系」が実現。
・東国…百姓名が出てくることが少ない。一族・主従の関係を通じ郡や荘を管理する体制が採用。
③年貢品目
・伊勢・尾張・美濃以東の諸国…絹・糸・綿・布などの繊維製品が年貢の中心。
・西国…米年貢を賦課する荘園が多く、特に畿内・瀬戸内海沿海地域・九州では顕著。

(2)絹織物生産の相対的低下と産地変化
 ①伊勢商人・近江商人の活躍…滋賀県・三重県は、東国と西国との結節点で、絹織物などの流通が活発。
 ②女性による絹関係の労働成果…桑(北陸道諸国を除いた東国における米年貢は異例。)、養蚕に従事し、絹を貢納する目的だけでなく、貨幣にもなった(桑は弥生時代から栽培が始まっている。)
③中世後期~近世前期の地方蚕糸業…絹糸・絹綿に比重が掛かり、織物業は相対的に活力を失う。
  └(あ)九州・中国・北陸・山陰とも低下。(い)対明貿易による白糸輸入が激増。
④近世初期『毛吹草』段階で残った絹織物産地(右表、転載元は、永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年、150ページ。)
・越前(現/福井県)、但馬(現/兵庫県)の出石絹、丹後(現/兵庫県)の丹後織絹袖程度。
・尾張(現/愛知県)・伊勢(現/三重県)は絹織物から綿織物へ転換。
・西陣(現/京都府)では古代の織部司の技術を継承しつつ、絹織物生産の絶頂期←明の高品質絹糸。
→総じて、次節で論じる「中世末期における木綿輸入とその国産化」へ。

中世末期における木綿輸入とその国産化

(1)大陸・半島・列島における木綿栽培と綿布生産の展開(中世における桑や養蚕の活発化を踏まえ、農家女性も着ていた可能性が高いと網野善彦は宮田登との対談(『神と資本と女性』)で述べている。すなわち、絹製品は高級品であるという認識自体が歴史化・相対化されている。中世においては、一定の認識であると思われるが、近世以降になると、絹織物は、注文生産が多かったという点と密接に関連しており、必ずしも生地(絹織物)が高級であるから製品(呉服)も高級であるとは即断できない。もっとも、この網野の論点の一方で、繰綿が庶民層に普及したものの、絹織物をあくまでも身分制との関係として捉え、庶民層に広がりにくかった点を強調した研究もある(永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』)。さらに、福井貞子『染織』では、絹綿交織によって農民層にも絹糸入りの衣料が着用されていた点が指摘されており、時代差や地域差はともかくとして、発想としては、網野と永原のいわば中間的な認識となっている点は、無難な解釈といってよかろう。)
 ①中国大陸
 ・唐の時代に栽培開始後、福建省を中心に展開。13世紀後半(宋末・元初期)には江南まで。西方種の場合は、陝西でも栽培。(陝西省で栽培が始められた西方種は、黄河流域の大陸北部でも栽培可能であった。列島の場合、16世紀中葉、信濃のような寒冷地で栽培が始められている。)
 ・14世紀(元末・明初)には、北方諸省(山東・山西・河南・陝西)で棉花、南方諸省で綿布の地域差。
②朝鮮半島(基本的に苧麻の国~古来から麻布が交換手段として発達)
 ・14世紀後半(高麗朝末期・朝鮮王朝期)…半島南部を中心に苧麻から木綿へシフト。
 ③日本列島
 ・15世紀初頭…朝鮮王朝からの守護大名・国人領主への回賜品に木綿が急増。
 ・15世紀後半…応仁の乱以後、戦国時代における兵衣不足から、守護大名・戦国大名らが、朝鮮半島へ銅・鉄と引替えに綿布を大量発注。
→半島側は綿布不足を憂慮し、公的には対日綿布価格を上昇させたが、国境の民間商人たちによって大量に綿布が流出。
 ・15世紀末~16世紀…半島だけでなく大陸(明)からも綿布(唐木綿)輸入を試み、海禁政策(入貢形式の勘合貿易)下でも、江南・福建商人が日本商人と交易(琉球商人も介入)。
 ・16世紀中期…「唐木綿」と「日本木綿」の併存。関東~九州全域にかけ、同時多発的に栽培開始(古代の「絹」については、「絹綿」(きぬわた)から派生させて単に「綿」(わた)とも呼ばれていた点は、「木綿」と錯誤しないよう留意すべきである(折口信夫『折口信夫全集 第六巻 万葉集辞典』「綿(わた)」参照のこと)。)
 ・16世紀末…移植当初にみられたような武士層の軍需品(兵衣)や貴族層の奢侈品だけでなく、京都や奈良などの都市部では、僧侶らの日常着としても利用(麻から綿への移行開始)。

(2)木綿インパクト~兵衣と商品
 ①兵衣としての綿布
・麻織物よりも保温性が良く、軍隊ごとに、織物(布)段階での規格化が進行。
②商品としての綿布
・古代では、苧麻などの商布が国衙や中央政府へ献上された余剰として市場へ出たが、木綿は京都・鎌倉・室町などの中央政府への献上品とはならず、生産者から直接に流通市場へ放出された。課税については、各地の大名が「木綿役」といった名前で賦課した程度(消費税のような感じ?!)。

服装の「近世化」

(1)小袖の発展(この項目は主に以下を参照した。高田倭男『服装の歴史』中公文庫、2005年。図表「小袖の変遷」は、同書192ページ。) ①小袖とは?…手を通す部分(縫合のない部分)の面積が小さい衣料。近世に爆発的なブームに。 ・平安時代後期以降に公家が下着としていた筒袖着物。袖に丸みがあるが、直線裁ち。 ・13世紀以降(鎌倉時代)…武家も内着・下着に使っていた憧憬の絹製着物を小袖と呼び始める。 ・鎌倉期に、庶民層の一部も、袖の底部を丸くし、袖口を袖丈よりも狭くした筒袖着物を表着として利用。 ②小袖の柄…庶民層が表着として利用した慣習から、小袖の色物・柄物が登場し、近世では主流に。 ③小袖の専門化…表着され始めた小袖は、上流層において、染色・染織・意匠等、デザイン全般に高度化。 └ジョアン・ロドリーゲス(ポルトガル人)『日本教会史』では西陣の集中した織機場の集中度を評価。ただし、裁縫技術については未熟であると指摘(日本の場合、他の東アジア諸国と同様に、立体縫製ではなく平面縫製であったためであろう)。

(2)服装の近世化
・公家・武士層において簡素化がみられる。直垂と素襖をベースに、武家の場合は袴の腰に白平絹を用いず、同一生地を利用。ただし、国風文化の下で国産の染織が沈滞し、上流階級では唐物の流行は絶えなかった。
・僧侶の服が現代とほとんど変らなくなる。
・庶民が月代をそるようになり、烏帽子をかぶらなくなる。→庶民の社会的な地位の変化。
・笠を用いるものが増え、旅する人々の服装も著しく「近世化」。
・かつては聖なる人の姿でもあった蓑笠と柿帷、鹿杖を突く姿が、専ら非人の服装観へ。

(補足)南北朝~鎌倉期に出現した新スタイル(この項目は主に以下を参照した。網野善彦『異形の王権』平凡社ライブラリー、1993年。(3)も同様。)
①婆娑羅な風の流行など「非人」の衣裳の爆発的な噴出。
②覆面姿、さまざまな頭巾の着用の流行。
③みの帽子…鎌倉期には狩人の服装として通用していたかにみえる「みの帽子」が庶民層へ。
④女性…覆面をしたり頭巾をつけたりして男性に混入。旅装の場合は、手甲に近い指先だけを出した手袋をはめ、身体の露出は最小限。

★お勧め書籍
井上清『日本の歴史』上中下、岩波書店、1963、65、66年。
 ※オーソドックスな日本史。公家・武家の二重構造に留まらず、日本列島には常に2面的な思想や政治体制が貫かれていたという点に拘った著書。
網野善彦『異形の王権』平凡社、1993年(1986年初版)。
網野善彦『無縁・公界・楽 - 日本中世の自由と平和』増補版、平凡社、1996年。
網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社、1998年(1982年初版)。
網野善彦・宮田登『神と資本と女性 - 日本列島史の闇と光』新書館、1999年。
 ※網野善彦は日本中世史の大家。従来からよくみられる「男性中心史観」、「米作中心史観」、「陸地中心史観」、西日本中心史観、とでもいうべき列島の歴史観に対し疑問を呈し、倭寇などの海賊、民間交易、漁業、女性、といった「周縁」に着目することで、「暗い中世」を「明るい中世」にイメージ転換させたことで影響を与えている。
中井久夫『西欧精神医学背景史』みすず書房、1999年(1979初版)。
中井久夫『治療文化論 - 精神医学的再構築の試み』岩波現代文庫、2001年。
 ※中井久夫は神戸大学の精神医学者。『西欧精神医学背景史』では、イギリスの産業革命に先立って、大航海時代以後のオランダにおける「植物革命」や「学問革命」が成立した点に着目し、ヨーロッパの学問蓄積の起源をオランダに求めた点が大きい。従来の経済学では、アダム・スミスやデヴィッド・リカードがイギリスで著書を出版した経緯から、イギリスでの学問起源を強調してきたが、スミスはオランダへ留学しており、リカードも父親がオランダの銀行の上層部で勤務した影響を大きく受けている。また、徳川幕府の鎖国政策においても貿易を許された国がオランダであった点を想起されたい。『治療文化論 - 精神医学的再構築の試み』では、特に地域住民の精神構造の形成を検討した力作。とりわけ、古代都市のまま停滞気味であり続けた近代奈良の経済的分析、地理的分析、精神医学的分析は圧巻。

★お勧め映画
程小東(チン・シュウタン)『スウォーズマン - 女神伝説の章』香港、1992年、原題『笑傲江湖II - 東方不敗』
※秀吉の天下統一に納得せずに日本を離れ倭寇となり、秀吉打倒によって巻き返しを計ろうとする一派がいた。その一派は甲賀忍者として知られる服部半蔵と、日本史では真田十勇士として服部と敵対する猿飛佐助とが構成する派閥。史実が不整合だが映画にはどうでもよく、日本史からこのような「影」の連中を舞台に引きずり出してきた点が大胆で面白い 。
程小東(チン・シュウタン)『スウォーズマン - 女神復活の章』香港、1993年、原題『東方不敗 - 風雲再起』
 ※前作『スウォーズマン-女神伝説の章』で黒木崖から転落し命を落としたとされる東方不敗だが、実はその場所で隠遁生活を送っていた。彼女の存在を確認した明朝政府の役人クーは、東方不敗の死後、いくつかの武術集団やアウトローな連中が東方不敗の名を語って中国南方を好き放題に荒らしていた事態を憂い、東方不敗に群雄割拠の状態をやめさせるよう願い出る。彼らは福州に暮らす少数民族である苗族の勢力と結託し、中国の明朝(漢民族の王朝)の転覆をも同時に計画していた。彼らの実態は日本の忍者部隊で、先述したように服部と猿飛がボスになっている。そして彼らを従える武侠最強の達人が東方不敗だ。東方不敗は、苗族をルーツにした土着宗教である日月教の究極奥義を記した法典を手に入れるため、教祖のヤンを幽閉。そしてヤンの娘インや彼女の同門ランたちが、東方不敗率いる武術集団に復習を挑むというのが主なストーリー。そこに、リンをボスにした華山派という武術集団が巻き込まれ、東方不敗側VS日月教&華山派という対立構造が生じる。ブリジット・リン(林青霞)主演。
クーの意志を汲んだ東方不敗は自分の名を語る者たちの討伐に向かうが、加虐的な性格が再び蘇り、クーに「殺人はしない」と誓った約束をいとも簡単に破ってしまう。






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