モードの世紀 > 講義ノート > JH日本の歴史|2006年度 > 

20061005

先週の復習

(1)東アジアからみた日本の位置
 ・環日本海の陸地…日本列島、朝鮮半島、中国大陸(含シベリア)(他のアジア大陸部やヨーロッパ大陸も含め、広くはユーラシア(ユーロ+アジア)大陸。)
 ・環日本海に小国家が複数存在…邪馬台国の2説は2説そのものとして考えられる。

(2)倭国から日本国へ
 ・古代奈良の地名…山門(宇陀郡・桜井市)→倭(奈良盆地中南部)→大和(奈良盆地)。
・国号「日本」の初出…7世紀後半に施行された飛鳥浄御原令。
・国際舞台への登場…8世紀初頭、唐の即天武后から『日本国』使用認可を得る。
 ・以後、日本国の中心地(行政地)は京都(平安朝)へ移動し、拡大へ向かう。

(3)「日本」の意味
 ・東方(キーワードは「オリエンタル」、「オリエンタリズム」。また、逆に、5世紀の古墳時代に大阪府羽曳野市・堺市など、奈良盆地から見た「西側」に古墳が集中(「死者の国」観念)。なお、古代における大阪府の重要性は、他にも4世紀後半に朝鮮半島との緊張関係にあった軍事的拠点という意味が大きい。)への志向…ユーラシア大陸住民の一般的な傾向。東アジアでは風水にも関連。
・「日の本」…7世紀後半に初出。「日出づる処」で、西の唐や天竺に対する自立意識。
・「日本」…既に平安期の朝廷では「京都から日が昇っていない」と疑問視。(ハワイからみれば?)
・平安時代中期編纂の『延喜式』…関東から九州北部までが日本国支配下に。
(4)縄文時代~古墳時代の服装
・縄文時代…裸体に近く、後期・晩期には、居坐機・地機と織物技術の伝来(織機の原型)。
・弥生時代…筒型衣服「ちはや」(現代的な用語では「袖無しワンピース」といったところ。)が一部流行、古墳時代にかけて普及(後、飛鳥時代には、「ちはや」から「肩衣」(手無し)への変化がみられる。肩衣は、首を通すために落とした部分を襟部に縫合した衣服のこと。)。支配者には一部、絹による衣服が普及。ただし、織法は未熟。
・古墳時代…倭国支配下で既に巫女の存在→宗教と政治との関連性が強い。
ネックレスや「ちはや」(中国語で貫頭衣、古代エジプトではチュニック)など、服飾パターンの原型が形成。
  ※染織先進国中国…絹のツーピースから深衣(現代の韓国のチョゴリ風)(胡服と呼ばれ、襟と袖が付き、前身頃を帯で占める。特に高句麗で着用習慣があった。)へ。
  ※百済からの技術導入
・5世紀初頭に縫衣工女(きぬぬいおみな)が渡来し裁縫技術が伝来。
・470年には織物製作・裁縫作業に従事(漢織・呉織・衣縫を扱う兄媛・弟媛ら)。
(補足)海外関係
 ・天武朝(7世紀中葉)…戦乱の多い東アジア情勢を鑑み、唐王朝の文物導入に力点を置きつつ、国内統治では、従来12階までだった冠位を26階まで細分化。
★お勧め映画…篠田正浩『卑弥呼』(1973年、日本)
★お勧め書籍…網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年
 ★お勧め資料館…奈良県立橿原考古学研究所(奈良県橿原市畝傍町1番地)

古代の東アジア交易ルート

(1)「シルク・ロード(絹の道)」…西アジアから東アジアまで。
・ほとんどが陸路で、中央アジア・中国大陸(日本史では、中国を文明発祥地の一つとして考える傾向が強く、朝鮮半島や日本列島へ文化を広めたという印象が強い。このような見方は、一面では当たっているが、もう一面で注目すべきは、逆に、中国大陸が西アジア、南アジア、中央アジア・新疆といった隣接地域から長期にわたって文化を吸収していた包容力であろう。)を通り、東端は正倉院(奈良県奈良市)。
  └ユーラシア大陸中東部で長期にわたり形成され、奈良時代に平城京まで到達。
 ・狩猟・牧畜社会のヨーロッパと農耕社会のアジア
  └ヨーロッパでは獣皮や毛皮、アジアでは植物繊維が衣料素材へ

(2)海上ルート(隋・唐時代の中国 → 古墳時代の倭~平安時代の日本の例(この(2)は、孫玉琴編著『中国対外貿易史教程』対外経済貿易大学出版社、2005年、に依拠した。)
  ①北路北線 ※基本的な遣隋使・遣唐使のルート
山東半島→朝鮮半島西岸→半島南端→(釜山→対馬・壱岐)→済州海峡→博多大津→瀬戸内海→難波三津浦〈現/大阪市中央区難波〉。
  ②北路南線 ※遣隋使の裴清、遣唐使の円仁ら
   山東半島登州→黄海→朝鮮半島西岸の甕津半島→半島南端→以下①と同じ。
  ③南路南線 ※鑑真
   浙江省〈明州(現/寧波)・越州(現/紹興)〉→東海(日/東シナ海)→奄美大島→大隅海峡→鹿児島沿岸→博多大津→難波
  ④南路北線 ※主に鑑真以後
   江蘇省〈楚州(現/准安)・揚州〉、浙江省〈明州、温州〉等→東海(日/東シナ海)→値嘉島〈現/五島列島、平戸島〉→博多・難波
【問題】①②の北路と、③④の南路の両者で、違う点はどこか。また、その違いは、どのような歴史的背景に起因しているか?(前者にあって後者にない大まかな地域を探し、その地域に関して、鑑真の活躍した時期の東アジア状勢に注目してみよう。)

(3)奈良時代・平安時代における国内の流通パターン ~ 官僚と商人の未分化(中国では儒教の賤商観を重視し、官僚と商人との厳密な身分区別があったが、日本の場合は、そのような区別なしに儒教を導入しており、①~③のように、朝廷・官僚が商業に大きく関与している。この点も含め、(3)は全て、石井寛治『日本流通史』有斐閣、2003年、に依拠した。)
  ①地方における交易
  ・国衙付近の「市」で数日間にわたり実施。一部は中央への献上品となった。
   └繊維品では、伊賀、丹波、伊勢、武蔵、石見、常陸、相模、駿河、遠江、等。
  ②地方と中央との交易
  ・中央政府への献上として、地方官僚や民間商人による遠距離交易が活発。
  ・9世紀末には馬や船による輸送方針が平安朝で立てられ、専門の輸送業者が登場。
  ③中央における交易
  ・藤原京以後に、左京と右京に東市・西市が開設され、政府役人「市司」が秩序や商品価格を管理。最も整備された平安京では東市51種類、西市33種類の店があり、月の前半は東市、後半は西市が常時開設。

古代における繊維・布の献上品

(1)律令制(東アジアでみられる法体系で、これに基づく国家統治体制を律令制(または律令体制)という。日本の場合、7世紀後期から10世紀頃まで実施された。)下における献上品としての繊維・布(7~10世紀)
 ・絹と苧麻に関しては、律令制の下で、「調庸布」(献上品(または年貢)のことで、今の言葉では税金に違いが、現金で徴収されることは少なかった。租庸調と一般的にいわれるもので、「租」が基本的に米で、各国の主要財源として機能し、一部は京へ納められた。「庸」は京での労働(歳役)の代わりに納めた布・綿・米・塩など。「調」は、基本的に繊維製品で(正調)、生産が難しい場合は、代納品として、地方特産品34品目か貨幣納入も認められていた。)として品質やサイズが規格化されていた。
・絹(動物繊維)…調の中核で、支配層の権威と不可分の身分制的衣料。直属地の五畿内は免除。国衙の官営工房に専門技能をもった「織生」が出勤し、生産に従事。
 ・苧麻(植物繊維)…民衆向け衣料材料だけでなく、7~8世紀には調としても利用。苧も麻も含め、繊維の場合は「苧麻」、布の場合は「苧麻布」(「苧」は自然生でカラムシ(イラクサ科の多年草)。「麻」は播種栽培によって生産され、狭義には大麻をさす。広義には植物性の長繊維と、繊維を取る植物全般をいう。なお、長繊維の方が端正に比べ、織物生産には適合的。)
・商布(植物繊維。苧麻・葛等か?)…8世紀初頭から存在し、当初は1丈3尺で、714年に2丈6尺へ。国衙(地方政府)内での交易物だったが、9世紀には東国(≒関東)をはじめ、多数の諸国から中央へ献上。
・問題点…絹はもちろん、苧麻ですら不良品や土着性があり、統一性に難点あり。

(2)『延喜式』下における献上品としての繊維・布(10~12世紀)
 ・『延喜式』(平安中期905年に醍醐天皇の勅で編纂が始まり、967年に施行された格式(律令の施行細則)。三代格式(他に弘仁格式、貞観格式、いずれも平安期)の一つで、最も完全な形で残っている。)においては、「商布」の比重が高まる。
 ・この頃には、地方豪族の経営による、ある程度の大量生産が可能になり、関東諸国(特に、上総から下総にかけての地域)が、苧麻系の布の有力産地化に。
 ・中世に活発化する絹布の産地化が芽生え始める(特に、越後布、越中布、信濃布)。

(3)原材料・繊維・布における献上品としての違い
 ・まず、「布」の規格化は生産水準において地域差があり難しく、「繊維」だと一定の生産体制の下で一定の品質の布へと加工可能。また、束ねたまま輸送できるメリット(利点)がある。
 ・つまり、布よりも繊維を献上させた方がメリットは大きいが、絹の場合は蚕の輸送が不可能であり、繊維か絹布段階での輸送が限界。これに対し、苧麻は植物そのものを輸送することも可能。

(4)古代における庶民層の衣料と染織技術等の状況
 ・ちはや→肩衣→「肩衣+襖」。襖は詰襟の上着で、官服だけでなく、11世紀には庶民へも普及。
 ・平安後期には、織物、組物、染織などの技術・工芸が庶民層へ普及。
(補足)古代の特徴的な衣服~正倉院宝物にみる衣服
 ・唐風衣服の影響…肌着、前掛、脚袢の原型が出現
 ・奈良町上流婦人…ロングスカートにベスト(ツーピース) → 後に一般庶民にも一般化(ただし、アジアでは一般的に庶民層はズボンを穿く習慣がヨーロッパに比べ多い。)
・当時の染色技術の宝庫…絹布(綺、綾、錦、羅、穀)、フェルト、麻布。柄(デザイン)も多様。
(補足)唐衰亡と服装の和洋化
 ・貴族間では、大陸的様式から南方的要素の強い「直線裁式」に戻るか、大陸式と融合し、全体に穏和で優美な服装を目指し長大化。また、9世紀には染色技術が上昇し、原色に留まらない多彩な色を生み出す。

古代の都市構造~条里制・風水思想の関連で

(1)主な宮廷(この時代の宮廷に、他にも滋賀県・大阪府・兵庫県等に一時的に設置されたことが判明している。例えば、孝徳天皇の難波長柄豊埼宮、聖武天皇の恭仁京(現・京都府相楽郡加茂町)・紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)、等々。いずれも10年に満たない短期的なものがほとんど。)

・「宮」は内裏・官衙がある場所、それを囲む都が「京」。政治的・時代的雰囲気を強めると「朝」。
・①→⑤へ都はひたすら北上。⑤の平安朝中期(894年)に遣唐使が廃止されたことを考えると、この北上は中国からの独立過程。また、菅原道真を太宰府へ左遷した点は、九州に対する畿内の優位性を強調させた。

(2)首都建設の基本1 - 条坊制(条里制)の導入
 ・条里制の比較…(1)の②・⑤が類似、また③・④が類似。
  └隋・唐の都「長安」(現/西安)を初めとする。

(3)首都建設の基本2 - 風水思想の影響
・青龍、白虎、朱雀、玄武の四神を、それぞれ東西南北に配置。
・平安京造営時の桓武の意図…長岡京で北辺を消してしまった点を反省し、藤原京を参照。結果、平安京では北辺を追加。この時点で、神仙思想である「九字の呪法」を放棄。また、平城京のような仏教色を弱めた。
・平安時代の宗教…天皇や朝廷においては神道と陰陽道が中心になり、仏教は世俗化。
(参考)風水思想とは?(四神相応や風水思想2派等に関する詳細は、三浦國雄『風水 - 中国人のトポス』平凡社、1995年、を参照のこと。)
 ①相宅や相墓等の占いの技術+陰陽五行説。
 ②古代中国から伝わり、気(エネルギー)の流れを物の配置(方角)で制御し、都市・住居・建物などの位置を決定する思想。
(参考)陰陽五行説とは?(陰陽道(または陰陽五行説)には、単に昔の思想・宗教というのではなく、今でも有効な発想が多い。例えば、陰陽説では、例えば、出産後100日間は粟を食べるのが母体に良いという健康法が重要。また、五行説では五節句、内蔵とツボ(秘孔)との関係(経絡等々)など。整骨院でも実は実践されている。)
 ①陰陽道+五行説
 ・陰陽道…宇宙の最初をカオスとみなし、陽の気が上昇して天となり、陰の気が下降して地となったという認識によって、陰と陽の対立・融合として物事を捉える。発想のルーツは中国の神話や壁画に頻出する「女媧と伏羲」(男女2人が神話の発想の根本にある点は、旧約聖書『創世記』のイブとアダムの例に近いが、女媧と伏羲が人類を生んだといわれるのに対し、イブとアダムは神(ヤハウェ・エロヒム)から作られたといわれる点は大きく違う。)にある。
 ・五行説…万物が木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成ると考える説。
 ②中国と日本における陰陽五行説の違い(日本における陰陽道の経緯については、以下を参照のこと。村山修一『日本陰陽道史話』平凡社、2001年。この本は、古代から中世を中心に、陰陽道と他宗教との関係にも詳しいので、是非お勧めする。)
 ・中国では学問・技術中心、日本では呪術・宗教的。
 ・中国皇帝の礼服と日本天皇のそれとでは、北斗七星と織女星とのデザインに大差(吉野裕子『天皇の祭り - 大嘗祭=天皇即位式の構造』講談社、2000年、「第三章III 天皇の礼服」参照のこと。)

 ★お勧め映画
①滝田洋二郎『陰陽師』日本、2001年。②同『陰陽師II』同、2003年。
 ★お勧め書籍
①岡野玲子『陰陽師』全13巻、白泉社 、1999~2005年(夢枕獏 原作)。
  ②村山修一『日本陰陽道史話』平凡社、2001年。
  ③三浦國雄『風水 - 中国人のトポス』平凡社、1995年。






モードの世紀 > 講義ノート > JH日本の歴史|2006年度 > 
 

▲ このページの一番上へ戻る ▲
このページはリンクフリーです。
Copyright © 2000- mode21.com