ケンゾー・タカダ : Kenzo Takada

1939年、兵庫県姫路市生まれ。神戸市外語大学中退。文化服装学院デザイン科卒業(在学中の60年、第8回装苑賞受賞)。

1961年、文化服装学院を卒業し、同期生の松田光弘と株式会社三愛の企画室に入社。翌64年、ヨーロッパへ観光旅行に出かけたまま、65年からパリに滞在。アルバイトとして、雑誌「エル」、「ジャルダン・デ・モード」などにデザイン画を描いたのがきっかけで、ビザンティと契約。

1970年に独立し、パリのギャルリ・ビビエンヌ(ギャラリー・ビビエンヌ)で、プレタ・ポルテのブティック「ジャングル・ジャップ」(現ケンゾー)をオープン。また同年、作品が「エル」の表紙を飾った。70年にプレタポルテの店というのは、ブランド史で先駆的なものだった。初めてパリの女性に注目されたのは着物スリーブのセーターだったようだ。多彩な色遣いやパリ風のエスプリが特徴。日本の日常着から発想された気取らない重ね着をメインに、70年代の流行をリードし、当時クロエにいたカール・ラガーフェルドとともに「2人のK」と呼ばれた。77年9月、ニューヨークで初めてショーを行ない、成功。77年春夏、新しい感覚のミニルックを出し、これも話題を呼ぶ。

「混ぜるのが好き」という高田賢三の作風は、いくつかの異文化のオリジナリティが融合したもの。70年代には、ニットのタンクトップ、幅広のパンツ、セーラー服、スモック、ブルゾン、東洋調の木綿(木綿詩人といわれた)、1930年代風のクレープ地などが特に注目された。彼の対象とした年齢は、20~25歳くらいの女性で、同じプレタポルテでも、価格がサンローランやラガーフェルドよりも低価だったのも、人気の要因の一つ。

彼の融合的な作風は、フォークロアとして、ブランド史、ファッション史で大切な位置を占める。86年秋冬コレクションでは、サルエルに短い丈のスペンサー・ジャケットを組み合わせ、トップが伝統的な西欧風、ボトムがファンシーな異国風なファッション、つまり都市型エスニック・ルックとでもいうようなスタイリングを披露した。88年にも、コム・デ・ギャルソンや中野裕通らと相まって、エスニックなムードのコレクションを披露。翌年にはカシミール柄のスカーフが大流行した。なお、87~88年秋冬で繰り返し見せたブレザー&カルソンの組み合わせは、街着として流行したほど。日本国内でも、故郷姫路市での野外コレクション、「夢工場」などのイベント活動などで自身のクレイエーションを披露し、話題を呼ぶ。婦人服のライセンス生産を拝し、直輸入のオリジナルに切り替えるなど、世界的なマーケット戦略でも注目を浴びた。

1983年、メンズウェア・ライン、86年、カジュアルスポーツウェア・ライン「ケンゾー・ジーンズ」と「ケンゾー・ジャングル」を展開。88年には「ジャングル・ジャップ」を「ケンゾー」へ社名変更。ライセンスも多岐に渡った。93年にLVMHへ吸収された後も広く活動の幅を広げ、現在では、レディース、メンズ、チルドレンの既製服をはじめ、アクティブ・スポーツウェア、アクセサリー、レザー製品、香水などの分野で、高田賢三デザインの製品は、270にものぼる。日本国内の社名は「ケンゾー・ジャパン」。先述の通りインポートブランドで、レディース、メンズ、チルドレンをカバー。

2000年春夏を最後に、高田賢三は「ケンゾー」を退任。受賞は、装苑賞以外に、FEC賞(77年)、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ位(84年)、毎日ファッション大賞(85年)など。

高田賢三の引退後、後継のクリエイティブ・ディレクターには、ジル・ロズィエ(レディース)、ロイ・クライスベルグ(メンズ)が就任した(メンズは、04年春夏からクリストフ・ブロンダン)。ジル・ロズィエは、61年パリ生まれ。幼少期をアフリカ諸国で過ごし、フォークロアという点から、高田賢三の期待は高い。ロイ・クライスベルグは高田賢三以上に日本人的感覚をもつといわれ、しばらくケンゾーのアシスタントも務めたことのあるデザイナー。また、03年9月、レディースのクリエイティブ・ディレクターに、アントニオ・マラス(Antonio Marras)が就任し、04年秋冬でデビューした。


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[投稿日]2017/02/18
[更新日]2017/05/06