中世における東アジアと欧州の綿花調達の方法

ここでは、中世における東アジアと欧州の 綿花調達 の方法の違いを述べています。15世紀まで絹と麻しか使われていなかった日本で、新たな繊維として16世紀に綿が普及しました。その要因と普及過程について概説します。また、17世紀以降、ヨーロッパでも綿が普及しました。イギリスとインドの関係を踏まえ、絹・麻・毛との比較から近代化における綿の意義を考えます。

古代における天然繊維生産地域の確認

まず、坂本和子『織物に見るシルクロードの文化交流-トゥルファン出土染織資料-錦綾を中心にー』(2008年度博士学位申請論文《大阪大学》 pdf-234頁)から、西暦3世紀の織物文化圏を確認すると次のようになります。ピンク色が毛織物文化圏、水色が絹織物文化圏、黄色が綿織物文化圏(ほぼインド)でした。

当時の陸上貿易や海上貿易にシルクロードがありますが、ユーラシア大陸全域の民衆衣料を変化させるほど大きな貿易では無かったと考え、ほぼ天然繊維、糸、織物の生産可能地域はセットで考えられると見なしましょう。そして、この地図を「生産可能であった天然繊維の地図」と読み替えても、それほど差し支えが無かったと考えます。

三大織物文化圏
坂本和子『織物に見るシルクロードの文化交流-トゥルファン出土染織資料-錦綾を中心にー』(2008年度博士学位申請論文《大阪大学》)pdf-234頁。同名著書として、同時代社 (2012年)から出版(amazonへ)。

この仮説のもとで話を進めると、

綿花調達には二つの方法があります。一つが栽培(生産)、一つが購入(移入、輸入)です。ここで、ヨーロッパと東アジアとの緯度を比べてみましょう。下図の赤線が示すように、ヨーロッパ最南端のポルトガル、イタリア、ギリシアは中国の北京以南、大韓民国の南部、日本の福井県・中部地方、東京辺りに位置することが分かります。要するに、ヨーロッパの一番温かいであろう最南端が、東アジアでは中ほどの緯度に当たり、ヨーロッパの方が東アジアよりも全体的には寒いといえます。

綿花調達 の方法に違いが生じた、ヨーロッパと東アジアとの緯度の差
ヨーロッパと東アジアとの緯度の差 (c) google map

東アジアの 綿花調達 : 輸入から栽培へ

ここでいう綿花調達あるいは木綿普及とは、綿花栽培可能地域が拡大したことを指します。綿製品(木綿)の良さは保温性と吸湿性にあります。これを受けて、中世に東アジアでは栽培が積極的に行われるようになりました。永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』を中心に順に見ていきましょう。

A) 中国

中国で綿花栽培が始まったのは、唐の時代の福建省と言われています。綿花は熱い地域で栽培されやすいので、その後の中国綿花栽培の歴史は北上ということになります。13世紀後半(宋末・元初期)には長江以南地帯まで綿花栽培が拡大されたことが確認されています。民衆にまで綿製品が定着したのは明の時代で、苧麻や粗絹との代替が完了し、中国では良質の絹に加え綿の衣料(生地)・衣料品(服その他)が広く使われるようになりました。

一つ注意しておきたいのが、中国に伝わってきた綿花の種には2種類があったという点です。インドから来た西方種と東南アジアから来た南方種があり、両者を比べると、西方種は長繊維、南方種は短繊維です。19世紀に中国でも日本でも綿糸紡績業が始動した時、イギリスから精紡機等の紡績機械を輸入しますが、直ぐに使えた訳ではありません。なぜなら、イギリスが開発・製造・販売していた精紡機は、インド綿花を綿糸へ加工することが目的だったので、東南アジア発の南方種では規格が合わなかった訳です。逆に考えると、中国では大半が南方種だったと考えられます(したがって、朝鮮・日本は全て南方種だったとも考えられます)。

B) 朝鮮

朝鮮で綿花栽培が開始された時期や拡大した時期は、私の不勉強でよく分かりません。しかし、民衆にまで綿製品が定着したのは14世紀後半、高麗朝末期・朝鮮王朝期だったといわれています。朝鮮半島南部で主に栽培されたようです。

C) 日本

日本が綿花をはじめとする綿製品の輸入を始めたのは15世紀末頃で、朝鮮半島から開始し、やがては明からも輸入するようになります。日本は、応仁の乱以後、戦国時代に入り、兵衣不足に陥ったのが大量需要の理由です。日本の本州・九州・四国で大規模な戦争が長期間にわたり続いているため、朝鮮王朝は綿花不足を憂慮して対日輸出価格を上げました。そこで、多くの守護大名や戦国大名たちは明朝からの輸入を試みようとしたわけです。一部には倭寇が活躍して密貿易が促進されたことも想起されます。

16世紀中期になると、日本では輸入から栽培への転換が始まります。16世紀末には広大な地域で綿花栽培が行なわれたと思われ、民衆衣料(衣料品用生地)は苧麻から木綿へと移行していきます。明朝の場合もそうでしたから、東アジアでは麻と綿が対立関係に入ったと考えられ、絹と綿が2大繊維となったわけです。

永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年(amazonへ)

ヨーロッパの 綿花調達 : 東インド会社経由の輸入

ヨーロッパの綿花調達は輸入一本で進みました。15世紀には、イタリアのヴェネツィア商人が原棉や綿糸を求めアレッポへ行き、棉花が中東経由で南欧へ販売され始めます。17世紀になるとヨーロッパ諸国は東インド会社(East India Company)を通じてインドへの経済支配を開始します。たとえば、イギリスEIC(1600年)、オランダEIC (1602年)、フランスEIC (1604年、国営化は1650年)等々です。

東インド会社経由のインド・イギリス貿易ルート
東インド会社経由のインド・イギリス貿易ルート via 歴史の中のスパイス(その1) | スパイスから世界が見える | ハウスの出張授業 | ハウス食品

東インド会社は、世界初の多国籍企業です。といっても、19世紀中後期アメリカのミシン会社のシンガー社のような数十カ国に展開する多国籍企業では無く、せいぜいが2カ国籍で、法的な貿易打撃を避けるためにイギリス東インド会社が北欧に作ったダミーの東インド会社を含めても、3~4カ国籍程度に留まります。

当初、東インド会社は東南アジアから胡椒を輸入していましたが、17世紀後半にはインド産・インド製の綿花・綿糸・綿織物(以下では綿製品と一括)が輸入額の大半を占めるようになります。18世紀末でイギリスで約7割、フランスで約8割を綿製品が占めたと言われます。

浅田實『東インド会社─巨大商業資本の盛衰―』講談社現代新書、1989年(amazonへ)

A) イギリス綿業の勃興

イギリスが輸入したインド製綿織物の代表品目はキャラコでした。キャラコはイギリス国内で麻織物と競争関係に入り、民衆衣料として定着していきます。他方で輸入への抵抗も始まり、1696年にはインド織物着用禁止法案が上程され(後に否決)、1700年にはキャラコ輸入禁止法が下院を通過し、インド製綿織物(特にキャラコ)の輸入は実質的に不可能となりました。

そこで、イギリスの一部の人々は、インド産綿花かインド製綿糸の輸入に集中するようになり、インド産綿花をイギリス製綿糸へ加工するか(紡績業)、インド製綿糸またはイギリス製綿糸をイギリス製綿織物へ加工するか(織物業)、いずれかの形で綿製品の調達に務めるようになります(インド製綿織物は定入らないのですから)。この2つの加工段階で利用する機械、すなわち、紡績機(粗紡機・精紡機など)と力織機にイノベーション(≒技術革新)が発生しました。これが、いわゆる産業革命(または工業化)の始まりです。産業革命は、後に世界的な規模で波及していきますが、イギリスにとっては綿糸・綿織物の国産化に過ぎなかったという点も忘れてはなりません。

B) フランス消費社会の誕生

フランスでも、17世紀末から18世紀初頭にかけて、キャラコをはじめとするインド製綿織物が上流社会へ浸透しました。ただし、イギリスの場合と異なり民衆衣料として普及したのではありません。この時期のフランスでは、芸術様式(贅沢の関心)がバロックからロココへ転換していたことと相まって、フランス国内で、インド製綿織物は貴族階級に相応しい物として絹織物と競争関係に入りました。1700年以降、しばしば、政府はインド製綿織物の着用や輸入を禁止する法令を公布しますが、イギリスに比べて効果は少なく、後に、ポンパドゥール夫人(ルイ15世の公妾)が積極的に認可するに至ります。

室内装飾を主体とするロココ調を中心とした芸術様式のもとで、フランスでは、17世紀の「芸術品の時代」から18世紀の「奢侈品の時代」へ移りました。1682年にフランス国王ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設します。このことをヴェルナー・ゾンバルトは『恋愛と贅沢と資本主義』の中で女性の勝利と捉えました。ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を作った(作らせた)のではなく、王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(マリア・テレサ)がルイ14世に作らせたのだと、ゾンバルトは解釈した訳です。衣装においても女性のファッションが注目されるようになっていきます。

ヴェルサイユ宮殿 公式サイト
ヴェルサイユ宮殿 公式サイト via Château de Versailles | Site officiel

ここで、18世紀のフランス貴族たちの贅沢水準をゾンバルトの著書から紹介しましょう。1803年のフランス交換レート「1 リーヴル (L) =1 franc=金 0.322g」=現1,100円、を土台に現在の日本円で換算しますと、

  • ①ポンパドゥール夫人(ルイ15世の公妾)が自分の城に来た客人たちに土産として渡した下着の年間支出額は、60万リーヴル、現在の日本円で約6億6,000万円。
  • ②マリー・アントワネット(ルイ16世の王妃)が年間に支出した衣装費用は、1773年で12万リーヴル(約1億3,200万円)、1787年で22万リーヴル(2億4,200万円)。

これらが国家予算として税金から賄われているのですから、貴族どもの格差社会、恐るべしです。

ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』金森誠也訳、講談社 、2000年(amazonへ)

補足) 繊維・アパレル産業における英仏の新競争 : フランスの敗北の「仕方」

紡績機と力織機に動力面・技術面でイノベーションが生じると、イギリスでは毛・麻・綿だけでなく、フランスから輸入した蚕や絹繊維を元に絹糸生産や絹織物生産も進展させました。こうして、イギリス産業革命はフランスに深刻な打撃を与え、フランスは19世紀後半にモード産業(ファッション産業)を勃興させて、衣服生産(仕立業、デザイン業)に注力せざるを得ない事態へ展開しました。このモード産業の発展については「オート・クチュール : 自作自演の自称アート集団」をご覧ください。

また、フランスではアパレル産業も進展する機運が見えてきました。1830年代か1840年代に、バルテルミー・ティモニエはミシンを開発してナポレオン軍に80台のミシンを納品したといわれています。しかし、2度にわたり、彼のミシン店は破壊されました。それまで、手裁縫を行なっていた仕立業者たちが、ミシンの登場によって自分の仕事が奪われるのではないかと危惧したからです。

その集団とは言えませんが、手裁縫の一部の業者たちが、シャルル・フレデリック・ウォルト(Charles Frederick Worth)の号令の下で、1868年に仕立屋の組合(The Chambre Syndicale De La Confection Et De La Couture Pour Dames Et Fillettes)を結成します。この組合は1911年に組合改編され、今のパリ・コレクションで有名なパリ仕立組合になりました(The Chambre Syndicale De La Couture Parisienne)。


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[投稿日]2017/05/18
[更新日]2017/05/27