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<title>ファッションの歴史</title>
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<modified>2008-03-11T03:56:49Z</modified>
<tagline>年表、ブランドの歴史や個別テーマの歴史、日本ファッション史、日本洋服史など。他に年表や写真資料も紹介。</tagline>
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<title>日本ファッション史の考え方</title>
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<summary type="text/plain">ファッション雑誌を見ていると、特集ページでは、ちょっと手を伸ばせば届く値段の商品...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>ファッション雑誌を見ていると、特集ページでは、ちょっと手を伸ばせば届く値段の商品が掲載されている。しかし、広告ページでは、既製品ですら決して手が届かないようなトップ・ブランドが、日本国内本店の居住地・連絡先等を記載するだけで、値段を掲げず暖簾を出している。このような意味で、ファッション雑誌は、「手に入れることのできる商品」と「いつかは手に入れたい商品」との落差を縫い込んでいるといえる。そもそも、ファッションとは、衣服や服飾品、それらの流行現象、時代の価値観など、幅広い意味をもっている。良くも悪くも、ファッションとは、「揺らぎ」をもった文化的特徴を備えている。</p>

<p>漢字に注目してみよう。「服飾」の「飾」は、自分らしさや煌びやかさをイメージさせるが、「服」の方になると、違うイメージも出てくる。婦人服、紳士服、子供服、洋服、和服、制服など、「服」の付く言葉を挙げると切りがないが、「服」には、征服、屈服、服従といった、闘争的な意味や権威的なニュアンスも含まれる。</p>

<p>繊維・服飾の歴史からみた日本史を理解するには、ある程度の専門的用語を用いても、乱用しないことが大切である。当時使用されていた用語を用いることは歴史を大切にする態度として大切かも知れないが、歴史を大切にすることと、歴史を理解することとは、別の次元の態度だからである。理解を妨げるほどの専門用語の多用は、結局は歴史を拒絶する態度に繋がる。私たちは、歴史を知ることによってではなく、歴史を理解することによって、はじめて自分自身の置かれた状況を知ることができる。只の物知りは、歴史の理解と自分の居場所探しには不要である。</p>

<p>冒頭に記したような「服」のもつ落差に注目して、単なる習慣や流行と思いがちな服飾文化（特に衣服と生地）、日本衣服史・服飾史・ファッション史をテーマに、日本列島の歴史を振り返る場合、産業史の観点からみれば、農業史ではなく工業史が焦点に当てられる。また、服飾については文化史や社会史に関する叙述も含める。工業史の地点、いいかえれば繊維・衣服の生産という地点に立てば、そこには、大規模な生産体制から極小規模の製造工房に至るまで、多様なシステムや労働形態がみえてくる。古代から現代にいたる衣服産業史について、一定の見通しを与えることが、本書の根本的な課題である。</p>

<p>今から約100年前の20世紀転換期には、比較的大規模な工場が企業体として成立し、世界経済において一定のシェアを誇ったが、世紀後半にはその脆弱性が露呈され、製品転換はもちろんのこと、企業体の維持そのものが危険にさらされることとなった。日本の企業体の特徴の一つとされてきた財閥についても、比較的生命力が強いと思われてきたが、それとて、近年の銀行統合にみられるような脆弱性は顕著なものとなった。</p>

<p>逆に、日本のもう一つの特徴とされてきた中小企業・零細企業の生命力は、日の当てられることは少なかったものの、その強みが再び脚光を浴びる時代になった。それらは、20世紀中期にみられたように、日本政府や大企業に依拠する時期もあったが、世紀末にははっきりと態度を変え、アジア諸国や諸企業との連携によって、新陳代謝による活性化を実現したと、大まかにまとめることができる。その間、今まで考えられなかったような企業体も出現した。従来のように特定国に本社を置く1社が多国籍企業化するものではなく、資本・開発・生産・販売などが各国籍に分断されている多国籍工程とよべる事態（企業体と呼ぶよりも企業連合と呼ぶべきかも知れない）が顕在化した。また、製品開発以外の全ての工程部門を外注するファブリス企業や、自社製品としての製品販売を行なわず、受託生産に特化した企業（ファウンドリー企業とよばれる）等も出現した。</p>

<p>上記のような動向においていえることは、20世紀の経済学では紐解けない事態が、同じ20世紀の経済や文化をつうじて、進行していたという事実である。本書の取り扱う繊維・服飾についても同様のことがいえる。例えば、東洋紡やカネボウ（鐘淵紡績）のように、19世紀末に大規模な紡績工場として勃興した企業は、既に企業合併を済また後、20世紀の始まりとともに綿糸紡績だけを生産する限界に突き当たった。化合繊がアメリカを中心に普及しはじめたからである。</p>

<p>これらの大規模紡績企業は、人造絹糸（人絹）、化学繊維・合成繊維の生産に着手するケースや、織物業内製化を目指し、紡績兼営織布として展開したケース、さらには、20世紀中期には、労賃の上昇により紡績業そのものの経営維持が困難となり、化粧品部門を開拓したケース等、企業体としての維持に過度な重圧がかかった。カネボウやレナウンなど繊維メーカーや商社は、1960・70年代に、挙ってファッションの流行創出を行なったものの、原材料を自前で用意することを既に放棄し生産財国産化のみに拘泥していた日本経済の文脈のなかで、その効果は非常に限定的なものに終わった。日本のファッション流行においては、原材料と生産財を日本に輸出する国々（日本への輸出国）や、衣料製品を日本から輸出する国々（日本からの輸入国）の事情変化に左右され、いわば背骨なき衣服文化と衣服産業が20世紀日本を貫通した。</p>

<p>さて、幸か不幸か、私たちの目の前にあるのは、既に作られたものだけである。あなたが読んでいる本や雑誌、あなたが今聴いている音楽、そして、あなたが住んでいる家、何もかもが既製品である。残念ながら、「いま」私たちが触れることのできるのは、すべて過去の領域にあり、未来に触れることはできない。</p>

<p>総じて、自己表現、デザイン、清潔感、流行、プレゼント、恋愛、マーケティング、技術・機械、身分・階級、政治、戦争など、実に様々な事柄に関係してきたファッション文化やアパレル産業を題材に、日本の歴史を概観することが可能である。</p>

<p>ただし、「日本」という国名が古代の唐（今の中国）に対する方角を意識したものであったことを踏まえ、日本の歴史は、大昔から一国の歴史としてはほとんど成立していないという点にも注目する。服飾においても同じことがいえる。紀元前の中国大陸で蓄積された服飾文化が20世紀前半にいたるまでの日本史を決定した。このことは、19世紀後半のアメリカ合衆国における服飾文化が、20世紀後半以降の日本史を決定しているのと同じことである。</p>]]>

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<title>近代日本における洋裁教育</title>
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<modified>2008-01-28T16:34:13Z</modified>
<issued>2008-01-28T16:32:45Z</issued>
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<summary type="text/plain">近代日本における洋裁教育は、日本における衣料受容の先導的なシステムとして1870...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>近代日本における洋裁教育は、日本における衣料受容の先導的なシステムとして1870年代から本格的に着手された。</p>

<p>外国の技術・製品は、まずは男性のごく一部が、次に帰国子女が普及させた。フランスのオートクチュールやプレタポルテなどトップ・ブランドの情報についても似た状況である（ケンゾー、コムデギャルソン等々）。つまり、特権的な人間が知らない人間へ伝授するという鎖国体制が広く行きわたってきた。典型的な鎖国型普及である。</p>

<p>最新ファッション、トップ・ブランドはヨーロッパ、カジュアル・ウェアはアメリカ合衆国という対立構造が、日本においては、近代に貫通した衣料消費のパターンとなった。もっとも、カジュアル・ウェアが合衆国から輸入されるのは20世紀後半であるが、ずっと以前には、ハード面でシンガー社の独占状態にあった。</p>

<p>これに対し、和裁教育は、主に家庭内で行なわれたかも知れない（暗黙知）。洋裁教育は多分に形式知の要素が強い（今まで無かったのだから）。</p>

<p>いずれにせよ、洋裁・和裁の技術普及や利用道具・機械の傾向については、今後調べていくつもりである。和裁と一言でいっても、茶道・華道と同じく裁縫道と呼べるような専門教育や技術伝授のレベルから、家庭内的な簡素な裁縫レベルまで、いくつかの段階があったようである。</p>

<p>以上の点については、<a href="http://www.mode21.com/history/002379.html" target="_blank">衣服革命と洋裁教育</a>においても簡単に紹介しているので、参照してほしい。</p>]]>

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<title>イギリス絹織物業の転換</title>
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<modified>2008-01-20T08:24:11Z</modified>
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<summary type="text/plain">19世紀末に、杉田定一という福井県出身の代議士が、福井県絹織物同業組合と農商務省...</summary>
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<dc:subject>個別ファッション史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>19世紀末に、杉田定一という福井県出身の代議士が、福井県絹織物同業組合と農商務省から委任を受け、海外視察として渡欧した際に、羽二重のイギリス輸出の有効性と、フランス輸出の具体策をインタビューしている。相手は、当時イギリス絹織物業の産地として著名であったマクルスフィールドの絹織物業者であった。</p>

<p>マクルスフィールドの絹織物博物館のパンフレットや地誌的な本を４冊、パラパラと読み飛ばしたところ、産業革命の元祖イギリスも、そのものとして調べていくと、ヨーロッパ大陸からの技術移転や原材料の輸入など、とくに、イタリアとフランスから影響を受けている側面もあることがよく分かる。綿糸紡績業や綿織物業など、木綿製品はともかく、絹製品については、イギリスですら、国家間競争と呼べうるような深刻な事態が生じていた。</p>

<p>今回、参照した本やカタログは以下の4冊である。</p>

<ul><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1843061686/modernflaneur-22" target="_blank">Dorothy Bentley smith, “Past Times of Macclesfield”, Volume II, Landmark Publishing Ltd, 2005.</a></li><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1870926048/modernflaneur-22" target="_blank">Louanne Collins & Moira Stevenson, “Silk, Sarsanets, Satins, Steels and Stripes”, Macclesfield Museums Trust, 1994.</a></li><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1870926145/modernflaneur-22" target="_blank">Louanne Collins , “Macclesfield Silk Museums - A Look At The Collections”, Macclesfield Museums Trust, 2000.</a></li><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0907511953/modernflaneur-22" target="_blank">George Longden, “Life and Labour in Victorian Macclesfield”, Neil Richardson, 1983.</a></li></ul>

<p>以下、一気に、上記参照文献を記憶モードも交えてまとめ直すが、イングランド、チェシャー州ボーリン川沿いのマクルスフィールド（Macclesfield）は、17世紀中に、ボタンを絹で包んだ産業として本格的に勃興した（絹ボタン産業）。この場合の絹は、織物というほど大きい必要はなく、粗布であったかも知れない。その後、18世紀になって当地は絹紡績業として展開し、当時、イギリス絹織物の中心地だった、ロンドン東端シュピタルフィールズ（Spitalfields）向けに絹糸を提供するようになった。</p>

<p><a href="../image/all_067.jpg" target="_blank"><img alt="ジャカード製織による女性用ドレス生地" src="../image/all_067_small.jpg"></a><small>※画像は、1850年にブロックリハースト夫妻により織られた、ジャカード製織による女性用ドレス生地とスカーフ地の見本。（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1870926048/modernflaneur-22" target="_blank">Louanne Collins & Moira Stevenson, “Silk, Sarsanets, Satins, Steels and Stripes”, Macclesfield Museums Trust, 1994.</a>.p58）</small></p>

<p>さらに後になると、シュピタルフィールズの絹織物業が衰退の兆しをみせ、マクルスフィールドは絹糸生産のメリットを活かして、絹織物業産地として再展開した。19世紀前半がおそらく、マクルスフィールドの絹産業としての全盛時代になったようである。</p>

<p>1820年代に当地へ投入された力織機は、当所、綿織物生産には適合的であったが、絹織物生産には若干の改良をする必要があったようである。いずれにせよ、絹織物生産にも力織機が導入され、同時期にジャカード織法もイタリアやフランスから紹介された。ここで、マクルスフィールドは絹織物生産でジャンプ・アップをしたといえる。</p>

<p>もっとも、18世紀から19世紀前半にかけて、当地でも、児童労働の酷使など社会問題が発生していた。産地としては煌びやかな地位を占めるに至ったが、内情はボロボロであったという工業化の両義性を孕んだマクルスフィールドであった。</p>

<p>19世紀中期になると、工業国から金融国への転換を遂げようとしていたイギリス政府は、アメリカ合衆国への移民政策を奨励した。補助金付きの移民制度が導入され、マクルスフィールドの織工たちは家族連れで、ニュージャージー州へ大量に移動した。当地からの移民者にとって不運だったのは、その直後、アメリカ合衆国が保護貿易政策を導入したことである。アメリカとイギリスの間で絹織物製品の貿易や技術交流が断絶されたことになる。この時点で、マクルスフィールドは、織工の大量流出によって打撃を受けることになった。</p>

<p>以後、19世紀後半のマクルスフィールド絹織物業は衰退を続けながらも、当地に残った手機・力織機両方の織工たちが作業を継続させていたが、19 世紀末には、さらに一つの大きな問題が生じた。セルロースを中心にした人造絹糸がアメリカ合衆国から輸入され始めたのである。そこで、当地の絹織物業には、材料転換をする必要が生じ、天然絹糸か人造絹糸の選択という問題に直撃し、天然絹糸を選択した織工たちの方は、とくに売上げも利潤も上がらなかったという。</p>

<p>第2次世界大戦中はパラシュート用絹織物生産を行ない急場を凌いだが、めっきり職人芸だけが売りの地域になってしまった。その意味では、政府の保護から見放され、さらに材料繊維の転換に多大な費用を要した19世紀の事態は、同時期に衰退した西陣に似ている。</p>

<p>冒頭で記した杉田定一は、19世紀末にリヨン市場を狙った羽二重輸出案を模索したが、マクルスフィールドという地域を念頭に置きながらフランスに焦点を絞った態度は、かなり当を得た観点を持っていたと考えられる。同時期に海外視察を行なった政治家や業界人と比較する課題や、マクルスフィールド以外の強敵産地を調べる課題が残る。</p>]]>

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<title>3）中世における荘園公領制と絹織物生産</title>
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<modified>2007-05-05T07:57:12Z</modified>
<issued>2007-05-05T07:53:29Z</issued>
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<summary type="text/plain">背景 12世紀後半、平氏と源氏という武士階級の勢力が強まるなか、本州を中心とした...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史</dc:subject>
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<![CDATA[<h2>背景</h2>

<p><img src="../image/003395.jpg">12世紀後半、平氏と源氏という武士階級の勢力が強まるなか、本州を中心とした「日本国」は西国と東国との分裂を経験した。</p>

<p>西国国家は、平氏政権下に組み込まれ、西日本を拠点に、中国大陸（宋）との貿易まで展開した。それに対し、東国は、源氏中心の東国勢力を中心に構成され、後に源平の闘いに勝ち、頼朝は京都の朝廷と和解後、征夷大将軍に任命された。</p>

<p>その後、源頼朝は、九州に鎮西奉行を設置し、東北には奥州藤原氏を攻撃し滅亡させ、奥羽を支配下に治める。ここに、日本国の統治権を分割する二人の王（天皇と将軍）・二つの国家（平安朝と鎌倉幕府）が対峙する図式が明瞭になり、この頃に形成された東西意識は、「東西男女の婚姻率」<small>（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593439/modernflaneur-22" target="_blank">網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫、1998年</a>、38ページ）</small>をはじめ、多少なりとも現代にも影響を与えている。</p>

<p>さて、東西分裂後の日本列島における荘園公領制と絹織物生産について大まかにまとめてみよう。</p>

<h2>（1）荘園公領制に見る東西の違い</h2>

<p>西国・東国とも、荘園公領制という同じ土地制度にもとづき人民を支配したが、以下の3点に大差があった<small>（以下、主に<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062689006/modernflaneur-22" target="_blank">網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年</a>を参照した）</small>。まず、<strong>単位のあり方</strong>だが、東国・九州中南部では、郡・条・院（令制の郡から転化）が基本単位とされ、これら自体が荘となった。これに対し、九州中南部を除く西国では、郡が徴税単位としてはさほど機能せず、小規模の郷が中心となり、これが荘に転化したとされる。そして、同じ「荘」でも、西国の方が小規模であることが多い。</p>

<p>次に、<strong>領主のあり方</strong>をみると、西国では、徴税単位の田畠が平民百姓名となっており、様々な職が補任的な関係をもつ「職の重層的体系」が実現されている。これに対し、東国では、百姓名が出てくることが少なく、一族・主従の関係を通じ郡や荘を管理する体制が採用されていた。</p>

<p>3つ目の<strong>年貢品目</strong>にも面白い違いが見られる。西国では、通説の日本史が教えるような世界が展開されていた、つまり、米年貢を賦課する荘園が多く、特に畿内・瀬戸内海沿海地域・九州では顕著であった。ところが、伊勢・尾張・美濃以東の諸国では、絹・糸・綿・布などの繊維製品が年貢の中心とされていた。北陸道諸国を除いた東国における米年貢は異例だった。</p>

<h2>（2）絹織物生産の相対的低下と産地変化</h2>

<p>このような東西の差異が際だつ時流のなか、東西の中央を出自とした伊勢商人・近江商人の活躍が中世前半には目立った。滋賀県・三重県は、東国と西国との結節点で、絹織物などの流通が活発だった。また、女性による絹関係の労働成果は、桑<small>（桑は弥生時代から栽培が始まっている。）</small>、養蚕に従事し、絹を貢納する目的だけでなく、貨幣にもなった。</p>

<p>中世後期から近世前期になると、絹糸・絹綿に徴税の比重が掛かり、地方蚕糸業や織物業は相対的に活力を失った。まず、九州・中国・北陸・山陰地方の蚕糸・織物業が活力を失い、代わりに、対明貿易による白糸輸入が激増した。</p>

<p><img src="../image/kehukigusa.jpg">近世初期『毛吹草』段階で残った絹織物産地をみると<small>（転載元は、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642079343/modernflaneur-22" target="_blank">永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年</a>、150ページ。）</small>、絹系の産地は、越前（現福井県）、但馬（現兵庫県）の出石絹、丹後（現兵庫県）の丹後織絹袖が確認される程度であり、この時期、尾張（現愛知県）・伊勢（現三重県）は絹織物から綿織物へ転換し、例外的に、西陣（現京都府）では古代の織部司の技術を継承しつつ、絹織物生産の絶頂期を迎えたが、原材料は、明の高品質絹糸だったとされる。</p>

<p>絹糸・絹織物の産地活力の低下によって、中世末から近世初頭にかけての日本列島は<strong>「木綿輸入とその国産化」</strong>という事態を迎えることとなる。</p>]]>

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<title>ミシン開発前夜 - 手縫いの風景</title>
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<modified>2007-04-28T14:37:00Z</modified>
<issued>2007-04-28T14:09:49Z</issued>
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<created>2007-04-28T14:09:49Z</created>
<summary type="text/plain">以下は、ローリー・カールソン『発明品たちの女王 ?? 縫製機が世界を変えた方法』...</summary>
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<email>flaneur@mode21.com</email>
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<dc:subject>個別ファッション史</dc:subject>
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<![CDATA[<p><small>以下は、ローリー・カールソン『発明品たちの女王 – 縫製機が世界を変えた方法』 （英語圏小学校高学年生向けに書かれた絵本）の一部を訳した（※）。</small></p>

<p>昔々、人々は日中、時には夜遅くまで、針と糸を使ってステッチ（stitch）をしていました（縫っていました）。大海を横断するための船の帆（帆布）や、西部地方へ旅行するための荷馬車の覆いは、そのような方法でしか作れませんでした 。栄光に翻る旗、結婚式用のウェディング・ドレス、赤ちゃん用の衣服、誰もが着用するもの全てが、そうでした。</p>

<p><img src="../image/tailor_2.jpg"><small>（※※）写真の出典元はページ下部参照のこと。</small></p>

<p>少女たちは、細かく、入念なステッチを行なって、丈夫なものを作る方法を学ぶのに、毎日数時間を費やしたものです。だからこそ、彼女たちが成長するにつれ、家族が着る全ての衣服を作ることが彼女たちに必要とされたのです。彼女たちは、タオル（towels）、毛布（blankets）、ベッド・シーツ（bed sheets）、テーブル・クロス（table cloths）、カーテン（curtains）なども縫わなければなりませんでした。たくさんのステッチとたくさんの手作業（手仕事）があったわけです。</p>

<p>全ての人がステッチに長けていた訳ではありません。また、出来上がったものが望ましいものであったとも限りませんでした。ステッチは、人々が数年間にわたって衣服を着用することに比べれば、大した作業ではありません。時に人々は衣服を裏返すことで、服の寿命を延ばす場合もありました。</p>

<p><img src="../image/tailor.jpg">（※※）<small>写真の出典元はページ下部参照のこと。</small></p>

<p>裕福な家庭では、仕立屋（tailors）を雇い、スーツ（suits）を縫わせたり、あるいは、女裁縫師（seamstress）と呼ばれる少女たちに賃金を支払って、家庭内でドレスやシャツを縫わせたりしたものでした。衣料（garments）を試着するには、仕立てられるのと同じくらいたくさんの時間が必要でした。衣服を作成するには膨大な作業が必要だったのです。富裕な人々ですら、多くの衣服を持っていることはありませんでした。</p>

<p><small>※<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0761327061/modernflaneur-22" target="_blank">Laurie Carlson, “Queen of Inventions: How the Sewing Machine Changed the World”, The Millbrook Press, 2003</a>.<br />
※※写真は<a href="http://www.history.org/" target="_blank">Colonial Williamsburg Where History Lives</a> 内「<a href="http://www.history.org/Almanack/life/trades/tradetai.cfm" target="_blank">Tailor</a>」より借用した。</small></p>

<h3>参考「Tailor」（仕立屋）抜粋訳</h3>

<p><strong>裁断技術（カッティング技術）</strong><br />
多くの言語で「仕立てる」の単語が意味するのは、「裁断技術」である。実際、カッティングは、衣料を身体に完全にフィットさせる繊維の裁断のことである。個々人の身体を採寸し、巧みに衣料が身体にフィットする方法を寸法が決定するパターン・メイキングこそが、仕立屋（テーラー）スキルとなってきた。テーラーは男女を問わず衣服を作成してきた。シャツ、ストッキング、帽子、ケープといったものはレディ・メイド（既製品）だが、コート、ウェスト・コート（ベスト；weskits）、ブリーチ（半ズボン；breeches）、ステイズ（コルセット；stays）、それにガウンといったコスチュームは、個々人向けに作られた。だから、個人の社会的・経済的ステータスがどのようなものであれ、潜在的にはテーラーの顧客（得意先）だったのである。</p>

<p>※以上、「<a href="http://www.history.org/Almanack/life/trades/tradetai.cfm" target="_blank">Tailor</a>」（<a href="http://www.history.org/" target="_blank">Colonial Williamsburg Where History Lives</a>）を抜粋訳した。</p>]]>

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<title>2）古代における繊維・布の献上品</title>
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<modified>2007-04-18T00:01:55Z</modified>
<issued>2007-04-17T23:27:58Z</issued>
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<summary type="text/plain">（1）律令制下における献上品としての繊維・布（7??10世紀） 絹と苧麻に関して...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史</dc:subject>
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<![CDATA[<h3>（1）律令制下における献上品としての繊維・布（7～10世紀）</h3>

<p>絹と苧麻に関しては、律令制の下で、<strong>調庸布</strong>として品質やサイズが規格化されていた。</p>

<p>そのうち、<strong>絹</strong>（動物繊維）は、調の中核で、支配層の権威と不可分の身分制的衣料として機能していた。国衙の官営工房に専門技能をもった「織生」が出勤し、生産に従事することで調に対応されていた。直属地の五畿内は免除された。</p>

<p><strong>苧麻</strong>（植物繊維）の方は、民衆向け衣料材料だけでなく、７～8世紀には調としても利用されていた。苧も麻も含め、繊維の場合は「苧麻」、布の場合は「苧麻布」。</p>

<p><strong>商布</strong>（植物繊維。苧麻・葛等か？）は、8世紀初頭から存在し、当初は1丈3尺で、714年に2丈6尺へ長さが変更された。国衙（地方政府）内での交易物であったが、9世紀には東国（≒関東）をはじめ、多数の諸国から中央へ献上するようになった。</p>

<p>これら<strong>調庸布にみられる問題点</strong>は、絹はもちろんのこと、苧麻ですら不良品や土着性があり、統一性に難点があったことである。この問題に対して採用された、ある程度の解決策は（3）を参照されたい。</p>

<p><small>※律令制…東アジアでみられる法体系で、これに基づく国家統治体制を律令制（または律令体制）という。日本の場合、7世紀後期から10世紀頃まで実施された。<br />
※調庸布…献上品（または年貢）のことで、今の言葉では税金に違いが、現金で徴収されることは少なかった。租庸調と一般的にいわれるもので、「租」が基本的に米で、各国の主要財源として機能し、一部は京へ納められた。「庸」は京での労働（歳役）の代わりに納めた布・綿・米・塩など。「調」は、基本的に繊維製品で（正調）、生産が難しい場合は、代納品として、地方特産品34品目か貨幣納入も認められていた。<br />
※苧麻布…「苧」は自然生でカラムシ（イラクサ科の多年草）。「麻」は播種栽培によって生産され、狭義には大麻をさす。広義には植物性の長繊維と、繊維を取る植物全般をいう。なお、長繊維の方が短繊維に比べ、織物生産には適合的である。</small></p>

<h3>（2）『延喜式』下における献上品としての繊維・布（10～12世紀）</h3>

<p>『延喜式』においては<strong>商布</strong>の比重が高まる。『延喜式』編纂時期、すなわち、10世紀になると、地方豪族の経営による大量生産がある程度は可能になり、関東諸国（特に、上総から下総にかけての地域）が、苧麻系の布の有力産地となっていった。また、中世に活発化する<strong>絹布の産地化</strong>が芽生えはじめたのもこの時期である（特に、越後布、越中布、信濃布）。</p>

<p><small>※『延喜式』…平安中期905年に醍醐天皇の勅で編纂が始まり、967年に施行された格式（律令の施行細則）。三代格式（他に弘仁格式、貞観格式、いずれも平安期）の一つで、最も完全な形で残っている。</small></p>

<h3>（3）原材料・繊維・布における献上品としての違い</h3>

<p>調庸布のような「布」の規格化は、生産水準において地域差が大きく困難であったが、「繊維」段階で献上する場合は、一定の生産体制の下で利用すれば、一定品質の布へと加工することが可能である。また、束ねたまま輸送できるメリット（利点）も大きい。</p>

<p>つまり、一定品質、輸送量から考えると、布よりも繊維を献上させた方がメリットは大きい。もっとも、絹の場合は蚕そのものの輸送は不可能であり、繊維か絹布段階での輸送が限界であるが、これに対し、苧麻は植物そのものを輸送することも可能である。</p>

<h3>（4）古代における庶民層の衣料と染織技術等の状況</h3>

<p><strong>ちはや→肩衣→「肩衣＋襖」</strong>。襖は詰襟の上着で、官服だけでなく、11世紀には庶民へも普及した。平安後期には、織物、組物、染織などの技術・工芸も庶民層へ普及している。</p>

<p><img src="../image/20061005 003.jpg"><h3>（補足）古代の特徴的な衣服～正倉院宝物にみる衣服</h3></p>

<p>唐風衣服の影響で、肌着、前掛、脚袢の原型が出現した。奈良朝の上流婦人の服装には、ロングスカートにベスト（ツーピース）というチマ・チョゴリに似た衣服形態が確認される。このツーピースは、後に一般庶民にも一般化した。ただし、アジアでは一般的に庶民層はズボンを穿く習慣がヨーロッパに比べ多いといわれる（村上信彦『服装の歴史』）。また、正倉院は当時の染色技術の宝庫であり、絹布（綺、綾、錦、羅、穀）、フェルト、麻布。柄（デザイン）も多様に収蔵されている。</p>

<h3>（補足）唐衰亡と服装の和洋化</h3>

<p>貴族間では、大陸的様式から南方的要素の強い「直線裁式」に戻るか、大陸式と融合し、全体に穏和で優美な服装を目指し長大化。また、9世紀には染色技術が上昇し、原色に留まらない多彩な色を生み出した。</p>

<p>※写真は、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122046114/modernflaneur-22" target="_blank">高田倭男『服装の歴史』中央公論新社、2005年</a>から転載した。</p>]]>

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<title>中世・近世にみる小袖の変化と江戸時代の下着</title>
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<modified>2007-01-30T10:33:59Z</modified>
<issued>2007-01-30T10:23:10Z</issued>
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<summary type="text/plain">このページは、主に高田倭男『服装の歴史』中央公論社、2005年を参照した。 （1...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>このページは、主に<a href="http://www.mode21.com/book/002916.html">高田倭男『服装の歴史』中央公論社、2005年</a>を参照した。</p>

<p><strong>（1）中世後期</strong></p>

<p>①公家の上層では白平絹（下着）、武家では小袖の重ね着や奇抜な成金趣味的デザイン（上着）。</p>

<p>②小袖の着流しの普及 ⇔ 摺箔、刺繍、唐織物、緞子等の生地。</p>

<p>③身幅が広く、袖幅の狭い小袖の出現 ⇔武家や町衆等の裕福な都市居住者たち（<small>庶民の小袖も同様の形状に移行したが、生地は麻布である点が異なる</small>）。</p>

<p>④平絹を除く絹織物では、経糸に生糸、緯糸に練糸を利用し、生地に張りがある。</p>

<p><strong>（2）近世前期</strong></p>

<p>①身幅が狭く、袖幅の広い小袖の再現…慶長小袖として富裕層へ。庶民は平安時代末期以来、これ。</p>

<p>②練絹の再活発化…飛鳥・奈良時代に貴族階級で流行していた「綺（<small>中国では流行とならずに、一般的に利用され続けた。</small>）」が沙綾・緞子として再普及。<ul><li>一説では、中国の明王朝滅亡後に大量の職工が日本に渡り堺を中心に製織 → 西陣へ普及。</li></ul></p>

<p>③慶長小袖の変化…慶長後半期、デザインにおける区画の抽象性が変化し、山形や雲形等の具象性へ。</p>

<p>④小袖デザインの進化…細密・濃厚な文様と色彩（寛永小袖）や、大柄で動的な文様（寛文小袖）へ。</p>

<p><strong>（3）近世中期</strong></p>

<p>①小袖の定型化<ul><li>武家だけでなく町人も、袖付から袖口まで円弧を描いた小袖を着用（江戸中期まで）。</li><li>身体の輪郭を現わしやすい柔軟な生地と、身体とのスペースが狭まった織幅。</li></ul></p>

<p>②小袖の選択肢…形状のデザインではなく、材質、色、文様デザインに主眼。<ul><li>絹織物においては、西陣機業の多くが公家・上級武家向けから町人向け製品の製造・販売へ。</li></ul></p>

<p>③生地デザインの変化<ul><li>絣（<small>絣とは、経糸ないし緯糸の所定部分を括って防染した文様の織物のこと。</small>）の登場…江戸時代中期後半から、腰替りの筋や格子の中か無地の中へ絣の利用が開始。</li><li>縞柄（<small>縦縞・横縞・格子縞を問わず、縞柄は古今東西で「異端視」傾向が強い。中世以降のヨーロッパの事例は以下に詳しい。ミシェル・パストゥロー『縞模様の歴史 - 悪魔の布』松村剛・松村恵理訳、白水社、2004年。</small>）の普及…技術的には既に平安期に製造可能だったが、江戸中期に縦縞が町人の間で流行。</li><li>友禅染の意義…17世紀末に登場し、小袖の模様染に画期的な影響。一定の技術水準に達した18世紀中葉以降、デザイン細部の複雑化へ主眼がシフト。</li></ul></p>

<p>※小袖のキーワード：桃山時代の小袖、慶長小袖、寛文小袖、友禅小袖（友禅染）。</p>

<p><strong>（4）「江戸の下着」</strong></p>

<p>①室町時代における変化 ? 小袖の下着から上着への変化<blockquote>東の国の野蛮な兵士たちの生き方が、次の時代の生活スタイルを作った。重ねられたキモノは次々と脱皮される。袴の切れ目からは下着がのぞく。短くなった活動的な上着の袖からも、下着があらわになる。下着はいやおうもなく人目にさらされ、ついに完全に脱皮されて、下着は上着となる。貴族や武家の男や女たちの肉体は、農民や兵隊や労働者たちと同じ衣装の下で生き始める。その脱皮によって上着となった下着を、「小袖」という。小袖が上着に転化するとともに、着物がはち切れんばかりに、肉体が「動き」始める。<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/402264074X/modernflaneur-22" target="_blank">田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995年</a>、243～244ページ。</blockquote></p>

<p>②小袖にみる上着と下着の「揺れ」<blockquote>上と下、表と裏という対立は常に動き続け、一定ではない。江戸時代の下着についてよくわれることは、禁制が厳しいために下着で贅沢をした、という見方である。じじつ、上着と下着の区別がないはずの農民にいたるまで、木綿の縞の上着の下に、絹、縮緬の肌着や、紺や紅の木綿（基本は麻。木綿は贅沢品。染はなおさら高価）の下帯を使っていたことがわかっている。…中略…為政者そのものが、上着に禁制をきびしく、下着の禁制をゆるくしていたためなのである。贅沢をしていないかのようなふりを、みんなでしていたからである。<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/402264074X/modernflaneur-22" target="_blank">田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995年</a>、248ページ。</blockquote></p>]]>

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<title>呉服店とは？</title>
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<modified>2007-01-28T16:18:28Z</modified>
<issued>2007-01-28T16:17:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">以下、４種類のファッション系の辞書から、呉服店に関する記述を抜粋した。前者2点は...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>以下、４種類のファッション系の辞書から、呉服店に関する記述を抜粋した。前者2点は呉服に焦点を当てているのに対し、百貨店の情報発信が当然のようになった80年代以降、婦人服を中心に販売戦略が変化した点を反映して、呉服という用語は周辺に追いやられている点が確認できる。</p>

<p>【呉服（ごふく）】　<br />
<blockquote>（前略…）徳川時代にはすでに呉服店の名称が用いられており、前述の太物を扱う店は太物店とよばれ区別され、呉服店は絹物を扱う店として格の高い商店とされた。今日のデパートの多くはこの呉服店が発展したもので、そのためどのデパートでも婦人服にはとくに力を入れている。<br />
田中千代『田中千代服飾辞典』同文書院、1969年、303ページ。</blockquote></p>

<p>【呉服屋（ごふくや）】　<br />
<blockquote>室町時代には呉服屋ができたが、発展したのは江戸時代になってからである。元禄時代（1688～1703）、それまで上層階級の呉服を独占していた呉服師が幕府や藩の財政難によって営業不振に陥ったのに代わって、江戸、大坂、京都などの消費地をもった呉服屋が盛んになった。元禄文化の担い手となった町人は呉服にまで贅（ぜい）をつくし、その結果ますます呉服屋は発展することになった。また呉服問屋（どいや）と呉服小売り屋に別れたが、両方をかねる大きなものもあった。現代のデパートのうち、老舗（しにせ）の多くは呉服屋から転進したのである。<br />
※「呉服」は別項目に独立。<br />
文化出版局編『服飾辞典』文化出版局、1979年、290ページ。</blockquote></p>

<p>【百貨店（ひゃっかてん）】　<br />
<blockquote>デパートメント・ストアともいう。大きな売り場面積をもつ各種商品小売業で、昭和49年3月に廃止された百貨店法の規定している売場面積を持つ店舗をいう。同じように大規模な小売業としての量販店との違いは、セルフ・サービスの販売方式をとらず、チェーン・システムを採用せず、品ぞろえとしては、ミドル・プライスの上からベター・プライスのプライス・ゾーンを主力としているのが特徴である。都心百貨店、ターミナル百貨店、郊外型百貨店、地方百貨店に区別することができる。法的には量販店とともに大規模小売店舗とよばれている。<br />
杉野芳子編『（最新）図解服飾用語辞典』鎌倉書房、1986年、177ページ。</blockquote></p>

<p>【デパートメント・ストア（department store）】　<br />
<blockquote>百貨店のこと。小売り業態のひとつで、衣・食・住などの生活に関わる多種多様な商品を、対面販売方式を基本に提供する大規模小売店舗。商品及びサービスの高級感や長い伝統による信用をもつところが多く、都心型百貨店、ターミナル百貨店、郊外型百貨店、地方百貨店に区別される。既定としては、店舗床面積が都市部で3,000m2以上、その他の都市で1,500m2 以上（大規模小売店舗法による）とされる。’80年代後半は第3次リニューアル・ブームといわれ、各店で積極的にリニューアルが推し進められた。売場、サービス機能の充実に伴う新しい生活文化提案型企業としての期待も大きい。<br />
バンタンコミュニケーションズ編『新ファッションビジネス基礎用語辞典<増補改訂版>』チャネラー、1995年、938ページ。</blockquote></p>]]>

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<title>日本の洋裁関連学校の展開</title>
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<modified>2007-04-30T03:08:43Z</modified>
<issued>2007-01-22T17:37:24Z</issued>
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<summary type="text/plain">西暦洋裁関連学校・教室の設立など1870横浜ヘボン施療所（メアリー・エディー・キ...</summary>
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<dc:subject>タイムテーブル（年表）</dc:subject>
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<![CDATA[<table><tr><td align="center"><strong>西暦</strong></td><td align="center"><strong>洋裁関連学校・教室の設立など</strong></td></tr><tr><td align="center">1870</td><td align="left">横浜ヘボン施療所（メアリー・エディー・キダー/アメリカ合衆国。現.フェリス女学院）</td></tr><tr><td align="center">1872</td><td align="left">京都府立新英学校及女紅場（エヴァンス夫妻/イギリス。現.京都府立鴨沂高等学校）</td></tr><tr><td align="center">1873</td><td align="left">時習社（同上）、裁縫塾（サイゼン/ドイツ）</td></tr><tr><td align="center">1878</td><td align="left">出島英和学校（J.C.デビソンかC.S.ロング/ともに合衆国。後者なら現.鎮西学院か？）</td></tr><tr><td align="center">1883</td><td align="left">飯島民次郎が「飯島貴族婦人専用洋服店」開業。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="2">1886</td><td align="left">知新女学校（不詳。宮城県一関）</td></tr><tr><td align="left">共立女子職業学校（元/渡辺辰五郎裁縫私塾、現.共立女子学園）</td></tr><tr><td align="center">1887</td><td align="left">「婦人洋服裁縫学校」開校、沢田虎松（フランス公使館裁縫方）らが指導。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="2">1899</td><td align="left">子供服・エプロンが高等女学校教授細目に導入。</td></tr><tr><td align="left">下田歌子、「実践女学校」開校。（現.実践女子大学）</td></tr><tr><td align="center">1900</td><td align="left">シンガー・ミシン社、日本進出（以後、06年時には東京・大阪・長崎・名古屋に支店）。</td></tr><tr><td align="center">1901</td><td align="left">横井玉子・藤田文蔵ら、「女子美術学校」開校。（現.女子美術大学）</td></tr><tr><td align="center">1903</td><td align="left">文部省検定裁縫科試験へ洋裁科目導入。</td></tr><tr><td align="center">1906</td><td align="left">「ミシン裁縫専門学校」開校（東京麹町区有楽町・大阪東区北浜）</td></tr><tr><td align="center">1911</td><td align="left">共立女子職業学校が高等師範科を設置。同科は25年の専門学校令で専門学部へ昇格。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="2">1920</td><td align="left">『婦人之友』で西島芳太郎が洋裁実習と誌上洋裁を担当。</td></tr><tr><td align="left">飯島民次郎の弟子、並木伊三郎が「並木婦人子供服裁縫教授所」開校。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="3">1921</td><td align="left">並木婦人子供服裁縫教授所が、シンガー・ミシン販売店の遠藤政治郎の協力で「文化裁縫女学院」 へ。</td></tr><tr><td align="left">飯島系仕立業者の町田菊之助が「婦人子供服普及会」を設立し、講習・講演・型紙を販売。</td></tr><tr><td align="left">飯島栄次が神田に「飯島洋裁研究所」を設立し、翌年、「飯島洋裁学院」へ。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="2">1926</td><td align="left">加藤謙吉がラジオ婦人洋裁講座「婦人服の裁断と仕立方」をラジオで担当。</td></tr><tr><td align="left">杉野芳子が読売新聞で洋裁講座を連載し、目黒に「ドレスメーカー女学院」開校。</td></tr><tr><td align="center">1929</td><td align="left">伊東茂平「イトウ洋裁研究所」を開設。</td></tr><tr><td align="center">1937</td><td align="left">田中千代が芦屋に「田中千代洋裁研究所」設立（現.田中千代学園）。</td></tr><tr><td align="center">1940</td><td align="left">桑沢洋子（伊東茂平の弟子）が「桑沢服装工房」設立。</td></tr><tr><td align="center">1941</td><td align="left">上田安子（伊東衣服研究所卒）、「上田安子服飾研究所」（現.上田安子服飾専門学校）設立。</td></tr><tr><td align="center">1946</td><td align="left">伊東茂平、「伊東衣服研究所」設立。</td></tr><tr><td align="center">1949</td><td align="left">学制改革により、女子美術学校が女子美術大学へ昇格し、芸術学部に美術学科と服飾学科を設置。</td></tr><tr><td align="center">1950</td><td align="left">伊藤すま子（伊東衣服研究所卒）、「伊藤すま子デザイン研究所」を設立。</td></tr><tr><td align="center">1952</td><td align="left">伊東茂平、女子美術大学付属の「女子美術洋裁学校」設立。</td></tr><tr><td align="center">1955</td><td align="left">桑沢洋子、「桑沢デザイン研究所」を設立し、バウハウス導入。</td></tr><tr><td align="center">1965</td><td align="left">菊池織部（多摩美術大学デザイン科卒）、「バンタンデザイン研究所」設立。</td></tr><tr><td align="center" rowspan="2">1966</td><td align="left">桑沢洋子、東京造形大学設立。</td></tr><tr><td align="left">谷まさる、「名古屋モード学園」設立。</td></tr><tr><td align="center">1971</td><td align="left">谷まさる、「大阪モード学園」設立。</td></tr><tr><td align="center">1981</td><td align="left">谷まさる、「東京モード学園」設立。</td></tr></table>

<p>出典：小泉和子編『<a href="http://www.mode21.com/book/001006.html" target="_blank">洋裁の時代 - 日本人の衣服革命</a>』、バンタンコミュニケーションズ編『<a href="http://www.mode21.com/book/000016.html" target="_blank">新ファッションビジネス基礎用語辞典</a>』より。なお、西暦については、「<a href="http://ja.wikipedia.org/" target="_blank">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）</a>』」、「区内散歩　中央区ホーム	ページ」内の「<a href="http://www.city.chuo.lg.jp/koho/131015/san1015.html" target="_blank">洋服店ことはじめ（六）</a>」、<a href="http://www.joshibi.ac.jp/main/aboutjoshibi/history.html" target="_blank">「大学の歩み」（女子美術大学）</a>を参考にした。</p>

<p><A href="http://ad2.trafficgate.net/t/r/1/1449/28232_28232/" target="_blank"><IMG src="http://srv2.trafficgate.net/t/b/1/1449/28232_28232/" border="0"></A><br><br><br><br><br></p>]]>

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<title>コルセットの歴史 - パニエやクリノリンとともに</title>
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<modified>2007-04-28T15:04:57Z</modified>
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<summary type="text/plain">コルセットの発祥は明らかではないが、胴を締めたベルトのようなものがクレタ文化の絵...</summary>
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<dc:subject>個別ファッション史</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="../image/corset01.jpg" target="_blank"><img width="120px" src="../image/corset01.jpg" alt="ローブ・ヴォラント（シルク・ブロケード）1720-25年、フランス、&#169;KCI"></a><a href="../image/corset07.jpg" target="_blank"><img width="160px" src="../image/corset07.jpg" alt="コルセット（コットン、鯨の髭の骨入り）1775年頃、イギリス、&#169;KCI"></a>コルセットの発祥は明らかではないが、胴を締めたベルトのようなものがクレタ文化の絵にみられる。原型とみられるものは、12～13世紀頃のステーズ（胴衣）。以後、16世紀にバスキーヌ、コル・ピケ、コル・バレネと名前を変えながら改良が加えられた。</p>

<p>中世には男女ともに着用されており、18世紀に軍隊の将校たちが健康上の理由と装飾の目的でコルセットを利用していたようである。当時、サロンでは、男女ともに、シルエットづくりの必需品となり、着用されるようになった。レースで飾った男性用のコルセットが流行し、あまりにきつく用いるために卒倒する者が多かったが、当時は弱々しい男性が女性の間では人気が高かったため、細いウェストを過剰に望まれたのである。</p>

<p><a href="../image/corset02.jpg" target="_blank"><img width="120px" src="../image/corset02.jpg" alt="ローブ・ア・ラ・フランセーズ（絹のタフタに花綱模様の縁飾り）1780年頃、フランス、&#169;KCI"></a>一般に男性は表着的に、女性は下着的に身体の型を整える衣装として用いられたが、女性のコルセットは今日のガードルに変化し、表着的に用いられた者は、編み上げ式の構造をもった衣服にみられる。女性の場合は、18世紀をつうじてコルセットはパニエとともに用いられ、腰部を肥大化させる表現がみられた。</p>

<p>コルセットの名で利用された19世紀には、ドレスの流行が、各種のシルエットによって表わされるようになり、それを整えるためにコルセットが使われた。当時の者は鯨の骨や鋼などで形作られていた。パニエに似たスカートの裾を広げるクリノリンが利用され、たいそうなクリノリン・スタイルが流行ったのも19世紀である。</p>

<p><a href="../image/corset03.jpg" target="_blank"><img width="150px" src="../image/corset03.jpg" alt="ドレス「ジョルナル・デ・ダム・エ・デ・モード」誌、1857年、&#169;KCI"></a><a href="../image/corset04.jpg" target="_blank"><img width="150px" src="../image/corset04.jpg" alt="左は、クリノリン・スタイルの女性服、1873年、&#169;KCI。右はデイ・ドレス（プリントの木綿サテン）1885年頃、&#169;KCI"></a>ルイ・フィリップ（在位1830～48年）の時代には、砂時計型シルエットといわれる流行が起こり、極端にウェストを締めるコルセットが登場。特に有名になったのは、1890年頃、コルセットを着けることで可能になるＳ字型シルエット（ギブソンガール・スタイル）が女性に流行したことによる。</p>

<p><br><br><a href="../image/corset05.jpg" target="_blank"><img width="150px" src="../image/corset05.jpg" alt="バッスル（コットンにストライプのプリント、スティール・ボーン入り）1880年頃。コルセットの前芯、19世紀初頭。1880-90年代のコルセット、いずれも&#169;KCI。3点目は写真、広川泰士"></a><a href="../image/corset06.jpg" target="_blank"><img width="150px" src="../image/corset06.jpg" alt="「くびれた腰」写真＝アンリエット・アンジェル、19世紀末、&#169;KCI"></a>20世紀になると、衣服は自然なシルエットをもつようになり、それにともなって材料や構造も変化した。レーシング（組紐）で締める方法が廃れ、２０世紀になると、着用部位も加工され、ウェストからヒップを覆う形となる。伸縮性のある素材が用いられるようにもなり、ステップ・イン方式となった。現在は、ガードル、ウェスト・ニッパーなどが代替するものとして利用されている。脇、前、後を紐で締め上げるものと、ホック留めになったもの、ファスナーで留めるものがある。ガードルの場合、骨が入っていないのが特徴で、その役割も体型を矯正することにはなく、きっちりと保つためのものである点に、コルセットとの大きな違いがある。</p>

<h2>関連書籍</h2>
<ul><li><a href="http://www.mode21.com/book/000006.html" target="_blank">深井晃子監修『カラー版-世界服飾史』美術出版社、1998年</a></li></ul>]]>

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<title>神戸居留地と元町中華街（南京町） - 華僑の一面</title>
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<summary type="text/plain"> 19世紀中葉の2度にわたるアヘン戦争の結果、大陸在住中国人をはじめ、江戸時代の...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p><img src="030726_0071.jpg" alt="神戸・南京町"> 19世紀中葉の2度にわたるアヘン戦争の結果、大陸在住中国人をはじめ、江戸時代の「4つの口」の一つ長崎に在住していた清朝期中国人たちは、大阪の川口居留地へ移住し、間をおかずに今の神戸元町・三宮へわたってきた。</p>

<p>欧米列強の人々やそれに追随した中国人の人々が大阪での在住が短かった理由には、浅瀬であった大阪港よりも、深瀬であった神戸港の方が外国船にとっては都合が良かった点が大きい。</p>

<p>　※「<a href="20061230a.jpg" target="_blank">神戸華僑関係地図</a>」<br />
　※「<a href="20061230b.jpg" target="_blank">華僑に関する参考資料</a>」（華僑関連年表）</p>

<p>現在の「三宮駅」（ＪＲ以外）、「三ノ宮駅」（ＪＲ）の歴史は意外に浅い。</p>

<p><small><BLOCKQUOTE>三宮という地名の由来でもある三宮神社が駅名の由来であるが、他の交通機関はすべて「三宮」であるのに対し、JRのみ「三ノ宮」と“ノ”の文字をつけているのは、開業が最も早く、駅創設時からあえて“ノ”をつけることによって地名の読み違いをさせないよう配慮していた名残であると考えられている。<br />
（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%8E%E5%AE%AE%E9%A7%85" target="_blank">三ノ宮駅 – Wikipedia</a>）</BLOCKQUOTE></small></p>

<p><img src="030726_0001.jpg" alt="神戸・南京町">それに対し、「元町駅」（ＪＲ）の歴史は古く、1874年5月11日 開業に遡り、国鉄時代の高架化に伴い、カーブ地点に新たな駅（現/三ノ宮駅）を設置したことにより、本来の三宮駅は、「元町駅」と称されることとなった（この点、Wikipediaでは三ノ宮駅を一緒くたに記している）。</p>

<p>なお、この点の経緯をはじめ、元町南京街の成立経緯から異人館建設までの略史について、<a href="http://www16.ocn.ne.jp/~ochm1979/index1.html" target="_blank">神戸華僑歴史博物館</a>の方に丁寧な説明を頂いた。記して感謝する。</p>

<p>ちなみに、旧居留地の一角に位置する大丸百貨店と三宮駅に隣接するそごう百貨店との成立はどちらが古いかも、この経緯から理解できる。</p>

<p><img src="20061230.jpg" alt="日中平和友好条約締結10周年記念切手">甲午中日戦争（日清戦争）や日中戦争を介しながらも日本人と中国人は共生していた。開港場では、両国民とも、欧米諸国の人々向けの職業（財・サービスの提供）が多かったが、欧米人も窮屈な生活をしていたようである。後に「異人館」と呼ばれる、現在は観光地化されている北部へ移動している。</p>

<p>19世紀後半南京町の中国人労働者の職種には、貿易商、金融（両替商）、商業書類の印刷・製本、料理、理髪師、洋服仕立、製靴、塗装業、紅茶製造人、画家、医療伝道師、西洋人家庭の使用人等々が挙げられる。</p>

<p>1899年に「内地雑居令」が公布され、居留地以外でも外国人の居住が公的に認可されることになり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアなどの外国人たちは、上記のとおり、「異人館」の方へ移住した。</p>

<p><img src="20061221_001.jpg" alt="上海虹口文&#30417;&#24072;路（&#29616;・塘沽路）西浦西服店">ところで、世紀転換期における日本企業の雇用状態を糾弾し、労働者対策を論じた横山源之助は、『内地雑居後之日本』で、「雑居」によって共生と同時に機械輸入が大量に行なわれることによって日本経済の将来を憂えているが、物品の輸入だけに注目しているのは、脇が甘かったと言わねばならない。雑居とは技術の輸入も行なわれるのであり、「雑居」の理解力不足が横山にはあったといえる。</p>

<p>技術輸入は、時に上海や寧波へ横浜居留地で鍛え上げた仕立業者が仕立店を開店するといった輸出をも呼び起こし、中国人仕立業者の神戸・横浜での活躍と、日本人仕立業者の上海・寧波での活躍といった流動性が、20世紀転換期の日中で実現したのは、比較的良好な関係だった一時期である。</p>

<p><strong>参考文献</strong><br />
<ul><li>熊月之・&#39532;学&#24378;・晏可佳&#36873;&#32534;『上海的外国人（1842-1949)』上海古籍出版社出版、2003年</li><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4343002683/modernflaneur-22" target="_blank">神戸華僑華人研究会『神戸と華僑 - この150年の歩み』神戸新聞総合出版センター、2004年</a></li><li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/446923186X/modernflaneur-22" target="_blank">伊藤泉美・西川武臣『開国日本と横浜中華街』大修館書店、2002年</a></li></p>]]>

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<title>1）縄文時代～古墳時代の服装</title>
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<modified>2007-04-18T00:01:17Z</modified>
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<summary type="text/plain">（1）縄文時代 この図の土偶を見て分かるとおり、縄文時代の人たちは裸体に近い。 ...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史</dc:subject>
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<![CDATA[<p><img src="20061226a.jpg" alt="土偶"><h3>（1）縄文時代</h3></p>

<p>この図の土偶を見て分かるとおり、縄文時代の人たちは裸体に近い。</p>

<h3>（2）縄文時代後期・晩期</h3>

<p>居坐機・地機と織物技術が中国大陸や朝鮮半島から伝来し、織手の腰に当てた帯で経糸に張力を与えることが可能になった（織機の原型）。</p>

<p>縄文時代後期の編布、晩期に織布が出土しており、それらの使用が確認できる。また、緯に草やヒゴ、経に紐や糸状のもの2本を絡めた編物（＝莚や簀）のようなものも列島各地から出土している。</p>

<p><img src="20061226b.jpg" alt="巫女"><h3>（3）弥生時代</h3></p>

<p>この図からは、格式ある服装の巫女（古墳時代＝倭国支配下）の存在を想像させる。卑弥呼ら為政者たち支配層の一部には、絹による衣服が普及していたであろうが、織法は未熟であったといえる。</p>

<p>また、男性の場合は、一般的に、髪を露出させ冠は被る習慣がまだない。樹皮繊維による織布を頭に巻き、衣服は布を横に巻いた物で縫合もなかった。女性の場合は、髷を作り結う習慣が既に形成されていた点は意外に早いが、衣服は単が大半であり、一方の耳のみを縫合した筒型（頭から被る）となっている。</p>

<p>この筒型衣服は「ちはや」と呼ばれ、中国大陸で既に普及していた貫頭衣のことである。今風にいえば「袖無しワンピース」といったところ。弥生時代から古墳時代には、列島でも一般的に着用されるようになった。この時期、ネックレスや「ちはや」（中国語で貫頭衣、古代エジプトではチュニック）など、服飾パターンの原型が形成された。</p>

<p>後、飛鳥時代には、「ちはや」から「肩衣」（手無し）への変化がみられる。肩衣は、首を通すために落とした部分を襟部に縫合した衣服のことである。</p>

<p><a href="20061226e.jpg" target="_blank"><img src="20061226e.jpg" alt="ネックレス" width="100px"></a><a href="20061226d.jpg" target="_blank"><img src="20061226d.jpg" alt="農民" width="100px"></a><h3>（4）古墳時代</h3></p>

<p>左の図をみると、上の女性は重量感のある服装に対し、下は農民男性と思われ、活動的な服装を着ている点を確認できる。</p>

<p>右の図では、上はあっさりした男性埴輪で先の例と同じく、活動的な衣服を着ており、下の女性埴輪からはネックレスを身につけているのが分かる。紡織技術が進むよりも、装飾品の加工技術の方が発展しやすかったといえる。</p>

<p>なお、403年には、百済から縫衣工女（きぬぬいおみな）が渡来し裁縫技術が伝来し、470年には漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛らが織物製作・裁縫作業に従事したといわれる。</p>

<p>※以上の図４点は、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122046114/modernflaneur-22" target="_blank">高田倭男『服装の歴史』中央公論新社、2005年</a>から転載した。</p>

<h3>【補足】染織先進国・紡織先進国だった中国</h3>

<p><img src="20061226c.jpg" alt="深衣">漢代に衣（上半身）と裳（下半身）との絹のツーピースから衣・裳を縫い合わせた深衣（現代の韓国のチョゴリ風）へと変化した。胡服と呼ばれ、襟と袖が付き、前身頃を帯で占める。特に高句麗で着用習慣があった。</p>

<p>図にあるとおり、深衣は襟、袖口、裾に縁が付けられている。倭国上層の人たちも着用していた可能性は高い。中国では、漢の時代には既に貫頭衣から襟・身頃・袖・袵（衽）の部分から構成される衣服がデザインされており、この裁縫技術が百済を経由して日本列島に伝わったというのが古代衣服史上の重要なポイントである。</p>

<p>※左図は、&#36135;梅『中国服&#39280;』五洲&#20256;播出版社、2004年から転載した。</p>

<h2>外部の関連ページ</h2><ul><li><a href="http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/j2001-5/clothes.htm" target="_blank">タイムトラベル5000年　モードの移り変わり―中華服飾のあゆみ</a></li></ul>]]>

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<title>服飾史の問題関心-作業着・野良着</title>
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<modified>2006-12-23T12:39:39Z</modified>
<issued>2006-12-23T12:34:56Z</issued>
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<summary type="text/plain">関連著書を執筆された福井貞子さんの著書にからめて、服飾史に取りかかるうえでの問題...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>関連著書を執筆された福井貞子さんの著書にからめて、服飾史に取りかかるうえでの問題関心を書いています。</p>

<p>私自身の作業着関連の研究を進めるために、関連著書を執筆された福井貞子さんの著書などをまとめています。２００２年３月２７日にゼミ旅行の研修として、福井さんに講演をしていただくことになり、その事前準備として研究会が催され、その際にご紹介させていただいたレジメです。</p>

<h2>（１）経歴等</h2>

<p>福井貞子（ふくい・さだこ）<BR>１９３２年鳥取県に生まれる。日本女子大学（通信教育）家政学部卒業。大阪青山短期大学講師を経て、倉吉北高等学校教諭、同校倉吉絣研究室主事をつとめる。１９８８年同校を退職。日本工芸会正会員。 <BR>・倉吉絣との出会い以降の経緯 　→　http://www.nnn.co.jp/tokusyu/old/takumi/takumi.html<BR>・「鳥取県郷土工芸品・鳥取県郷土民芸品の指定及び鳥取県伝統工芸士の認定状況」では、「鳥取県の伝統工芸士（鳥取県在住者）」として、「織物・染物の部：倉吉絣」「区分：鳥取県郷土工芸品」「製造元：倉吉絣保存会」に認定されている。　→　http://www.hal.ne.jp/shokoren/shokou/rengoukai/002_3.html</p>

<h2>（２）著書（今回中心となるもの）</h2>

<p>福井貞子『ものと人間の文化史・93：木綿口伝』第二版、法政大学出版局、2000（1984）／福井貞子『ものと人間の文化史・95：野良着』法政大学出版局、2000</p>

<p>いずれも、織物の製造・織物の服地・織物製造の従事者に対し、満遍なく目を配った著書であり、絣織などの生地の醍醐味は前者、野良着・作業着の多様な機能の紹介などは後者、といった位置づけができる。後者では、手甲なども含め各衣料について詳しく述べられており、野良着・作業着の機能という側面からも、かなり参考になる。</p>

<h2>（３）私の関心</h2>

<p>もともと衣服史に関心があり、研究テーマも、兵庫県姫路市で活動していた仕立店（綿布加工業）の経営動向・販売動向を中心に調べている。私が福井貞子さんのお名前を知ったのは、昨年の２月１０日前後、第二版の『木綿口伝』を読んだときである。 </p>

<p>本書は鳥取県を中心にした紡糸から織物までの工程別の労働史・文化史という特徴を備えており、製造工程に即して製造部門の研究が分断されているという日本経済史の現状を鑑みれば、可能なかぎり衣服史を有機的な繋がりの中におきかえてみたいという欲望に駆られる。その意味で、新鮮な気持ちをもって読むことができた。衣服、あるいは労働といった面に注目して、有機的な繋がりをみせるようなものを、私自身もいつかはまとまった形にしたいと強く思った。</p>

<p>その後、昨年の秋口に、『野良着』という同シリーズの著書を読み、普段、服地の分類などで頭を悩ましていた時期だったこともあり、目から鱗が落ちる思いで本文はもちろんのこと、図版も一つ一つ釘付けになって見た記憶がある。『木綿口伝』と同じく、本書は農作業や裁縫（などの労働）に関する話から、生地や機能などの衣服、あるいはそれに従事していた方たちの話まで、強く結びついている点に、改めて驚かされた。</p>

<p>私自身の不勉強もあるが、時代が下るにつれ、これまでの「技術」や「物」といったものに接する機会は徐々に減少している。私の世代では決して口にすることのない服地にしても、一世代、あるいは二世代前の方にとっては普段着として使われていることなどの落差をなんとか埋めれないものかという思いが、研究している最中、常に頭に浮かぶ。</p>

<p>この機会に、是非、福井さんご自身の経験も織り交ぜていただき、働くこと・作ること・飾ることといった面から、織物や織ることについて、お話しして頂きたいと考えている。<br />
<h2>（４）野良着と作業着</h2></p>

<p>野良着と作業着との接点について少し触れられている。『野良着』には、農民が農閑期に普段の野良着を羽織って職人として働くというような下りも書かれてあり、当時の労働事情などを窺い知ることができる。</p>]]>

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<title>服飾史の考え方</title>
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<modified>2006-12-23T12:40:17Z</modified>
<issued>2006-12-23T12:34:00Z</issued>
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<summary type="text/plain">このページでは、柳田国男「木綿以前の事」をテキストに、服飾史のあり方を検討してい...</summary>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>このページでは、柳田国男「木綿以前の事」をテキストに、服飾史のあり方を検討しています。</p>

<h2>０：はじめに</h2>

<p>本稿では、衣服史や社会史の前提とされる、柳田国男の著書『木綿以前の事』に収録されている同タイトルのエッセイ「木綿以前の事」（１９２４年筆）を扱う。使用テキストは、岩波文庫版（１９７９年）である。『木綿以前の事』は、近代日本における文化の変容に関するエッセイを集めたものである。大まかな構成は、前半が服飾史、後半が女性史となっている。</p>

<p>書名と同タイトルのエッセイ「木綿以前の事」では、木綿、あるいはそれを着用する風俗を積極的に評価していることがキーポイントである。その評価をもとに、柳田は同時代の木綿生産の現場が環境的に劣悪である点を憂う。</p>

<p>本稿において、この柳田のエッセイに拘ってみたのは、保守的、官僚的、等々、国粋主義的な者として捉えられてきた柳田の著書群のなかで、果たして衣服史関係の論文は、そこから免れうるのか、ということを検証するためである。従来から、服飾史といった場合、まずもって念頭におかれたのは、特定社会における支配階級の服飾であり、あるいは近現代に関してはデザイナーたち「当事者」の伝記まがいのものとなりがちである。その意味では、庶民の服装という柳田の着眼点には意義がある。</p>

<p>そもそも柳田国男が国粋主義的だと指摘されるのは、およそ排外主義的な立場だという点ではなく、むしろ日本国家のみに着目しすぎる嫌いがある点である。経済政策において彼が国内市場志向型への産業転換を訴えるのは、その所以である。昭和初期において、国内市場を潤ったものとするには農工のバランスの取れた産業発展を彼は念頭においたのであった（注１）。あるいは、今回のテーマに関していえば、棉生産（農業）から綿製品の製造（工業）・販売（商業）に至るまでの国内ルートの確立が彼にとって急務だったとでもいえばよいだろうか。</p>

<p>しかし、明治期において既にメリヤス（莫大小）やイタリア製をはじめとするフランネルなどが、シャツやズボン下などの作業着、普段着に利用されていた点を鑑みた場合、柳田が「庶民の服装」に目を向けた時点で、極めて異様な「庶民の服装」が出現するのである。本稿では、この点をつぶさにみていきたく思う。</p>

<p>そもそも、柳田は歴史関係の文章を時系列的にも並べず、また叙述のさいの視点を明確にもせずに書くため、とかく印象で終わっているものが多い。どうも私には随筆としか思えない。それゆえ「木綿以前の事」もまた、たかが文庫本で10ページにも満たない小論とはいえ、詳しく読めば読むほど理解しにくいものである。そのような制約を抱えつつ、柳田にとっての木綿というものを探りながら、この柳田の小論に少しばかり肉づけをしてみたいのである。</p>

<h2>１：エッセイの素描</h2>

<p>それではさっそく、着用の習慣も含めて木綿を柳田がどのように評価しているのかをみてみよう。（　）内の漢数字は該当する原文の節番号である。</p>

<p>『七部章』などから木綿に関する句を拾ってきて、柳田は、晴れやかに詠われた句（３つ）と寂しげな様子を伝える句（４つ）とに分けている（一）。ピックアップされた句のテーマは、いずれも恋である。いずれにせよ、古代に木綿が生産されはじめて以来、元禄期初頭までは、少なくとも、木綿から優雅な境遇を連想するしきたりがあったことを柳田は指摘している。</p>

<p>このような前振りを経て木綿の積極的評価が２点、略述される（二）。若い人々に好ましかった点という限定つきではあるが、大きく分けて、肌触りが絹よりも勝っていること、染色が絹同様に易しいこと、この２点が木綿の利点である。さらに、動きやすさからでは麻にも勝ると付け足されていることもふまえれば、近世までの日本で最も頻繁に利用されていた麻・木綿・絹という３つの繊維のなかで木綿が大きな評価を得ていることが分かる。</p>

<p>一点目は、作業するさいの木綿の利便性を述べており、二点目は、庶民が優雅さを表現するさいの木綿の長所を指摘している。</p>

<p>作業時の利便性としては、長い間、木綿はその吸湿性と柔軟さから作業用の服として定番であり続けている。現在、カジュアルウェアーのブランドとして有名になってきたユニクロをはじめ、Ｔシャツの生地に「天竺」「鹿の子」を採用するメーカーは多いが、これもまた木綿のうちでも主力生地だとみてよい。近代まで広く作業用衣服の生地として使用されていた木綿は、ずっと普段着としても利用されていた。</p>

<p>次に、木綿が優雅さを示すという点について、少し言及しておこう。優雅さを表す生地は何といっても絹こそが代表格である。絹織物の代表的製品である着物などに比べて、木綿の示す優雅さは、柳田の指摘する染色のしやすさによるものだが（三）、普段着にしろ作業着にしろ、紺色が基本となっていた木綿に若干の幾何学的な紋様を縫い込むという、その紋様にウェイトがおかれる点も見逃せない。紺一色といっても過言ではない近世までの綿織物の華やかさは、近代になっても色合いではなく柄にアクセントがおかれていたが、それは当然にも、複雑な織法の賜物であった。</p>

<p>さて、裏糸と呼ばれる、生地裏から縫い上げられる糸、もしくは織り方があるが、それは表からはみえることのない糸のことである。機能的には、衣服を頑丈にするなどの意味合いがあるが、「裏糸」に相応しい役割は、むしろ、表からはみえない特徴にもとづいている。しばしば、紺色以外の派手な色の糸を裏糸として縫いつけることによって、庶民的衣料として強制されていたことへの抵抗・反発という側面があったのである（倉吉絣の機業家・研究家である福井貞子さんに教えていただいた）。断言できないとはいえ、おそらく「衣服の身分制」という点では、着る物の柄よりも色が規準となっていたのかも知れない。</p>

<h2>２：木綿評価に関する柳田の恣意</h2>

<p>ここで、次に引用した二つの文章をみてほしい。この第二節の冒頭を飾る二つの引用である。「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる。」（p.13）という下りと、すぐ下に続く、「現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。」（p.13）という下り。</p>

<p>一つ目の引用では、毛糸（羊毛のこと）の「セーター」などが「木綿」と比較されている。これはいささか奇妙である。セーターは品目であり繊維ではない。もっとも、柳田はここで品目と繊維とを混同して比較するような失態を演じているのではないだろう。むしろ、木綿製品と羊毛製品とを比較しながら、木綿製品の方をひっくるめて「木綿」と呼んでいるとみるのが無難だ。しかし、二つ目の引用を検討すれば、「木綿」は「麻布」と比較されている。つまり、ここでは生地もしくは繊維をレベルにした比較なのである。</p>

<p>執筆当時、既に日本でつくられる衣服の品目や生地が多様であった点は広く知られてきているが、それは羊毛製品などの輸入が盛んだったという理由だけでなく、在来の綿布を生地にした品目にもいえることである。同時代の多様性をそのものとして放っておく点が、この「思わず」比較してしまった柳田の甘さから伺える。</p>

<p>あるいは、次のようにもいえる。柳田自身の周辺に関するもの（ここでは木綿）の方が、異質だったもの（ここでは羊毛製品）に比べて、ずっと差別化・区別化が遅れているのだ、と。もちろん、情報の多少は自身からの物理的な距離に左右される点は避けられないが、その限界をもっていることに気づかないまま漠然と木綿を賞賛する柳田の観点は、頼りないものである。</p>

<p>しかし、柳田が木綿を評価することの具体的な視点は、それだけに留まるのではない。「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる」（p.13）。前節で古代の句を拾った直後に、執筆当時に世界の繊維産業の機軸であったイギリスの羊毛製の服と、日本の木綿製の服とを比較することから当節が開始されている。</p>

<p>木綿が中国から日本へ輸入されたのは諸説があるとはいえ、時代的には古代であることに変わりはない。柳田はこの小論で、古代中国からの木綿の輸入以後、1924年の執筆年までの木綿、つまり国内の木綿について論じているのにたいし、国外の生地や繊維が、本節の後にも先にもこの一文を含めて二文しか出てこない点に注目すれば、これはいささか奇妙といわざるをえない。</p>

<h2>３：柳田の「本意」</h2>

<p>エッセイは続く。安上がりで庶民的な衣料として「生活」を満たしてきた木綿は、今度は庶民の腹を満たしてきた薩摩芋になぞらえられ、その恩恵を確認すべきだという柳田の訴えが出てくる（四）。どうやら柳田は、日本産のものを評価するとき、あるいは外国産のものを罵倒するときにしか、紙面を割きたがらないようだ。</p>

<p>しかし、また奇妙なことに、次の節である第五節では、珍しくカタカナが出てきて、そのカタカナを取り巻いて柳田の憂えが展開される。「毛布やモスリンの新しい塵が加わっても、やはり昔通りに畳を敷きつめて、その上で綿や襤褸ぎれをばたばたとさせている」（p.18） </p>

<p>執筆当時の紡績工場の状態が劣悪だったことは、広く日本労働史研究で指摘されてきたことである。柳田が指摘するように、綿埃（わたぼこり）は、女工（差別用語が耐えられなければ、女子従業員と読み替えていただきたい）の結核という形で当時から社会問題になっていたのは確かである。しかし柳田は、その塵があたかもモスリンと毛糸だけから発生するかのように書いている。綿埃は、文字どおり綿からも発生するのであって、何も羊毛だけから発生するわけではあるまい。しかも、綿は古代から日本で扱われてきたのだ。</p>

<p>とすれば、柳田が言っている紡績工場内で発生する「塵」は、これまで機織りの家々で紡がれてきた綿糸（めんし）を、工場内という集中的な場所へ移行したさいに発生した、近代特有の「害悪」のことだとみるしかない。しかし、さらに奇妙なのは、綿の出す埃については言及されていない点である。確かに羊毛は明治期には既に企業のもとで生産されていたことは確認されているが、綿糸ほど広く大量に生産されていたとは考えにくい。それなのに、なぜ、毛布とモスリンの塵だけが、柳田においては問題とされたのだろうか。</p>

<h2>４：結論</h2>

<p>次節（六）では、湿気の多い日本という点を念頭に、昨今の衣服の通気性の悪さを指摘している。肌理（きめ）の細かい綾織りなどを柳田は毛嫌いするわけである。元来は太物と呼ばれる衣服（文字どおり幅の太い糸で作られた生地の粗い衣服）は通気性に優れ、日本の環境では綾織りではなく、太物こそが適切なのだと力説する。</p>

<p>そして最後の節（七）では、近世までは裸足で作業をしていた農民が、ゴム底の足袋を履いて農作業に勤しむ点を憂えている。もちろん、水を弾くというゴムの利点など、柳田の眼中にない。ひたすら、憂う。</p>

<p>柳田の「愚痴」は、上記のようなものであるが、柳田の結論は次のようになっている。</p>

<p>「次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。もっと我々に相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか」（p.19） </p>

<p>残念ながら、私の結論は次のようになるといわざるをえない。「国民の経済に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。もっと我々に相応した生活の仕方を、まだ発見しようとしてないのは、柳田たちであろう」と。</p>

<p>木綿の利便性は、このエッセイから伺い知ることはできるが、それは西洋生地の利点を検討しないという形で検討された利便性であり、タイトルどおり「木綿以前の事」であって、［日本ＶＳ西洋］という決戦において、叙述前からあらかじめ決着が付けられたエッセイ、しかも「木綿以後の事」を考えることを徹底して拒否した一面的なエッセイであるという点を私は柳田にたいして憂えたい。</p>

<p>西洋コンプレックスとは、何も西洋に対して日本の文化が立ち後れている点を憂うことだけではないだろう。日本の文化の優秀性を指摘するという、いわば結論は逆転していても、コンプレックスに変わりはないのだ。不思議でならないのは、このエッセイのなかで、北欧、羊毛、モスリンといった西洋に関わる用語が多少は出てくることに対し、日本に綿を紹介してくれた恩師である中国に関する言及が、「中国から輸入された」という指摘にとどまっている点である。たとえば黄砂にたいする中国での衣服をつうじた戦いが触れられているわけでもない。ちなみに、黄砂が集中する中国北西部（チベット側）の服装は総体的にみて分厚い傾向がある。また、北京周辺では、紺あるいは草色の人民服を着た人が目立ち、生地や仕立法にさまざまなパターンがあり、地位を反映しているとの話も聞いた。</p>

<p>このように考えてみれば、柳田は、単に外国で着用されている衣服にとどまらず、当時から日本国内で頻繁に着用されていた外国産生地による衣服をまったく触れない点からも分かるように、存在しない「木綿王国日本」というようなものを、どこか朧気に思い浮かべているのではないかと思わざるをえない。また、通気性を日本の衣服の利点として挙げる柳田にあっては、日本国内すら均質に捉えられている可能性もあり、まったく首肯しがたい。さらに、現在では汎用されている混綿については、おそらく柳田にあっては、「ポリエステル追放」を念頭におきながら、「国内産木綿」をもスローガンに掲げたことであろう。</p>

<p>とすれば、明治期には既に西洋VS東洋、西洋VS日本といった二項対立には回収しきれない多様性をもっていた服飾史を考えるにあたり、和洋折衷というキーワードにこだわってみることと、今回扱った柳田の小論を「世界：木綿以前の事」というビジョンに移し替えて再考することが、どうやら有意義なようだ。</p>

<p>冒頭で触れたように、柳田の念頭にあった国内的な経済政策自体は、それ自体としては認識の誤ったものではない。しかしながら、昭和初期という局面において、農工商の国内循環を円滑にするという政策の現実性は、いささか明治以降から国際的な視野に立ち続けてきた経済発展とは交わりがたい。とはいえ、安い輸入綿に原料を特化し、国内綿生産部門の農業を切り捨てさえすれば円満になるかのような綿工業の現状を柳田が憂うとすれば、それは正しい視点ではある。しかし、それを一国規模で衣服生産のはじめから終わりまでを賄う政策を代替するには、極めて無理な状態であったことも確かだ。</p>

<p>確かに、『木綿以前の事』というエッセイ集が、生活史・文化史のなかで女性の果たしてきた役割と、女性の今後の社会進出への提言であると読むことはできる（注２）。本稿で指摘した以外にも、柳田のこのエッセイ集では、綿が見た目は絹に近いといった点もきちんとピックアップされている。しかしながら、柳田は、先に書いたとおり、綿生産をはじめとする国内農工業の問題という大局的な側面を念頭におく一方で、どこでも誰でも着られる便利な木綿という、目の前に繰り広げられる衣服生活への接点を見失いつつあるような、不安定な立場、やや焦りさえ感じさせる立場に立たされているような気がして仕方がない。政策という強迫観念に囚われつつも、生活という「無意識」を発掘しようと悪戦苦闘する柳田のもどかしさについて、今回、私は柳田を憂うという形で書かせていただいた。</p>

<p>最後になるが、柳田の焦りとは以下のようなものである。しかし、この文章が執筆された時点で、既に国内の衣服生活は、ルーツ解読不能といえば大げさだが、きわめて多様な装いをしていたという時代的な「哀れさ」は指摘しておかなければならない。</p>

<p>「日本は地方の事情は区々で、或る土地で夙に改めてしまったものを、まだ他の土地では暫く残していたという例が幸いにして多い。それを集めてぽつぽつと整理してみたら、いわゆる改良の順序はやや明らかになり、それをまた幽かに伝わっている上世の記録と比較し照らし合わせて、やや確かめることができはしないだろうか。こういった方法を少しずつ勧説してみたいと私は思っている」（注３）。</p>

<p>私自身は、日本の近代化が開始されて既に数世代目に突入していた柳田の生存時期をターゲットに、衣服の変遷や販売動向をたどろうとしている。柳田のみた衣服史の夢すらまだ私自身も果たせずにいるが、柳田にあっては現在であった明治から昭和にかけて、既に今からみて過去となった時期に対しても、私はできるだけ具に、衣服の形相を捉えていきたいと思う。</p>

<h2>脚注</h2>

<ul class="main"> <li>（注１）野村純一他編『柳田國男事典』勉誠出版、1998年（川田稔「国家意識」）</li> <li>（注２）野村純一他編『柳田國男事典』勉誠出版、1998年（守屋琢智「『木綿以前の事』」）</li> <li>（注３）柳田国男『木綿以前の事』岩波文庫、21ページ（「何を着ていたか」1911年執筆）</li> </ul>]]>

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<title>中国皇帝と日本天皇の礼服に見る違い</title>
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<dc:subject>日本服飾史（トピック別）</dc:subject>
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<![CDATA[<p>中国と日本における陰陽五行説の受容の違いは、中国では学問・技術中心、日本では呪術・宗教的であったと指摘されることがある（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764061/modernflaneur-22" target="_blank">村山修一『日本陰陽道史話』平凡社、2001年</a>）。中国皇帝の礼服と日本天皇のそれとでは、北斗七星と織女星とのデザインに大差がある。</p>

<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061594559/modernflaneur-22" target="_blank">吉野裕子『天皇の祭り - 大嘗祭＝天皇即位式の構造』講談社、2000年</a>、「第三章III　天皇の礼服」で紹介されている中国皇帝と日本天皇とにみられる礼服の違いをまとめてみよう。</p>

<p><img src="20061005_041.jpg" width="50%" height="50%"></p>

<p>まず、中国古代の皇帝の衣服である袞衣には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が配置されている。両者がワンセットと見なされた理由は、北斗七星には四方を治める政治が意味されており、国家統治の基となる農事を統べる星という意味も存在すること、そして、織女星には、機織りを始めとする女性の労働を司る意味があること、以上の2点が考えられる。</p>

<p>北斗七星と織女星の二星が主管する耕と織は、古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心とされており、この点は伊勢神宮の祭祀も忠実に踏襲している。天子親耕、皇后献蚕・神衣奉織といった祭祀に関するピンポイントの表現といえる。</p>

<p><img src="20061005_043.jpg" width="44%" height="44%"><img src="20061005_044.jpg" width="50%" height="50%"></p>

<p>ところが、日本の天皇の場合、袞冕十二章には、上記ワンセットだけは踏襲されておらず、左袖の北斗七星が背筋の上部中央へ移動し、織女星は除かれている。</p>

<p>このデザインの違いは、政治のあり方や国家における天子・天皇のポジションの違いをも意味する重要なものである。中国の天子の場合、日月星辰の三者の一つ「星辰」として北斗と織女を両袖に付けており、天子親耕・皇后奉織が体現されている。それに対し、日本の天皇は、本人が宇宙神、すなわち北極星の化身であるとの認識がなされており、祭祀者であると同時に被祭祀者でもあるという立場を特徴づけているといえる。</p>]]>

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