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日本ファッション史の考え方

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ファッション雑誌を見ていると、特集ページでは、ちょっと手を伸ばせば届く値段の商品が掲載されている。しかし、広告ページでは、既製品ですら決して手が届かないようなトップ・ブランドが、日本国内本店の居住地・連絡先等を記載するだけで、値段を掲げず暖簾を出している。このような意味で、ファッション雑誌は、「手に入れることのできる商品」と「いつかは手に入れたい商品」との落差を縫い込んでいるといえる。そもそも、ファッションとは、衣服や服飾品、それらの流行現象、時代の価値観など、幅広い意味をもっている。良くも悪くも、ファッションとは、「揺らぎ」をもった文化的特徴を備えている。

漢字に注目してみよう。「服飾」の「飾」は、自分らしさや煌びやかさをイメージさせるが、「服」の方になると、違うイメージも出てくる。婦人服、紳士服、子供服、洋服、和服、制服など、「服」の付く言葉を挙げると切りがないが、「服」には、征服、屈服、服従といった、闘争的な意味や権威的なニュアンスも含まれる。

繊維・服飾の歴史からみた日本史を理解するには、ある程度の専門的用語を用いても、乱用しないことが大切である。当時使用されていた用語を用いることは歴史を大切にする態度として大切かも知れないが、歴史を大切にすることと、歴史を理解することとは、別の次元の態度だからである。理解を妨げるほどの専門用語の多用は、結局は歴史を拒絶する態度に繋がる。私たちは、歴史を知ることによってではなく、歴史を理解することによって、はじめて自分自身の置かれた状況を知ることができる。只の物知りは、歴史の理解と自分の居場所探しには不要である。

冒頭に記したような「服」のもつ落差に注目して、単なる習慣や流行と思いがちな服飾文化(特に衣服と生地)、日本衣服史・服飾史・ファッション史をテーマに、日本列島の歴史を振り返る場合、産業史の観点からみれば、農業史ではなく工業史が焦点に当てられる。また、服飾については文化史や社会史に関する叙述も含める。工業史の地点、いいかえれば繊維・衣服の生産という地点に立てば、そこには、大規模な生産体制から極小規模の製造工房に至るまで、多様なシステムや労働形態がみえてくる。古代から現代にいたる衣服産業史について、一定の見通しを与えることが、本書の根本的な課題である。

今から約100年前の20世紀転換期には、比較的大規模な工場が企業体として成立し、世界経済において一定のシェアを誇ったが、世紀後半にはその脆弱性が露呈され、製品転換はもちろんのこと、企業体の維持そのものが危険にさらされることとなった。日本の企業体の特徴の一つとされてきた財閥についても、比較的生命力が強いと思われてきたが、それとて、近年の銀行統合にみられるような脆弱性は顕著なものとなった。

逆に、日本のもう一つの特徴とされてきた中小企業・零細企業の生命力は、日の当てられることは少なかったものの、その強みが再び脚光を浴びる時代になった。それらは、20世紀中期にみられたように、日本政府や大企業に依拠する時期もあったが、世紀末にははっきりと態度を変え、アジア諸国や諸企業との連携によって、新陳代謝による活性化を実現したと、大まかにまとめることができる。その間、今まで考えられなかったような企業体も出現した。従来のように特定国に本社を置く1社が多国籍企業化するものではなく、資本・開発・生産・販売などが各国籍に分断されている多国籍工程とよべる事態(企業体と呼ぶよりも企業連合と呼ぶべきかも知れない)が顕在化した。また、製品開発以外の全ての工程部門を外注するファブリス企業や、自社製品としての製品販売を行なわず、受託生産に特化した企業(ファウンドリー企業とよばれる)等も出現した。

上記のような動向においていえることは、20世紀の経済学では紐解けない事態が、同じ20世紀の経済や文化をつうじて、進行していたという事実である。本書の取り扱う繊維・服飾についても同様のことがいえる。例えば、東洋紡やカネボウ(鐘淵紡績)のように、19世紀末に大規模な紡績工場として勃興した企業は、既に企業合併を済また後、20世紀の始まりとともに綿糸紡績だけを生産する限界に突き当たった。化合繊がアメリカを中心に普及しはじめたからである。

これらの大規模紡績企業は、人造絹糸(人絹)、化学繊維・合成繊維の生産に着手するケースや、織物業内製化を目指し、紡績兼営織布として展開したケース、さらには、20世紀中期には、労賃の上昇により紡績業そのものの経営維持が困難となり、化粧品部門を開拓したケース等、企業体としての維持に過度な重圧がかかった。カネボウやレナウンなど繊維メーカーや商社は、1960・70年代に、挙ってファッションの流行創出を行なったものの、原材料を自前で用意することを既に放棄し生産財国産化のみに拘泥していた日本経済の文脈のなかで、その効果は非常に限定的なものに終わった。日本のファッション流行においては、原材料と生産財を日本に輸出する国々(日本への輸出国)や、衣料製品を日本から輸出する国々(日本からの輸入国)の事情変化に左右され、いわば背骨なき衣服文化と衣服産業が20世紀日本を貫通した。

さて、幸か不幸か、私たちの目の前にあるのは、既に作られたものだけである。あなたが読んでいる本や雑誌、あなたが今聴いている音楽、そして、あなたが住んでいる家、何もかもが既製品である。残念ながら、「いま」私たちが触れることのできるのは、すべて過去の領域にあり、未来に触れることはできない。

総じて、自己表現、デザイン、清潔感、流行、プレゼント、恋愛、マーケティング、技術・機械、身分・階級、政治、戦争など、実に様々な事柄に関係してきたファッション文化やアパレル産業を題材に、日本の歴史を概観することが可能である。

ただし、「日本」という国名が古代の唐(今の中国)に対する方角を意識したものであったことを踏まえ、日本の歴史は、大昔から一国の歴史としてはほとんど成立していないという点にも注目する。服飾においても同じことがいえる。紀元前の中国大陸で蓄積された服飾文化が20世紀前半にいたるまでの日本史を決定した。このことは、19世紀後半のアメリカ合衆国における服飾文化が、20世紀後半以降の日本史を決定しているのと同じことである。


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