イギリス絹織物業の転換
19世紀末に、杉田定一という福井県出身の代議士が、福井県絹織物同業組合と農商務省から委任を受け、海外視察として渡欧した際に、羽二重のイギリス輸出の有効性と、フランス輸出の具体策をインタビューしている。相手は、当時イギリス絹織物業の産地として著名であったマクルスフィールドの絹織物業者であった。
マクルスフィールドの絹織物博物館のパンフレットや地誌的な本を4冊、パラパラと読み飛ばしたところ、産業革命の元祖イギリスも、そのものとして調べていくと、ヨーロッパ大陸からの技術移転や原材料の輸入など、とくに、イタリアとフランスから影響を受けている側面もあることがよく分かる。綿糸紡績業や綿織物業など、木綿製品はともかく、絹製品については、イギリスですら、国家間競争と呼べうるような深刻な事態が生じていた。
今回、参照した本やカタログは以下の4冊である。
- Dorothy Bentley smith, “Past Times of Macclesfield”, Volume II, Landmark Publishing Ltd, 2005.
- Louanne Collins & Moira Stevenson, “Silk, Sarsanets, Satins, Steels and Stripes”, Macclesfield Museums Trust, 1994.
- Louanne Collins , “Macclesfield Silk Museums - A Look At The Collections”, Macclesfield Museums Trust, 2000.
- George Longden, “Life and Labour in Victorian Macclesfield”, Neil Richardson, 1983.
以下、一気に、上記参照文献を記憶モードも交えてまとめ直すが、イングランド、チェシャー州ボーリン川沿いのマクルスフィールド(Macclesfield)は、17世紀中に、ボタンを絹で包んだ産業として本格的に勃興した(絹ボタン産業)。この場合の絹は、織物というほど大きい必要はなく、粗布であったかも知れない。その後、18世紀になって当地は絹紡績業として展開し、当時、イギリス絹織物の中心地だった、ロンドン東端シュピタルフィールズ(Spitalfields)向けに絹糸を提供するようになった。
※画像は、1850年にブロックリハースト夫妻により織られた、ジャカード製織による女性用ドレス生地とスカーフ地の見本。(Louanne Collins & Moira Stevenson, “Silk, Sarsanets, Satins, Steels and Stripes”, Macclesfield Museums Trust, 1994..p58)
さらに後になると、シュピタルフィールズの絹織物業が衰退の兆しをみせ、マクルスフィールドは絹糸生産のメリットを活かして、絹織物業産地として再展開した。19世紀前半がおそらく、マクルスフィールドの絹産業としての全盛時代になったようである。
1820年代に当地へ投入された力織機は、当所、綿織物生産には適合的であったが、絹織物生産には若干の改良をする必要があったようである。いずれにせよ、絹織物生産にも力織機が導入され、同時期にジャカード織法もイタリアやフランスから紹介された。ここで、マクルスフィールドは絹織物生産でジャンプ・アップをしたといえる。
もっとも、18世紀から19世紀前半にかけて、当地でも、児童労働の酷使など社会問題が発生していた。産地としては煌びやかな地位を占めるに至ったが、内情はボロボロであったという工業化の両義性を孕んだマクルスフィールドであった。
19世紀中期になると、工業国から金融国への転換を遂げようとしていたイギリス政府は、アメリカ合衆国への移民政策を奨励した。補助金付きの移民制度が導入され、マクルスフィールドの織工たちは家族連れで、ニュージャージー州へ大量に移動した。当地からの移民者にとって不運だったのは、その直後、アメリカ合衆国が保護貿易政策を導入したことである。アメリカとイギリスの間で絹織物製品の貿易や技術交流が断絶されたことになる。この時点で、マクルスフィールドは、織工の大量流出によって打撃を受けることになった。
以後、19世紀後半のマクルスフィールド絹織物業は衰退を続けながらも、当地に残った手機・力織機両方の織工たちが作業を継続させていたが、19 世紀末には、さらに一つの大きな問題が生じた。セルロースを中心にした人造絹糸がアメリカ合衆国から輸入され始めたのである。そこで、当地の絹織物業には、材料転換をする必要が生じ、天然絹糸か人造絹糸の選択という問題に直撃し、天然絹糸を選択した織工たちの方は、とくに売上げも利潤も上がらなかったという。
第2次世界大戦中はパラシュート用絹織物生産を行ない急場を凌いだが、めっきり職人芸だけが売りの地域になってしまった。その意味では、政府の保護から見放され、さらに材料繊維の転換に多大な費用を要した19世紀の事態は、同時期に衰退した西陣に似ている。
冒頭で記した杉田定一は、19世紀末にリヨン市場を狙った羽二重輸出案を模索したが、マクルスフィールドという地域を念頭に置きながらフランスに焦点を絞った態度は、かなり当を得た観点を持っていたと考えられる。同時期に海外視察を行なった政治家や業界人と比較する課題や、マクルスフィールド以外の強敵産地を調べる課題が残る。
