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3)中世における荘園公領制と絹織物生産

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背景

12世紀後半、平氏と源氏という武士階級の勢力が強まるなか、本州を中心とした「日本国」は西国と東国との分裂を経験した。

西国国家は、平氏政権下に組み込まれ、西日本を拠点に、中国大陸(宋)との貿易まで展開した。それに対し、東国は、源氏中心の東国勢力を中心に構成され、後に源平の闘いに勝ち、頼朝は京都の朝廷と和解後、征夷大将軍に任命された。

その後、源頼朝は、九州に鎮西奉行を設置し、東北には奥州藤原氏を攻撃し滅亡させ、奥羽を支配下に治める。ここに、日本国の統治権を分割する二人の王(天皇と将軍)・二つの国家(平安朝と鎌倉幕府)が対峙する図式が明瞭になり、この頃に形成された東西意識は、「東西男女の婚姻率」網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫、1998年、38ページ)をはじめ、多少なりとも現代にも影響を与えている。

さて、東西分裂後の日本列島における荘園公領制と絹織物生産について大まかにまとめてみよう。

(1)荘園公領制に見る東西の違い

西国・東国とも、荘園公領制という同じ土地制度にもとづき人民を支配したが、以下の3点に大差があった(以下、主に網野善彦『「日本」とは何か』講談社、2000年を参照した)。まず、単位のあり方だが、東国・九州中南部では、郡・条・院(令制の郡から転化)が基本単位とされ、これら自体が荘となった。これに対し、九州中南部を除く西国では、郡が徴税単位としてはさほど機能せず、小規模の郷が中心となり、これが荘に転化したとされる。そして、同じ「荘」でも、西国の方が小規模であることが多い。

次に、領主のあり方をみると、西国では、徴税単位の田畠が平民百姓名となっており、様々な職が補任的な関係をもつ「職の重層的体系」が実現されている。これに対し、東国では、百姓名が出てくることが少なく、一族・主従の関係を通じ郡や荘を管理する体制が採用されていた。

3つ目の年貢品目にも面白い違いが見られる。西国では、通説の日本史が教えるような世界が展開されていた、つまり、米年貢を賦課する荘園が多く、特に畿内・瀬戸内海沿海地域・九州では顕著であった。ところが、伊勢・尾張・美濃以東の諸国では、絹・糸・綿・布などの繊維製品が年貢の中心とされていた。北陸道諸国を除いた東国における米年貢は異例だった。

(2)絹織物生産の相対的低下と産地変化

このような東西の差異が際だつ時流のなか、東西の中央を出自とした伊勢商人・近江商人の活躍が中世前半には目立った。滋賀県・三重県は、東国と西国との結節点で、絹織物などの流通が活発だった。また、女性による絹関係の労働成果は、桑(桑は弥生時代から栽培が始まっている。)、養蚕に従事し、絹を貢納する目的だけでなく、貨幣にもなった。

中世後期から近世前期になると、絹糸・絹綿に徴税の比重が掛かり、地方蚕糸業や織物業は相対的に活力を失った。まず、九州・中国・北陸・山陰地方の蚕糸・織物業が活力を失い、代わりに、対明貿易による白糸輸入が激増した。

近世初期『毛吹草』段階で残った絹織物産地をみると(転載元は、永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年、150ページ。)、絹系の産地は、越前(現福井県)、但馬(現兵庫県)の出石絹、丹後(現兵庫県)の丹後織絹袖が確認される程度であり、この時期、尾張(現愛知県)・伊勢(現三重県)は絹織物から綿織物へ転換し、例外的に、西陣(現京都府)では古代の織部司の技術を継承しつつ、絹織物生産の絶頂期を迎えたが、原材料は、明の高品質絹糸だったとされる。

絹糸・絹織物の産地活力の低下によって、中世末から近世初頭にかけての日本列島は「木綿輸入とその国産化」という事態を迎えることとなる。


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