2)古代における繊維・布の献上品
(1)律令制下における献上品としての繊維・布(7~10世紀)
絹と苧麻に関しては、律令制の下で、調庸布として品質やサイズが規格化されていた。
そのうち、絹(動物繊維)は、調の中核で、支配層の権威と不可分の身分制的衣料として機能していた。国衙の官営工房に専門技能をもった「織生」が出勤し、生産に従事することで調に対応されていた。直属地の五畿内は免除された。
苧麻(植物繊維)の方は、民衆向け衣料材料だけでなく、7~8世紀には調としても利用されていた。苧も麻も含め、繊維の場合は「苧麻」、布の場合は「苧麻布」。
商布(植物繊維。苧麻・葛等か?)は、8世紀初頭から存在し、当初は1丈3尺で、714年に2丈6尺へ長さが変更された。国衙(地方政府)内での交易物であったが、9世紀には東国(≒関東)をはじめ、多数の諸国から中央へ献上するようになった。
これら調庸布にみられる問題点は、絹はもちろんのこと、苧麻ですら不良品や土着性があり、統一性に難点があったことである。この問題に対して採用された、ある程度の解決策は(3)を参照されたい。
※律令制…東アジアでみられる法体系で、これに基づく国家統治体制を律令制(または律令体制)という。日本の場合、7世紀後期から10世紀頃まで実施された。
※調庸布…献上品(または年貢)のことで、今の言葉では税金に違いが、現金で徴収されることは少なかった。租庸調と一般的にいわれるもので、「租」が基本的に米で、各国の主要財源として機能し、一部は京へ納められた。「庸」は京での労働(歳役)の代わりに納めた布・綿・米・塩など。「調」は、基本的に繊維製品で(正調)、生産が難しい場合は、代納品として、地方特産品34品目か貨幣納入も認められていた。
※苧麻布…「苧」は自然生でカラムシ(イラクサ科の多年草)。「麻」は播種栽培によって生産され、狭義には大麻をさす。広義には植物性の長繊維と、繊維を取る植物全般をいう。なお、長繊維の方が短繊維に比べ、織物生産には適合的である。
(2)『延喜式』下における献上品としての繊維・布(10~12世紀)
『延喜式』においては商布の比重が高まる。『延喜式』編纂時期、すなわち、10世紀になると、地方豪族の経営による大量生産がある程度は可能になり、関東諸国(特に、上総から下総にかけての地域)が、苧麻系の布の有力産地となっていった。また、中世に活発化する絹布の産地化が芽生えはじめたのもこの時期である(特に、越後布、越中布、信濃布)。
※『延喜式』…平安中期905年に醍醐天皇の勅で編纂が始まり、967年に施行された格式(律令の施行細則)。三代格式(他に弘仁格式、貞観格式、いずれも平安期)の一つで、最も完全な形で残っている。
(3)原材料・繊維・布における献上品としての違い
調庸布のような「布」の規格化は、生産水準において地域差が大きく困難であったが、「繊維」段階で献上する場合は、一定の生産体制の下で利用すれば、一定品質の布へと加工することが可能である。また、束ねたまま輸送できるメリット(利点)も大きい。
つまり、一定品質、輸送量から考えると、布よりも繊維を献上させた方がメリットは大きい。もっとも、絹の場合は蚕そのものの輸送は不可能であり、繊維か絹布段階での輸送が限界であるが、これに対し、苧麻は植物そのものを輸送することも可能である。
(4)古代における庶民層の衣料と染織技術等の状況
ちはや→肩衣→「肩衣+襖」。襖は詰襟の上着で、官服だけでなく、11世紀には庶民へも普及した。平安後期には、織物、組物、染織などの技術・工芸も庶民層へ普及している。

(補足)古代の特徴的な衣服~正倉院宝物にみる衣服
唐風衣服の影響で、肌着、前掛、脚袢の原型が出現した。奈良朝の上流婦人の服装には、ロングスカートにベスト(ツーピース)というチマ・チョゴリに似た衣服形態が確認される。このツーピースは、後に一般庶民にも一般化した。ただし、アジアでは一般的に庶民層はズボンを穿く習慣がヨーロッパに比べ多いといわれる(村上信彦『服装の歴史』)。また、正倉院は当時の染色技術の宝庫であり、絹布(綺、綾、錦、羅、穀)、フェルト、麻布。柄(デザイン)も多様に収蔵されている。
(補足)唐衰亡と服装の和洋化
貴族間では、大陸的様式から南方的要素の強い「直線裁式」に戻るか、大陸式と融合し、全体に穏和で優美な服装を目指し長大化。また、9世紀には染色技術が上昇し、原色に留まらない多彩な色を生み出した。
※写真は、高田倭男『服装の歴史』中央公論新社、2005年から転載した。
サイト内関連ページ
- 1)縄文時代~古墳時代の服装 (ファッションの歴史)
