神戸居留地と元町中華街(南京町) - 華僑の一面
19世紀中葉の2度にわたるアヘン戦争の結果、大陸在住中国人をはじめ、江戸時代の「4つの口」の一つ長崎に在住していた清朝期中国人たちは、大阪の川口居留地へ移住し、間をおかずに今の神戸元町・三宮へわたってきた。
欧米列強の人々やそれに追随した中国人の人々が大阪での在住が短かった理由には、浅瀬であった大阪港よりも、深瀬であった神戸港の方が外国船にとっては都合が良かった点が大きい。
※「神戸華僑関係地図」
※「華僑に関する参考資料」(華僑関連年表)
現在の「三宮駅」(JR以外)、「三ノ宮駅」(JR)の歴史は意外に浅い。
三宮という地名の由来でもある三宮神社が駅名の由来であるが、他の交通機関はすべて「三宮」であるのに対し、JRのみ「三ノ宮」と“ノ”の文字をつけているのは、開業が最も早く、駅創設時からあえて“ノ”をつけることによって地名の読み違いをさせないよう配慮していた名残であると考えられている。
(三ノ宮駅 – Wikipedia)
それに対し、「元町駅」(JR)の歴史は古く、1874年5月11日 開業に遡り、国鉄時代の高架化に伴い、カーブ地点に新たな駅(現/三ノ宮駅)を設置したことにより、本来の三宮駅は、「元町駅」と称されることとなった(この点、Wikipediaでは三ノ宮駅を一緒くたに記している)。
なお、この点の経緯をはじめ、元町南京街の成立経緯から異人館建設までの略史について、神戸華僑歴史博物館の方に丁寧な説明を頂いた。記して感謝する。
ちなみに、旧居留地の一角に位置する大丸百貨店と三宮駅に隣接するそごう百貨店との成立はどちらが古いかも、この経緯から理解できる。
甲午中日戦争(日清戦争)や日中戦争を介しながらも日本人と中国人は共生していた。開港場では、両国民とも、欧米諸国の人々向けの職業(財・サービスの提供)が多かったが、欧米人も窮屈な生活をしていたようである。後に「異人館」と呼ばれる、現在は観光地化されている北部へ移動している。
19世紀後半南京町の中国人労働者の職種には、貿易商、金融(両替商)、商業書類の印刷・製本、料理、理髪師、洋服仕立、製靴、塗装業、紅茶製造人、画家、医療伝道師、西洋人家庭の使用人等々が挙げられる。
1899年に「内地雑居令」が公布され、居留地以外でも外国人の居住が公的に認可されることになり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアなどの外国人たちは、上記のとおり、「異人館」の方へ移住した。
ところで、世紀転換期における日本企業の雇用状態を糾弾し、労働者対策を論じた横山源之助は、『内地雑居後之日本』で、「雑居」によって共生と同時に機械輸入が大量に行なわれることによって日本経済の将来を憂えているが、物品の輸入だけに注目しているのは、脇が甘かったと言わねばならない。雑居とは技術の輸入も行なわれるのであり、「雑居」の理解力不足が横山にはあったといえる。
技術輸入は、時に上海や寧波へ横浜居留地で鍛え上げた仕立業者が仕立店を開店するといった輸出をも呼び起こし、中国人仕立業者の神戸・横浜での活躍と、日本人仕立業者の上海・寧波での活躍といった流動性が、20世紀転換期の日中で実現したのは、比較的良好な関係だった一時期である。
参考文献
- 熊月之・马学强・晏可佳选编『上海的外国人(1842-1949)』上海古籍出版社出版、2003年
- 神戸華僑華人研究会『神戸と華僑 - この150年の歩み』神戸新聞総合出版センター、2004年
- 伊藤泉美・西川武臣『開国日本と横浜中華街』大修館書店、2002年
