1)縄文時代~古墳時代の服装

(1)縄文時代
この図の土偶を見て分かるとおり、縄文時代の人たちは裸体に近い。
(2)縄文時代後期・晩期
居坐機・地機と織物技術が中国大陸や朝鮮半島から伝来し、織手の腰に当てた帯で経糸に張力を与えることが可能になった(織機の原型)。
縄文時代後期の編布、晩期に織布が出土しており、それらの使用が確認できる。また、緯に草やヒゴ、経に紐や糸状のもの2本を絡めた編物(=莚や簀)のようなものも列島各地から出土している。

(3)弥生時代
この図からは、格式ある服装の巫女(古墳時代=倭国支配下)の存在を想像させる。卑弥呼ら為政者たち支配層の一部には、絹による衣服が普及していたであろうが、織法は未熟であったといえる。
また、男性の場合は、一般的に、髪を露出させ冠は被る習慣がまだない。樹皮繊維による織布を頭に巻き、衣服は布を横に巻いた物で縫合もなかった。女性の場合は、髷を作り結う習慣が既に形成されていた点は意外に早いが、衣服は単が大半であり、一方の耳のみを縫合した筒型(頭から被る)となっている。
この筒型衣服は「ちはや」と呼ばれ、中国大陸で既に普及していた貫頭衣のことである。今風にいえば「袖無しワンピース」といったところ。弥生時代から古墳時代には、列島でも一般的に着用されるようになった。この時期、ネックレスや「ちはや」(中国語で貫頭衣、古代エジプトではチュニック)など、服飾パターンの原型が形成された。
後、飛鳥時代には、「ちはや」から「肩衣」(手無し)への変化がみられる。肩衣は、首を通すために落とした部分を襟部に縫合した衣服のことである。
(4)古墳時代
左の図をみると、上の女性は重量感のある服装に対し、下は農民男性と思われ、活動的な服装を着ている点を確認できる。
右の図では、上はあっさりした男性埴輪で先の例と同じく、活動的な衣服を着ており、下の女性埴輪からはネックレスを身につけているのが分かる。紡織技術が進むよりも、装飾品の加工技術の方が発展しやすかったといえる。
なお、403年には、百済から縫衣工女(きぬぬいおみな)が渡来し裁縫技術が伝来し、470年には漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛らが織物製作・裁縫作業に従事したといわれる。
※以上の図4点は、高田倭男『服装の歴史』中央公論新社、2005年から転載した。
【補足】染織先進国・紡織先進国だった中国
漢代に衣(上半身)と裳(下半身)との絹のツーピースから衣・裳を縫い合わせた深衣(現代の韓国のチョゴリ風)へと変化した。胡服と呼ばれ、襟と袖が付き、前身頃を帯で占める。特に高句麗で着用習慣があった。
図にあるとおり、深衣は襟、袖口、裾に縁が付けられている。倭国上層の人たちも着用していた可能性は高い。中国では、漢の時代には既に貫頭衣から襟・身頃・袖・袵(衽)の部分から構成される衣服がデザインされており、この裁縫技術が百済を経由して日本列島に伝わったというのが古代衣服史上の重要なポイントである。
※左図は、货梅『中国服饰』五洲传播出版社、2004年から転載した。
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