服飾史の考え方
このページでは、柳田国男「木綿以前の事」をテキストに、服飾史のあり方を検討しています。
0:はじめに
本稿では、衣服史や社会史の前提とされる、柳田国男の著書『木綿以前の事』に収録されている同タイトルのエッセイ「木綿以前の事」(1924年筆)を扱う。使用テキストは、岩波文庫版(1979年)である。『木綿以前の事』は、近代日本における文化の変容に関するエッセイを集めたものである。大まかな構成は、前半が服飾史、後半が女性史となっている。
書名と同タイトルのエッセイ「木綿以前の事」では、木綿、あるいはそれを着用する風俗を積極的に評価していることがキーポイントである。その評価をもとに、柳田は同時代の木綿生産の現場が環境的に劣悪である点を憂う。
本稿において、この柳田のエッセイに拘ってみたのは、保守的、官僚的、等々、国粋主義的な者として捉えられてきた柳田の著書群のなかで、果たして衣服史関係の論文は、そこから免れうるのか、ということを検証するためである。従来から、服飾史といった場合、まずもって念頭におかれたのは、特定社会における支配階級の服飾であり、あるいは近現代に関してはデザイナーたち「当事者」の伝記まがいのものとなりがちである。その意味では、庶民の服装という柳田の着眼点には意義がある。
そもそも柳田国男が国粋主義的だと指摘されるのは、およそ排外主義的な立場だという点ではなく、むしろ日本国家のみに着目しすぎる嫌いがある点である。経済政策において彼が国内市場志向型への産業転換を訴えるのは、その所以である。昭和初期において、国内市場を潤ったものとするには農工のバランスの取れた産業発展を彼は念頭においたのであった(注1)。あるいは、今回のテーマに関していえば、棉生産(農業)から綿製品の製造(工業)・販売(商業)に至るまでの国内ルートの確立が彼にとって急務だったとでもいえばよいだろうか。
しかし、明治期において既にメリヤス(莫大小)やイタリア製をはじめとするフランネルなどが、シャツやズボン下などの作業着、普段着に利用されていた点を鑑みた場合、柳田が「庶民の服装」に目を向けた時点で、極めて異様な「庶民の服装」が出現するのである。本稿では、この点をつぶさにみていきたく思う。
そもそも、柳田は歴史関係の文章を時系列的にも並べず、また叙述のさいの視点を明確にもせずに書くため、とかく印象で終わっているものが多い。どうも私には随筆としか思えない。それゆえ「木綿以前の事」もまた、たかが文庫本で10ページにも満たない小論とはいえ、詳しく読めば読むほど理解しにくいものである。そのような制約を抱えつつ、柳田にとっての木綿というものを探りながら、この柳田の小論に少しばかり肉づけをしてみたいのである。
1:エッセイの素描
それではさっそく、着用の習慣も含めて木綿を柳田がどのように評価しているのかをみてみよう。( )内の漢数字は該当する原文の節番号である。
『七部章』などから木綿に関する句を拾ってきて、柳田は、晴れやかに詠われた句(3つ)と寂しげな様子を伝える句(4つ)とに分けている(一)。ピックアップされた句のテーマは、いずれも恋である。いずれにせよ、古代に木綿が生産されはじめて以来、元禄期初頭までは、少なくとも、木綿から優雅な境遇を連想するしきたりがあったことを柳田は指摘している。
このような前振りを経て木綿の積極的評価が2点、略述される(二)。若い人々に好ましかった点という限定つきではあるが、大きく分けて、肌触りが絹よりも勝っていること、染色が絹同様に易しいこと、この2点が木綿の利点である。さらに、動きやすさからでは麻にも勝ると付け足されていることもふまえれば、近世までの日本で最も頻繁に利用されていた麻・木綿・絹という3つの繊維のなかで木綿が大きな評価を得ていることが分かる。
一点目は、作業するさいの木綿の利便性を述べており、二点目は、庶民が優雅さを表現するさいの木綿の長所を指摘している。
作業時の利便性としては、長い間、木綿はその吸湿性と柔軟さから作業用の服として定番であり続けている。現在、カジュアルウェアーのブランドとして有名になってきたユニクロをはじめ、Tシャツの生地に「天竺」「鹿の子」を採用するメーカーは多いが、これもまた木綿のうちでも主力生地だとみてよい。近代まで広く作業用衣服の生地として使用されていた木綿は、ずっと普段着としても利用されていた。
次に、木綿が優雅さを示すという点について、少し言及しておこう。優雅さを表す生地は何といっても絹こそが代表格である。絹織物の代表的製品である着物などに比べて、木綿の示す優雅さは、柳田の指摘する染色のしやすさによるものだが(三)、普段着にしろ作業着にしろ、紺色が基本となっていた木綿に若干の幾何学的な紋様を縫い込むという、その紋様にウェイトがおかれる点も見逃せない。紺一色といっても過言ではない近世までの綿織物の華やかさは、近代になっても色合いではなく柄にアクセントがおかれていたが、それは当然にも、複雑な織法の賜物であった。
さて、裏糸と呼ばれる、生地裏から縫い上げられる糸、もしくは織り方があるが、それは表からはみえることのない糸のことである。機能的には、衣服を頑丈にするなどの意味合いがあるが、「裏糸」に相応しい役割は、むしろ、表からはみえない特徴にもとづいている。しばしば、紺色以外の派手な色の糸を裏糸として縫いつけることによって、庶民的衣料として強制されていたことへの抵抗・反発という側面があったのである(倉吉絣の機業家・研究家である福井貞子さんに教えていただいた)。断言できないとはいえ、おそらく「衣服の身分制」という点では、着る物の柄よりも色が規準となっていたのかも知れない。
2:木綿評価に関する柳田の恣意
ここで、次に引用した二つの文章をみてほしい。この第二節の冒頭を飾る二つの引用である。「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる。」(p.13)という下りと、すぐ下に続く、「現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。」(p.13)という下り。
一つ目の引用では、毛糸(羊毛のこと)の「セーター」などが「木綿」と比較されている。これはいささか奇妙である。セーターは品目であり繊維ではない。もっとも、柳田はここで品目と繊維とを混同して比較するような失態を演じているのではないだろう。むしろ、木綿製品と羊毛製品とを比較しながら、木綿製品の方をひっくるめて「木綿」と呼んでいるとみるのが無難だ。しかし、二つ目の引用を検討すれば、「木綿」は「麻布」と比較されている。つまり、ここでは生地もしくは繊維をレベルにした比較なのである。
執筆当時、既に日本でつくられる衣服の品目や生地が多様であった点は広く知られてきているが、それは羊毛製品などの輸入が盛んだったという理由だけでなく、在来の綿布を生地にした品目にもいえることである。同時代の多様性をそのものとして放っておく点が、この「思わず」比較してしまった柳田の甘さから伺える。
あるいは、次のようにもいえる。柳田自身の周辺に関するもの(ここでは木綿)の方が、異質だったもの(ここでは羊毛製品)に比べて、ずっと差別化・区別化が遅れているのだ、と。もちろん、情報の多少は自身からの物理的な距離に左右される点は避けられないが、その限界をもっていることに気づかないまま漠然と木綿を賞賛する柳田の観点は、頼りないものである。
しかし、柳田が木綿を評価することの具体的な視点は、それだけに留まるのではない。「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる」(p.13)。前節で古代の句を拾った直後に、執筆当時に世界の繊維産業の機軸であったイギリスの羊毛製の服と、日本の木綿製の服とを比較することから当節が開始されている。
木綿が中国から日本へ輸入されたのは諸説があるとはいえ、時代的には古代であることに変わりはない。柳田はこの小論で、古代中国からの木綿の輸入以後、1924年の執筆年までの木綿、つまり国内の木綿について論じているのにたいし、国外の生地や繊維が、本節の後にも先にもこの一文を含めて二文しか出てこない点に注目すれば、これはいささか奇妙といわざるをえない。
3:柳田の「本意」
エッセイは続く。安上がりで庶民的な衣料として「生活」を満たしてきた木綿は、今度は庶民の腹を満たしてきた薩摩芋になぞらえられ、その恩恵を確認すべきだという柳田の訴えが出てくる(四)。どうやら柳田は、日本産のものを評価するとき、あるいは外国産のものを罵倒するときにしか、紙面を割きたがらないようだ。
しかし、また奇妙なことに、次の節である第五節では、珍しくカタカナが出てきて、そのカタカナを取り巻いて柳田の憂えが展開される。「毛布やモスリンの新しい塵が加わっても、やはり昔通りに畳を敷きつめて、その上で綿や襤褸ぎれをばたばたとさせている」(p.18)
執筆当時の紡績工場の状態が劣悪だったことは、広く日本労働史研究で指摘されてきたことである。柳田が指摘するように、綿埃(わたぼこり)は、女工(差別用語が耐えられなければ、女子従業員と読み替えていただきたい)の結核という形で当時から社会問題になっていたのは確かである。しかし柳田は、その塵があたかもモスリンと毛糸だけから発生するかのように書いている。綿埃は、文字どおり綿からも発生するのであって、何も羊毛だけから発生するわけではあるまい。しかも、綿は古代から日本で扱われてきたのだ。
とすれば、柳田が言っている紡績工場内で発生する「塵」は、これまで機織りの家々で紡がれてきた綿糸(めんし)を、工場内という集中的な場所へ移行したさいに発生した、近代特有の「害悪」のことだとみるしかない。しかし、さらに奇妙なのは、綿の出す埃については言及されていない点である。確かに羊毛は明治期には既に企業のもとで生産されていたことは確認されているが、綿糸ほど広く大量に生産されていたとは考えにくい。それなのに、なぜ、毛布とモスリンの塵だけが、柳田においては問題とされたのだろうか。
4:結論
次節(六)では、湿気の多い日本という点を念頭に、昨今の衣服の通気性の悪さを指摘している。肌理(きめ)の細かい綾織りなどを柳田は毛嫌いするわけである。元来は太物と呼ばれる衣服(文字どおり幅の太い糸で作られた生地の粗い衣服)は通気性に優れ、日本の環境では綾織りではなく、太物こそが適切なのだと力説する。
そして最後の節(七)では、近世までは裸足で作業をしていた農民が、ゴム底の足袋を履いて農作業に勤しむ点を憂えている。もちろん、水を弾くというゴムの利点など、柳田の眼中にない。ひたすら、憂う。
柳田の「愚痴」は、上記のようなものであるが、柳田の結論は次のようになっている。
「次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。もっと我々に相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか」(p.19)
残念ながら、私の結論は次のようになるといわざるをえない。「国民の経済に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。もっと我々に相応した生活の仕方を、まだ発見しようとしてないのは、柳田たちであろう」と。
木綿の利便性は、このエッセイから伺い知ることはできるが、それは西洋生地の利点を検討しないという形で検討された利便性であり、タイトルどおり「木綿以前の事」であって、[日本VS西洋]という決戦において、叙述前からあらかじめ決着が付けられたエッセイ、しかも「木綿以後の事」を考えることを徹底して拒否した一面的なエッセイであるという点を私は柳田にたいして憂えたい。
西洋コンプレックスとは、何も西洋に対して日本の文化が立ち後れている点を憂うことだけではないだろう。日本の文化の優秀性を指摘するという、いわば結論は逆転していても、コンプレックスに変わりはないのだ。不思議でならないのは、このエッセイのなかで、北欧、羊毛、モスリンといった西洋に関わる用語が多少は出てくることに対し、日本に綿を紹介してくれた恩師である中国に関する言及が、「中国から輸入された」という指摘にとどまっている点である。たとえば黄砂にたいする中国での衣服をつうじた戦いが触れられているわけでもない。ちなみに、黄砂が集中する中国北西部(チベット側)の服装は総体的にみて分厚い傾向がある。また、北京周辺では、紺あるいは草色の人民服を着た人が目立ち、生地や仕立法にさまざまなパターンがあり、地位を反映しているとの話も聞いた。
このように考えてみれば、柳田は、単に外国で着用されている衣服にとどまらず、当時から日本国内で頻繁に着用されていた外国産生地による衣服をまったく触れない点からも分かるように、存在しない「木綿王国日本」というようなものを、どこか朧気に思い浮かべているのではないかと思わざるをえない。また、通気性を日本の衣服の利点として挙げる柳田にあっては、日本国内すら均質に捉えられている可能性もあり、まったく首肯しがたい。さらに、現在では汎用されている混綿については、おそらく柳田にあっては、「ポリエステル追放」を念頭におきながら、「国内産木綿」をもスローガンに掲げたことであろう。
とすれば、明治期には既に西洋VS東洋、西洋VS日本といった二項対立には回収しきれない多様性をもっていた服飾史を考えるにあたり、和洋折衷というキーワードにこだわってみることと、今回扱った柳田の小論を「世界:木綿以前の事」というビジョンに移し替えて再考することが、どうやら有意義なようだ。
冒頭で触れたように、柳田の念頭にあった国内的な経済政策自体は、それ自体としては認識の誤ったものではない。しかしながら、昭和初期という局面において、農工商の国内循環を円滑にするという政策の現実性は、いささか明治以降から国際的な視野に立ち続けてきた経済発展とは交わりがたい。とはいえ、安い輸入綿に原料を特化し、国内綿生産部門の農業を切り捨てさえすれば円満になるかのような綿工業の現状を柳田が憂うとすれば、それは正しい視点ではある。しかし、それを一国規模で衣服生産のはじめから終わりまでを賄う政策を代替するには、極めて無理な状態であったことも確かだ。
確かに、『木綿以前の事』というエッセイ集が、生活史・文化史のなかで女性の果たしてきた役割と、女性の今後の社会進出への提言であると読むことはできる(注2)。本稿で指摘した以外にも、柳田のこのエッセイ集では、綿が見た目は絹に近いといった点もきちんとピックアップされている。しかしながら、柳田は、先に書いたとおり、綿生産をはじめとする国内農工業の問題という大局的な側面を念頭におく一方で、どこでも誰でも着られる便利な木綿という、目の前に繰り広げられる衣服生活への接点を見失いつつあるような、不安定な立場、やや焦りさえ感じさせる立場に立たされているような気がして仕方がない。政策という強迫観念に囚われつつも、生活という「無意識」を発掘しようと悪戦苦闘する柳田のもどかしさについて、今回、私は柳田を憂うという形で書かせていただいた。
最後になるが、柳田の焦りとは以下のようなものである。しかし、この文章が執筆された時点で、既に国内の衣服生活は、ルーツ解読不能といえば大げさだが、きわめて多様な装いをしていたという時代的な「哀れさ」は指摘しておかなければならない。
「日本は地方の事情は区々で、或る土地で夙に改めてしまったものを、まだ他の土地では暫く残していたという例が幸いにして多い。それを集めてぽつぽつと整理してみたら、いわゆる改良の順序はやや明らかになり、それをまた幽かに伝わっている上世の記録と比較し照らし合わせて、やや確かめることができはしないだろうか。こういった方法を少しずつ勧説してみたいと私は思っている」(注3)。
私自身は、日本の近代化が開始されて既に数世代目に突入していた柳田の生存時期をターゲットに、衣服の変遷や販売動向をたどろうとしている。柳田のみた衣服史の夢すらまだ私自身も果たせずにいるが、柳田にあっては現在であった明治から昭和にかけて、既に今からみて過去となった時期に対しても、私はできるだけ具に、衣服の形相を捉えていきたいと思う。
脚注
- (注1)野村純一他編『柳田國男事典』勉誠出版、1998年(川田稔「国家意識」)
- (注2)野村純一他編『柳田國男事典』勉誠出版、1998年(守屋琢智「『木綿以前の事』」)
- (注3)柳田国男『木綿以前の事』岩波文庫、21ページ(「何を着ていたか」1911年執筆)
