衣服革命と洋裁教育
<明治期の洋裁教育>
明治時代の洋裁教育は時期と教育者によって数タイプに分かれる。明治初期は教会所属の西洋人やお雇い外国人教師たちが開いた洋裁教育が英学とともに展開された。その対象は貴族などの富裕層に限定されていた。その後、鹿鳴館洋装を支えた日本人洋裁教授者が登場する。代表的な例では、フランス公使館裁縫方の経験をもった沢田虎松が婦人洋服裁縫学校に教えたり、東京の三大仕立屋といわれた田中栄次郎が貴族子女を対象として洋裁教室を開いている。この時期の洋裁教育も、上流家庭の子女が教養を身につけるという意味合いが強い。
「婦人服店の内弟子として洋裁修業」
「内弟子制で縫い子を雇っていた婦人服店に住み込みで働きながら、技術を習得する方法もあった。多くは地方の小学校・高等小学校卒の少女たちであった。洋裁学校は学費が高く、入学資格が女学校卒であったため、進学できない少女には婦人服店は技術が身につく将来性にある職場であった。
男性の婦人服仕立て職人社会の徒弟と似ているが、年季の定めも、お礼奉公から職人になる組織もなかった。と訂正の過酷な待遇は見られず、食・住費を差し引いた給料が支払われた。しかし部分縫いに終始するおそれもあった。結婚して家庭に入る場合が多かったが、洋裁内職や下請けを続ける者、洋裁店を開店する者もあった。
総じて大正から昭和前期の市民洋装は職人の名人技を要しなかったので、短期に習得できた反面、明治洋装の高価な仕立代は期待できなかった。」(小泉和子『洋裁の時代-日本人の衣服革命』農文協、2004年、29ページ)

小泉和子『洋裁の時代-日本人の衣服革命』農文協、2004年