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明治中後期の足袋屋・和服仕立

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このページでは、今から100年ほど前、つまり明治中後期の足袋屋・和服仕立屋さんが一般的にはどのような仕事をしていたのかを当時の史料でご紹介しています。

以下に紹介するのは、生活力の向上を目指す指南書と職業案内書とを兼ねた『如何にして生活すべき乎』という書物で、産婆から記載がはじまり、小学校教師や差配人など身近な職業から、実業家、会社経営にいたるさまざまな職業が描写されています。ここで取り上げたのは「足袋屋」・「和服仕立」と題された項目です。

「表通りの一寸足掛り善き塲所にて間口三間位の店にて、夫婦にて非常の勉強するといふ足袋屋の經濟を記さんに、店には足袋は固より手拭、ハンケチ、手袋、襯衣(シャツ)、短袴下(ヅボンシタ)を取揃へて飾りある、其の就中主なるものは足袋にして利益の割合も中々結構なるものなり・・・中略・・・併し右の勘定は通常毎日の平均の賣高によりて計算したるものにして正月、祭りなどの月には隨分可なりの賣揚あるべし、又夫婦にて賣高の足袋を悉皆縫上ぐれば一足に付三錢の縫賃の利益ある譯なり、されど如何に勉強の夫婦にても悉く縫葢すこと能はず大抵夫婦は襯衣ズボン下などの裁縫を自分にして足袋は唯截ちたるのみにて他へ頼むこと多し、而して此の商賣は夏分は少し賣れ行惡しきものにて冬の七分位のものなり、此の資夲は敷金造作に四十圓、截板針鋏等の裁縫道具又は反物の仕入費一切七八十圓都合百二三十圓もあれば充分なり又遣方に依りては五六十圓にても足るべし、最も必要なるは其の技倆にして夫婦ともに裁縫に熟練し居るべきは云ふまでもなく其の亭主たるものは少なくとも三年くらいは足袋屋に奉公して修行したるものならざるべからず。」(以上、開拓社編『如何にして生活すべき乎』開拓社、1900年、206~208ページ。)

ここには、「間口三間位」の規模の家族経営的な足袋屋の様子がよく記されています。挙げられている販売品目は、足袋をはじめ、「手拭、ハンケチ、手袋、襯衣、短袴下」です。なお、中略にした箇所には、足袋の大きさごとの単価や、利用している生地の価格が記されています。

後半には、「正月、祭りなどの月」に売上が大きく上昇する点や、夏場は冬場に比べて7分程度の利益にとどまる点も指摘されています。このことは、足袋や被服を販売する店の大まかな傾向としてとらえることができます。また、この程度の規模を有する足袋屋を創業するには、120円から130円程度の資金があれば十分であり、資金よりも裁縫の技量が重要だというように結ばれていますね。

上で紹介したような「足袋屋」の概略は、価格に関する記述を除けば、明治中後期の足袋屋(あるいは仕立屋)の普遍的な状況とみていいのではないでしょうか。

つぎに、「和服仕立」についてみてみましょう。

「和服仕立を職とするものに男子が之れのみ専門にするものと、婦女子が内職にするものとの二種あり、尤も内職にするものは仕立屋と名づくべきものにはあらざれども之れも婦人の職業の一なれば、左に専門と内職とを區別して其の収入の如何を記さんに、先づ専門仕立屋は主に呉服屋よりの注文が多くして、大きなる呉服屋を得意とする仕立屋にては隨分仕事の注文は澤山にして、絶へず三四人の職人を雇ひ居る處もありて其収入も少なからぬものなれども、一寸一通りの呉服屋の二軒位を常得意として夫れに時々他よりの注文もあれば夫婦が絶えず仕立る丈けの仕事は充分なり、殊に盆前とか年末とかの折々には、夫婦丈けにては間に合わず臨時に職人を雇ふこともあり・・・中略・・・内職仕立の方は乃ち細君、娘、或ひは後家さんなどが一家の生計の補なひにするものなれば、澤山なる収入のある筈はなけれども門口、格子などに「和服仕立仕候」と張紙を爲し且は近邊の内儀、出入の髮結等に頼み置けば仕事は可なりにあるものなり、尤も呉服屋などの定まりたる得意とてはなく概して仕事は上等物は少なきものにして、又仕立料も専門仕立屋よりは二三割方安目なり、されど仕事は大抵絶えずあるものなれば一家の用事の傍らにする細君にても月に少なくとも四五圓、少し手早くして勉強すれば七八圓の収入あり、又娘と二人にて稼げば相當の収入となれば生活の補助には充分なるべく、殊に後家などの獨り身にては其の生活を支ふるに差支へなかるべきなり。」(開拓社編『如何にして生活すべき乎』開拓社、1900年、204~206ページ。)

上記によると、まず、和服仕立の二種類の職業形態が述べられています。それは「専門仕立屋」と「内職」です。前者は、呉服屋から注文を受け、2軒程度の受注が確保されれば、夫婦のみで十分対応できたようです。もっとも、盆暮れ正月には、臨時的に職人を雇うこともありました。また、後者は、女性が家計補助的な仕事としてなされるものとされています。後者は、得意先を確保していたというよりも、むしろ馴染みの者に宣伝してもらうことで注文を受けていたようです。もっとも、「専門」の方が「仕立料」、すなわち収入は2~3割高いですが、「内職」でも勤勉さがあれば家計生計的な仕事としても成立できたようです。

このように、仕立屋は、「専門」と「内職」の二つに大別されますが、いずれも、特定・不特定の顧客から仕立品を受注する注文生産が行なわれていたことが分かります。「和服」は、顧客からみれば、自家で仕立てる以外は、「上等物」であるか否かに関わらず、注文して仕立ててもらうという習慣があったということは日本のファッションの歴史において大切なポイントです。

そもそも、日本における既製服の製造は、1881(明治15)年に、岩村吉兵衛が「羅紗既製服製造販売」の看板を掲げ、神田柳町に店舗を構えたことに始まり、大阪でも1886(明治20)年に羅紗既製品の製造が開始されたといわれています 。既製服は羅紗(毛織物)から開始されたのです。しかし、既製服が産業として活発になるのは、第二次大戦後も、ようやく、1970(昭和45年)前後になってからのことで、この間、絹織物にあっては仕立に特化されており、綿織物の既製服化は徐々に進行していたにすぎません。つまり、明治期において、仕立品は既製品よりも慣習的なものだったのです。

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