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(4)高度成長期:合成繊維時代

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シネ・モードからパリ・コレクションへ

1954(昭和29)年、ディオールはHラインを発表し、ここにアルファベット・ラインの時期が始まる。ディオールは翌年、立て続けに、Aライン(2月)、Yライン(8月)を発表。なかでもAラインはA字型のシルエットをバリエーションに、落下傘スタイルが流行した。10月には大丸百貨店がディオールと契約し、これをもって海外有名デザイナーとの提携が百貨店を中心に展開されてゆく。1956(昭和31)年には、アロー・ライン(2月)、マグネット・ライン(8月)を発表。この時期から世界のモード界がパリ一辺倒となる。日本のデザイナーがパリを訪れることも盛んになったものの、洋装店のデザイナーは、パリのモード誌やスタイル・ブックを客に見せて選ばせ、そのコピーを仕立てることに甘んじることもあった。

男性のファッション面も活発化し、56年2月に東京紳士服協会がメンズ・ファッション・ショーを開催、翌年4月には文化服装学院に男子が入学するなど、紳士既製服部門にもファッション傾向が目立つようになった。

スピンドル・ラインを発表した57年8月から二月が経った10月、イタリアのモンテカチニへ旅行していたクリスチャン・ディオールが心臓麻痺で急死した。彼の側でデシナトゥール(下絵描き)をしていたサンローランが後継者となるが、3年後に罷免された。

百貨店は、1954(昭和29)年に売り場面積を戦前のピークに戻し、以降、消費需要の順調な延びに支えられ、売場面積、売上高、従業員数などを急速に拡大させた。

この時期の百貨店の展開に脅威を覚えた一般の小売店は、昭和初期と同じような反百貨店運動を起こし、新たな『百貨店法』(第二次百貨店法)を施行させるにいたる(1956年)。もっとも、この法律がめざしていたのは一般小売店の保護だけではなく、百貨店の既存勢力寡占的状態を守ることでもあった。しかしながら、法律の裂け目として、大型スーパーの擬似百貨店化が進行し、百貨店・小売店双方の発展のインセンティブを削いだことは確実である。






戦後転換期とアパレル業界

『経済白書』で「もはや戦後ではない」といわれたのは、1956(昭和31)年。この頃、アメリカでワンダラー・ブラウス紛争とよばれる事態が起こっている。1着1ドルの日本製ブラウスが売り出され、アメリカの婦人層に人気を得たのである。安く着捨ててもいいというのが人気の原因だったが、現地の労働組合がダンピングだと反発、日本側は家庭内職で作ったために定価なのだと反論した。反論の論点がずれていることはさておき、当時の日本は家庭内職による衣服製造も大きなウェイトを占めていたことがうかがえる。

綿紡だけでなく化繊までも頭打ちとなっていた繊維業界では、昭和30年代に入ると、合成繊維の量産に向けて戦略が練られはじめていた。戦前には細々とではあるが既に実験段階へ入っていた合成繊維は、1050年~51年にかけて、政府主導のもとで、ビニロンは倉敷レイヨン、ナイロンは東洋レーヨンが先発企業として指定され、工業化を確立しはじめた。のちに、ビニロンでは大日本紡績、ナイロンでは日本レイヨンが政府の合繊育成企業に加算される。また、塩化ビニリデンも政府助成のもとで、旭化成、呉羽化学によって工業化され、いずれの合繊も、昭和30年前後には本格的な発展段階へと突入した。ナイロン、ビニロンなどの分野はこのように政府容認の独占状態にあったため、紡績・化繊の大手は、こぞってアクリル部門へ進出した。1957(昭和32)年の鐘淵科学(カネカロン)、翌年の旭化成(カシミロン)、東洋紡績(エクスラン)、さらに翌年の三菱レイヨン(ボンネル)、また翌年の東邦レーヨン(ベスロン)と、五社が軒並み進出し、ここにアクリルラッシュとよばれる事態が生じたのである。また、アクリルと前後して、東レと帝人両社によって工業化されたのが、ポリエステル(テト ロン)である。58年3月ごろからは、東レと帝人がテトロンの量産を開始した。これは市販開始と同時に、ホンコンシャツに代表される綿混シャツ地など、衣料品分野で急成長した。

また百貨店では、この時期になると、鉄道資本による百貨店が新たに数店開設されている。名鉄百貨店(1954年)、阪神百貨店(1957年)、東武百貨店(1960年)、小田急百貨店・京王百貨店(1961年)などである。これらは、戦前の西武百貨店や阪急百貨店と同じように、自社線の駅ビルや駅周辺にターミナル・デパートを設置し、売上を伸ばした。また、関西の百貨店は、関東進出をターミナル・デパート形式で行っている。たとえば阪急は、大井町(1953年)・数奇屋橋(1956年)、大丸は東京八重洲口(1954年)、そごうは有楽町(1957年)、高島屋は横浜(別会社扱い。1957年)といった具合である。関東の伝統的(呉服店系)百貨店は昭和30年代後半にターミナル化を採用しはじめる。また、大手の電鉄系百貨店が自社路線周辺にスーパーを展開するのも、この時期である。

1959(昭和34)年はファッション界に華やかな場面が多くみられた。7月、ファッション・モデルの児島明子がミス・ユニバースで1位となった。また、百貨店の動向では、4月に西武百貨店がプレタ・ポルテ(既製服)の研究者ルイ・フェロー(仏)を招いたり、10月には各百貨店が独自の流行色を発表し始めたりしている。

当時の婦人服製造卸のマーケットは、百貨店、月販店、専門店、地方衣料店の順となっていた。なかでも百貨店の支配力が圧倒的に強く、呉服・服地等の繊維品に比して、婦人服は取引上の位置や商品の各付けが低かった。また委託販売の慣行がいまだに根強かったこともあって、正式受注であるにも関わらず、売れなければ百貨店から返品されることもあったようだ。このように百貨店は婦人服の販売において支配的な立場にあり、既製服納入業者を統括する側面が強かった。さらに、業者は、派遣店員の要求、宣伝費等の経費負担、消費者サービスのためのサイズ修正作業等の協力を百貨店から求められたが、これらの協力が、逆に、消費者との間接的な接点を作り出し、消費者ノウハウを知るメリットが一方で存在したもの確かである。

「東京婦人子供服同業会」は1956(昭和31)年10月、解散と同時に、協同組合である「東京婦人子供服製造卸協同組合」と改組した。1960年には、反安保闘争などの世相を反映して、黒が流行色となった。

百貨店の動向では、小売業に占める販売シェアが、1960年に約10%を占めるようになっている。






キャンペーンと消費者の意識革命

ディオールの没後、パリでは、オート・クチュールがプレタ・ポルテに手を広げはじめていた。

日本では、この時期は、既製服(レディ・メイド)と注文服(カスタム・メイド)との技術的な差がいまだ顕著であり、高度成長期を背景とした消費水準・生活水準の上昇ともあいまって、ファッション意識は高級化・個性化の追求が活発化した面は、強調しておくべきだろう。

この時期、合成繊維が出揃い、東レ、帝人を中心に大手合繊メーカーが主導権を握り、流行演出のキャンペーンが精力的に行われるようになる。百貨店も海外デザイナーとの契約をさらに活発にし、合繊メーカーの台頭にタイアップさせて、大々的にキャンペーンを繰り広げた。その結果、消費者の意識革命、すなわち既製服時代の到来を呼ぶことになる。この頃の合繊資本のつくりだした流行には、「ホンコン・シャツ」(帝人)、「セミスリーブ・シャツ」(東レ)などが挙げられる。また、合繊の量産可能によって、シームレスストッキングなども登場した。

また、パリ発の「プレタ・ポルテ」が60年代初頭に紹介されはじめると、既製服のイメージが払拭され、高級でファッション性の高いものだという認識が消費者に植えついていった。

クチュリエなどの有名デザイナーだけでなく、メーカーもが流行を作り出したということが、この時期の大切な現象である。

婦人子供服製造卸業者の間にも新たな動向がみられた。戦後に独立した者や新しく始めた者が地番を着実に固めつつあった。商品の魅力や充実した企画をウリに、自分たちの姿勢に共感した専門店に対して新たな販路を求めたり、取引関係を深めたりしながら、マーケットを開拓していったのである。






スーパーマーケットと専門店の台頭

1962(昭和37)年3月、東レ・西武百貨店・資生堂が「シャーベット・トーン」とよばれる共同広告(コンビナート・キャンペーン)を行った。この年、既製服の需要はイージー・オーダーを上回って、需要比率を6対4と逆転させた。レジャー・ウェアー、タウン・ウェアー、カントリーウェアーなどの人気も高まった。

業界では、流通部門がファッション界に影響を与えはじめ、原糸メーカー、商社、産地、織物問屋、二次製品問屋、小売段階などの系列化が進んだ(背景に、企業力、信用などの要素が大きい)。また、スーパーマーケットの進出が目立ちはじめ、流通革命論や問屋無用論が出てくる。スーパーマーケットは、大量仕入れによるコストダウンを謳い、衣料品にもマス・プロ、マス・セールス商品が生まれた。しかし、売れ行きは今一つにとどまり、依然として専門店がおしゃれな女性をターゲットに、格調、オリジナリティー、都会性を提供していた。また、この時期の専門店の隆盛・個性化は、マーケット開拓に積極的な新興メーカーが専門店マーケットへ進出を図ったことにも起因している。たとえば、鈴屋や三愛などのヤング層へのアピールである。

この時期のキャンペーンをみてみよう。1963(昭和38)年1月、三愛ドリームセンターが開店。1月22日には、東レがこの年のテーマ「フルーツ・カラー」ファッションを発表し、翌日23日には、今度は帝人が「フラワー・モード」ショーを開催。レジャー・ブームの延長のなか、レジャーが積極化・大型化・高級化しはじめており、6月には東レの「バカンス・ルック」キャンペーンが行われるなど、この年のファッション・モードは、新興メーカーや合繊メーカーの強さ・引導が目立つ。

東京オリンピックを控えた1964(昭和39)年は、「TOKYO」の文字が百貨店や合繊メーカーのキャンペーンへ頻繁に登場するようになるが、これは成功したとはいえない。

衣服の流行では、前年から流行りはじめたアイビー・ルックがなお隆盛で、アイビー族とよばれる、三つボタンの上着、細身のズボン、ボタンダウンのシャツを揃えた若者が目立った。このアイビー・ルック、国内ではVAN、JUNなどのメンズウェア・メーカーが発売していた。また、この年からは、ニット・ウェアも流行しはじめている。

この年の4月からは、海外旅行が自由化され、既製服メーカの人たちもこぞって海外へ出かけることができるようになった。欧米のファッションへ直接触れる機会が広がったのである。

百貨店にも新たな動きが生じた。大手百貨店は自社ブランドによるオリジナル商品(PB:プライベート・ブランド)の販売を開始。三越のレオドール・ポーラック、高島屋のハイランド、大丸のトロージャン、伊勢丹のマジソンなどが有名である。これらのプライベート・ブランドの開発は、海外メーカーのデザインとの提携、メーカとのデザイン協力などによっている。






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