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(3)昭和戦後期:国民服からの脱皮

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クリスチャン・ディオールの登場

1947(昭和22)年10月に、商工省(後通産省)の「衣料配給規則」、「衣料品切符規則」により、終戦直後途絶えていた衣料切符制が復活され、既製衣料品業者や小売業者が衣料品の配給業務に携わった。物資不足がひどかったため、戦中に用いていた、防空用の暗幕や風船爆弾用の素材、さらにはオイルシルクで、レインコートや子供用のマントを製造・販売する業者も出てきた。もっとも、このように知恵を絞っても製造できる数量はせいぜい1000着程度だったといわれる(三陽商会が顕著な例)。クリスチャン・ディオールが「ニュー・ルック」を呈してパリのモード界にデビューしたのが1947年だという点、かなり状況が違う。

1948(昭和23)年には、モンペから脱皮する女性も増えはじめ、さらにアメリカの社会事業団体、宗教団体、労働団体などから送られてきた「ララ物資」、「ケア物資」のなかに、中古の衣服や靴なども含まれていたことから、これまでのように、活動性にこだわった洋装ではなく、ファッションとしての洋服が馴染まれる状況が、ようやくやって来たのである。1949年頃には、ディオールに端を発するロング・スカートの女性が目立つようになったが、新しい生地を用いたものではなく、和服を解いて作ったり、ショート・スカートにフリルをつけるなどした更生服がほとんどだった。また、同年には繊維製品の統制が解除され、翌1950年6月には衣料切符制が撤廃された。

戦後の繊維業界は、化学繊維の復活にはじまった。とくに生産の自由化が容認されて以来、朝鮮戦争の特需、綿紡績における構造的な供給過剰などともあいまって、二度目の化繊ラッシュを迎える。しかしながら、1957(昭和32)年以降、化繊も設備過剰に陥り、低収益が常態化することとなった。






繊維製品の自由販売化と職業モデルの登場

かなり痛々しいまでのディオール受容にみられる、終戦後の日本のファッション状況だが、1950年代には、産業界の景気回復とともに、晴れやかな面が広がってくる。

1949(昭和24)年6月に公布された「中小企業等協同組合法」にもとづき、大阪では「大阪婦人子供服同業会」が発足し、東京では、翌50年に「東京婦人子供服同業会」が設立された。1950年(昭和25)年に商品の生産・流通の完全な自由化が実現し、1951年には全繊維製品が自由販売になった。そこで、デュポン社と技術提携した東レがナイロンの生産を開始し、ここに合成繊維の時代が幕を開けることとなった。翌年にはナイロン・ブラウスが流行した。また、同年、ニューヨークの織物研究家ティナ・リーサによる「デザイン賞」発表のモデル公募が国内で行われ、伊藤絹子ら35名が採用された。職業としてのモデルがはじめて国内でも登場したことになる(ちなみに給料は1万5000円)。

1952年には、エバグレーズ加工による服地で作られたブラウスが登場し、かなりのブームになった。このブラウスに、若尾文子や岸恵子のブロマイドをつけ「シネマ・ドレス」として売った東京スタイルや、大阪でブラウスを販売した糸金商店(現イトキン)が、非常な売れ行きを示したようである。

岸恵子が、52年4月に始まったNHKのラジオ・ドラマ『君の名は』の映画版で真知子役をつとめたため、ショールを頭から首に巻いたスタイル(真知子巻き)が流行した。これが日本のシネ・モードの第一号である。

53年には、アメリカのロングビーチで催されたミス・ユニバース・コンテストにて、伊藤絹子が三位に入選している。このことは、国内の女性美評価を顔からプロポーションへとずらす意義をもった。

「チューリップ・ライン」を発表したディオールの専属モデルたちが53年2月に来日し、ファッションショーを開いたが、1枚1000円の入場券があっと言う間に売り切れた。ディオールの影響は確実に現れており、これ以降、日本のファッション界はディオールを中心にパリ・モード界に傾注してゆく。日本流行色協会、国際羊毛事務局が設立されたのも、この年である。






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