(2)大正~昭和戦中期:洋服大衆化の兆し
輸入服と国産品
明治末期には、毛織物輸入は、それまで外国商館に頼っていたパターンから、三井物産、高島屋飯田、岩井商店、富斎商店、米井商店などが海外毛織物業者と直接取引きする形へと変化していった。しかし、1914(大正3年)に第一次世界大戦が勃発し、ドイツから輸入していた大衆向け毛織物の輸入がストップし(この大戦でドイツは日本の対戦国)、イギリスも毛織物の輸出数量を絞ることになる。やむなく国内の既製服業者は国産の毛織物を使用することになるが、当時の国産毛織物の品質はイギリスやドイツのものに比べて格段に低く、軍需品・制服に活用できる程度だった。
明治10年代には百貨店化をはじめていた、三井越後屋(現三越)、飯田屋(現高島屋)、下村屋(現大丸)などの呉服店は、1900年前後を境に、近代的な販売方法・建築様式を取り入れるようになる。もっとも、いまだに「呉服店」という名前を冠していたり、下足預かりを採用していたりと、顧客層が現在ほど広かったわけではないが、販売では、品揃えの拡大、座売りから陳列式への変化、出張販売・通信販売の採用などがあげられる。建築面をみると、1903(明治36)年に、三越が初のショーウィンドーを設置し、1911(明治44)年には、白木屋(現東急百貨店)が初のエレベーター設置、1914(大正3)年には三越が初のエスカレーターを設置した。1922(大正11)年には、高島屋が大阪難波に建設され(現なんば高島屋)、鉄筋コンクリート7階建ての述べ3000平方メートルを超える巨大な店舗を構えた。店内の余興場、顧客送迎用自動車の設置など、特筆すべき「初ネタ」は尽きない。
明治末期から続いた不況は1916(大正5)年から好況に転じ、第一次世界大戦の終結した1918(大正7)年には、戦場となったヨーロッパ諸国が壊滅的な状態になったため、日本は戦後好況を享受することになる。ここにおいて、羅紗の輸入が復活しはじめると同時に、国産品が奨励される気運がみえだす。綿紡績はもちろんのこと、羊毛工業も、この時期に成長しはじめた。1919(大正8)年には、「日本羊毛工業会」が発足した。国内の主要毛織物業者やモスリン製造業者などが組織している。
戦後好況のなかで、それまで贅沢品とみなされてきた洋服が普及し、既成子供服、男女の学生服、オーバー類の需要が急増する。子供既製服の将来性に注目した注文洋服店のなかには、子供既製服の製造販売、製造加工へ転向するものも出てきた。
1920(大正9)年に起こった経済恐慌により、戦後好況は幕を閉じ、繊維相場が大暴落し、全国集散地の糸商や洋反問屋の倒産が目立つようになった。このような経済動向や繊維産業の状況を背景にして、羅紗に関わる同業者間の結束が固められ、「日本羅紗商協会」が結成される。組織団体は、京浜羅紗商同盟会、関西羅紗商協会、大阪羅紗商信睦会、教徒羅紗同盟会、神戸羅紗商組合、名古屋羅紗商同盟会である。「日本羊毛工業会」は、毛織物業者の保護を目的とした毛織物輸入関税引き上げを政府に嘆願したことから、「日本羅紗商協会」と当工業会との関係が悪化した。
子供服と婦人服
1922(大正11)年9月に、東京市内の同業者50名と、賛助者10名によって「東京子供洋服商組合」が結成。当組合では、毎月25日に会員が集まり、婦人子供服生地や材料などの競売を行い、最高値でセリ落とした者は、45日の延勘定で組合に払い込むことになっていた。のちに、当組合は「東京婦人子供服商組合」と名称を変更した(1924年1月)。関東大震災が起こったのは、1923年だが、この時期には女性向けの職業が広がっていたこともあり、震災の活動性に注目された婦人服は、子供服同様に、需要を増加させることになった。ズロースが代表的な例である。
震災時に、百貨店では、市内各所に販売所を設け、日用雑貨を売りはじめるなど、これまでの取り扱い品目を大幅に拡大させることとなった。また、これにより一般消費者の支持を強く受けるようになったこともあり、大衆化路線へと歩み出す。1925(大正14)年の「いとう呉服店から松坂屋への改名を嚆矢として、各百貨店の名前から呉服店の用語が消える。また、下足預かり制も見直された。
昭和になると、金融恐慌(1927年)、世界恐慌(1929年)など、経済的な混乱・不況が立て続けに起こった。この状況下で、和装派の婦人層にも洋装が目立つようになった。アッパッパと呼ばれる簡単な服が顕著な例である。主に夏向けのこの服は、洋服のもつ活動性だけではなく、簡単に製作できるという点も注目されたのだった。
この時期の洋服の大衆化は、象徴的な形で一層進行する。1927(昭和2)年に日本橋三越で行われた国内初のファッション・ショー、和装者の逃げ遅れが目だった白木屋(現東急日本橋店)の火災、の二点である。火災後に洋装を制服にする百貨店が増加した。
この時期、大都市で新興中産階級が生成・発展したことを背景に、百貨店の大衆化路線はさらに拡大した。たとえば、三越は、1929(昭和4)年から33年にかけ立て続けに、銀座、金沢、高松、札幌、仙台といった順に新たな支店を開店している。これらの店は食品・日用雑貨部門を強化している点が目新しかった。また、不況、大恐慌の影響によって、消費者の低価格志向が強まり、当時アメリカで全盛だった低価格販売が売り物のチェーン・ストア経営が導入される動向もあった。これについては、高島屋が有名で、百貨店に高級なイメージをもたせる一方で、1931(昭和6)年に、東京・京都・大阪を中心に「10銭ストア」「20銭ストア」などのチェーン・ストアを最盛期に100店舗まで展開した。
またこの時期は、新興の中産階級をターゲットにした電鉄系の百貨店が新興してきた点も見逃せない。これらの百貨店は郊外都市の建設に足並みを揃えて、ターミナル・デパートをつくることによって、サラリーマン階層を顧客に引き込み、日用雑貨中心で価格が中程度の商品を数多く販売した。東横(現東急)、西武、阪急などである。こうした百貨店の大衆化・高級化の両戦略は、昭和恐慌以降の経済・政治動乱を背景にした経済統制のもとで、営業の許可制を強いた『百貨店法』(1937、昭和12年)の制定によって、一旦、中断を余儀なくされた。
これまで綿糸・綿布製造が繊維業界では、レーヨン糸、レーヨン・ステープルなどの新分野(化学繊維、化繊)の新たな開拓がなされた。国内のレーヨン糸製造は、1915(大正7)年、鈴木商店の資金投下によって、東工業米沢製造所(帝人の前身)によって初めて工業化された。これを機に新興のレーヨン会社が設立されたものの、大戦恐慌期には帝人、旭絹織、三重人絹の三社をのぞく大半が破綻した。しかし、大正末期から昭和初期にかけて、商社・紡績会社が不況克服、経営多角化の一環として相次いでレーヨン工業へ資本投下を行う。三井物産による東洋レーヨン(現東レ)の設立、大日本紡績による日本レーヨン、倉敷紡績による倉敷絹織の設立や、東洋紡績、日本毛織などのレーヨン部門進出など、ラッシュが続いた(人絹ラッシュとよばれる)。レーヨン糸製造は1937(昭和12)年に世界一となる。
また、レーヨン・ステープル(通称スフ)の製造開始は、1931(昭和6)年の帝人米沢製造所にみる。国際政治的にも経済状況的にも繊維の自給化が必至であった日本にとって、輸入に頼っていた綿花・羊毛の代替素材が必要とされており、国産パルプを原料とした繊維が製造された。これがレーヨン・ステープルである。ついで2年後の33年、日東紡績が本格的な工業化に乗り出し、レーヨン部門へ進出していた紡績各社も追随し、この分野にも参入することとなった。しかしながら、1937年以降、工業の軍需化を背景に、重化学工業化が促進されたため、レーヨン、スフともに縮小の過程を余儀なくされた。
この時期の組合の動向では、1934(昭和9)年の「商業組合法」により、卸商団体が「東京婦人子供服製造卸商業組合」へ、小売商団体が「東京婦人子供服小売商業組合」となった。大阪の婦人服・子供服については、1929(昭和4)年に約20名の業者によって「大阪子供服同盟会」が設立、1939年「大阪府人子供既製服製造工業組合」へと改名した。
国民服と衣料切符制
1938年(昭和13)年に公布された「国家総動員法」によって、国内にも戦時体制のベクトルが強く働きはじめ、戦時下の衣服改良策が展開される。翌年には国民服が登場し、これによって礼服の着用が免除されることになる。これは軍服に似た詰襟だった。また、女性は和服にモンペ姿、元禄袖や筒袖が奨められた。1940(昭和15)年には、2月に「繊維品配給統制規制」、同年11月には勅令で「大日本帝国国民服令」が公布された。この時点で、国民の服装は国民服一色となった。翌年には「繊維品配給機構整備要綱」が交付され、衣料品の生産から流通までを網羅した統制機構が成立し、関連企業は四つの統制会社に統合され、既製品は「中央製造配給統制株式会社」の傘下となった。この時期に配合・転向した個人商店レベルの小売店、仕立店は数多いとみられる。この会社は代行会社によって実務を担われ、既製服部門では、1440の構成員(製造卸など)が106の代行会社に集約されている。さらに翌年、1942年2月からは衣料切符制が実施され、都市居住者には年間100点、郡部居住者には年間80点の点数切符が支給された。衣料品の購入はこの点数内にとどめられることになったのである。
主な衣料点数は、以下のとおりである。
背広50、男物オーバー50、袷着物40、学生用オーバー40、女物オーバー40、毛布40、パジャマ40、レインコート30、ツーピース27、単衣24、袴24、敷布団24、セーター20、スカート12、ブラウス8、ズロース4、タオル・手拭3、靴下2、エプロン2
また、大衆化路線による規模拡大を目指していた百貨店に反発していた小売店を保護する目的で公布された『百貨店法』は、そもそもの百貨店の営業事態が悪化していたこともあり、小売店の保護・育成を実現することはなかった。戦前・戦中の百貨店の業況は、1941(昭和16)年を境に、以下下降しはじめている。終戦直後も百貨店の状態は厳しく、進駐軍によって全国の売場面積の3割が接収され、消費物資の統制やヤミ市の横行などが続いた。
