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(1)明治期:既製服の誕生(洋服の端緒)

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緑河岸(東京)と谷町(大阪)

1858年の日米修好通商条約により、横浜・神戸・函館などが開港され、開港場では役人層を中心に洋装化が広まり、洋服製作も盛んになった。のちに洋服製作は横浜から東京、神戸から大阪へと中心を移す。この頃の洋服製作は、外国人から買った中古服を修理・改造することが多く、舶来物の羅紗地の仕立ては稀であった。

1868(明治元年)頃には、大阪の谷町周辺に「舶来物仕立処」が一五軒ほどあったといわれる。これらの業者は、内戦のたびに「団袋」と呼ばれる軍服を作っていた。明治維新以降、貪欲に西洋文明を採り入れ出したわが国で画期的なことと言えば、「・・・朕今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ・・・」という、1871(明治4)年9月に発せられた明治天皇の詔勅であろう。天皇はこの前年、自らの洋服を日本橋本石町の山城屋和助に調達を命じ、また、陸海軍軍服、官吏の制服などを決めている。翌1872年11月には、ヨーロッパの王室と足並みを揃えた洋装を礼装とした。

1877(明治10)年の西南の役は、東京、大阪などの洋服製造業者に軍服の発注における特需をもたらした。なかでも大阪・谷町周辺の業者は、大阪造幣局役人の制服、大阪鎮台の軍服、警察官の制服、鉄道員の制服など、すでに大量の洋服生産を行い、洋服製造専門業者としての基盤を固めつつあった。そこへ官軍被服の調達という特需が舞い込み、一時は業者が150軒にまでなり、扱い高も55万円という空前の活況を呈したそうだ。

西南戦役後、古軍服が大量に払い下げられ、その払下げを受ける業者が、東京は東京鎮台前の麹町半蔵門、九段坂下などに集まり、後に柳原土手、旧神田区東龍閑町(現在の岩本町の一部)に移った。大阪では大阪鏡台のあった大阪城門前の谷町に、これらの「払下げ屋」と中古服の卸・小売が集中した。

払下げ産(分取屋)は、払下げ品(軍服だけではなく、軍靴その他の軍需品もあった)を市中の古着産へ卸したが、なかには使えるものだけを選んで買い取り、修理・改造して売る業者も存在した。この修理・改造を専業とする業者を、大阪では「出物屋」(でものや)という。これらの業者が次第に材料を羅紗新反に変えて、既製服専業へと移行するのである。

東京では1881(明治15)年に岩村吉兵衛が「羅紗既製服製造販売」の看板を掲げ、神田柳町に店舗を構えた。つづいて万世橋から浅草橋の間にかけて、島村孫七、塚原元兵衛、三山万助、島田利右衛門らが卸・小売を開業した。なかでも島田は日本橋区緑河岸(現在の小伝馬町から馬喰町の間)に店舗を移し、製造卸の専業に踏み切った。東京で初めて作られた羅紗既製品はトンビ、ズボンなどで、これらは緑河岸にあった古着市場で古着とともに取引された。

また、横浜を本拠としていた軍服の裁縫師・中尾寅吉は、明治14年に婦人服専門に転向、16年には東京の飯島民次郎が築地で婦人服店を開業した。当時、彼らは「女唐服屋」(めとうふくや)と呼ばれたが、庶民には縁がなく、顧客は主に皇室、華族、居留外国婦人などのほか、金持の婦女子だったそうだ。このころから裁縫師の独立気運が見え、弟子を養成して自分の技術を伝える風潮が現れ始めている。

一方、大阪では払下げ屋が急成長した。宇佐見辰次郎は1887(明治20)年に古服商を開業、1894(明治27)年に谷町二丁目へ移って払下げ屋となり、軍服、軍靴、毛布、ポロなど、あらゆる古物を地方へ販売し、飛躍的に成長し、のちにアツシ (厚地木綿の労働着)、マント、モジリなどを製造販売した。谷町三丁目の福井弥助も宇佐見と相前後して払下げ屋として名をあげ、のちに各官庁調達請負となった。また、森居保次郎は、1891(明治24)年に谷町三丁目で開業、当初、軍服の修理品などを店頭につるしていたが、やがてモジリ、アツシ、婦人コート、トンビなどの縫製加工を始め、これらの製品を改良して、品種別に量産した製品を仕入れ、地方へ売りさばくことをした。この仕事は彼が初めて行ったもので、森居が谷町既製服の草分けといわれる所以である。

東京で初めて羅紗既製品が作られたのは、明治14年以降18年までの間、大阪では20年であったと伝えられている。






組合結成と古服からの脱皮

洋服の普及によって業者の存在が社会的に位置づけられてくると、業界の基礎固めのために組合結成の動きが見られ始める。

1886(明治19)年7月、大阪で組合結成を促す府令が出され、業者側も有志が協議して翌年5月、「洋服商工業組合」の設立認可を申請、8月に結成をみている。これが洋服業界における、わが国初の公的団体といわれる。組合規約の第一条には、「我組合ハ洋服販売及ヒ裁縫スル者ニシテ之レヲ洋服商工業組合卜名称ス」とあり、販売業者だけでなく、裁縫職人まで加えた団体であったことがわかる。

一方、東京でも1884(明治17)年に「共同会」という組合が結成されている。これは、輸入生地を扱う羅紗問屋や、輸入元である外国商館と羅紗問屋の中間に介在する引取商、および注文服を主体とする洋服商による組合で、当時、明治政府の産業実態調査の必要から生まれたものである。

しかし、加入業者独自の活動も見られ、縫製品、羅紗、綿布などを持ち寄って「交換会」も開かれている。この交換会では、羅紗問屋にとって有利な商売ができたため、次第に参加同業者が増え、ついには、中心勢力が羅紗問屋側に移ったため、羅紗問屋が縫製業者をバックアップする形になり、素材専門業者と縫製業者の分離独立を促す要因になったとみられている。また、この共同会から分かれた羅紗問屋が「商栄会」を結成し、年二回(春、秋)、交換会、競売会を行った。

当時、羅紗はすべて輸入品であったが、1879(明治12)年に、大久保利通の発案で軍服用の毛織物を生産する官営の「千住製絨所」が作られ、その後、大倉組が「東京製絨会社」を、また小規模ではあったが後藤恕作の製絨所も作られた。ところが、これら国産品はどれも製品レベルが低く、衣料品素材に使えるものは少なく、わずかに後藤の製品が認められたにすぎなかった。この後藤の製品を共同仕入れする目的であった「五名社」が、先の商栄会の母体である。

1889(明治22)年には、東京・横浜の羅紗引取商、問屋、切売り、既製品業者による「京浜羅紗商同盟会」が結成され、羅紗を独占供給していた外国商館の横暴(消費者への直売、競売、建値を無視したドル為替相場による代金決済)に対して抗議行動を行っている。

羅紗をはじめ繊維製品の取扱業者が力をつけてくるにつれ、当然、既製服業者も成長していつた。なかには直営工場を持っものもいたと伝えられるが、多くは下請に発注するものだった。また、小売店の数も増え、洋服を天井近くに渡した竹ざおにつるして陳列していたので、およそ明治20年以降から、客がこの様子を「つるし」、「ぶらさがり」などと呼ぶようになった。この蔑称が既製服の代名詞になり、以後、大正、昭和(戦前ぐらいまで)と長い間、人の口にのぽったようだ。当時、「つるし=既製品」は安物であり、粗悪品と見られていたが、生地が悪く、縫製も雑であったから、これは無理からぬことでもあった。

幕末から打ち続いた内戦による軍需で身を起こし、以後、軍需品の払下げによって営業を始めた業者にとって、また、1894、95(明治27、28)年の日清戦争がその基盤を強固なものにした。1902(明治35)年には、既製服業者の最初の任意団体である「共立会」が大阪・谷町で結成されている。

日清・日露の両戦役後も払下げ屋の活躍はあったが、1906(明治39)年以降は、払下げ品はまったく売れなくなり、その結果、払下げ屋の過半数が製造卸、製造直売業者へと変わっていった。これで古服の時代が終わり、実質的に既製服時代へ入ることになる。







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