文化史からみたミシン─トップ・ブランドは品質がトップか?
和服にもミシン縫いが行なわれているという仮定が当を得ているとしても、一点一点のどこが手縫い部分であり、どこがミシン部分であるかという点は解明が難しいと思われる。
ミシン導入後の時期を扱う日本衣服史では、導入前にも存在した「裁縫」や「仕立」という業種を述べる傾向が強く、ミシン縫いが行なわれている形跡を確認することが難しい。また、中国衣服史でも、清朝期中国の洋服導入において、生産機械、すなわちミシンを利用した点に触れたものは確認できていないが、日本の和服と同様、従来の衣料にもミシンが利用されたことは推測可能である(もっとも、この点は本稿では先行研究を踏まえているわけではない。ただし、清朝期には平面裁断を基本とした旗袍(チーパオ)の場合、1911年の辛亥革命前後にツーピースからワンピースへと形態が変化したと同時に、立体裁断・立体縫製に適合する形態変化を遂げた(冷芸『裁缝的故事 –从小裁缝到大师』109ページ)。その後、遅くとも1920年には、民国政府によって女性の礼服として旗袍が規定された(汤献斌編著『立体与平面 – 中西服飾文化比較27ページ)。「西服」だけに留まらず、旗袍事態が形態変化を遂げ、礼服として規定されるに至った20世紀初頭の状況を踏まえれば、その着用者が如実に増加した点は容易に推測できよう。)。
この点については、パリのオート・クチュールにおいても似たような研究状況である。塚田朋子は、高級注文服と訳されるオート・クチュール業界は、手縫いの印象を与えながらも、その半面でミシンを利用しているはずだと指摘しながら、その実態把握については史料制約上困難であるとの理由で限界を訴えている(「本物のファッション・リーダーへの‘羨望’がある限り、既製服では‘ない’ように見せる努力は止むことがない(実際今日も続く)。ミシンが登場しているのにスーツは伝統的な手縫いに見えるよう縫製され、合成繊維が発明されても、天然繊維に見えるよう用いられ、縫いつけられていて時差史には開かない、既製のスーツの袖口(切羽:sham opening)の見せかけのボタンは今日も消えない」(塚田朋子『ファッション・ブランドの起源-ポワレとシャネルとマーケティング』雄山閣、2005年、309ページ))。
アメリカ合衆国ミシン産業の前史として、最初の実働ミシンの登場はフランスであると捉えられることが多い。フランス、サンテティエンヌ(Saint-Étienne)のバルテルミー・ティモニエによる1830年のミシン開発である。当時のフランスでは、熟練度や需要・報酬の高さが魅力とされた職業は仕立業(tailor)であった。1825年、ティモニエは自分の仕立屋を開店させ、1829年にはミシンが開発されたの(特許取得は翌30年)。この開発には、国立高等鉱業学校サンテティエンヌ校の教師M.フェラントがパトロンとして控えていた。他人による財政的支援と自身の開発が噛み合った事例はシンガー創業者のアイザック・メリット・シンガーにも当てはまるが、フランス軍隊のお抱え仕立業者となったティモニエは、41年に旧来の仕立業者たちによって商店が破壊されるという事態を経験する。手工的熟練と機械工的熟練との確執がフランスとアメリカでは反対の結果になった点が、ミシン導入によるその後の服飾史的展開の違いに影響を与えていることは重要であり、今後の課題として検討していきたい(以上、ティモニエの略伝については以下を参照した。Don Bissell, “The First Conglomerate: 145 Years of the Singer Sewing Machine Company”, Audenreed Press, 1999, p50-52.)。
なお、シンガー社第4代社長フレデリック・ボーンがティモニエの開発したミシンを「実働的ではない」と指摘したといわれるが(Don Bissell, “The First Conglomerate”, p. 52.)、いずれの事態が正確かの判断は本稿の対象外であるので省き、小原の研究を踏襲して理解した。
1911年に成立したオート・クチュール組合の参加デザイナーたちが、採寸後の仮縫いから立体裁断を経て本縫いへ向かう工程において「手」を利用したという印象を付与する意図が存在したに違いない。なぜなら、ガブリエル・シャネルやクリスチャン・ディオールといったトップ・ブランドの創始者たちが仮に手縫いを実践していたとしても、その後の後継者たちは既にデザインの立案と実際の縫製段階が工程分離した後の世代であり、「デザイナー」として評価を与えられることがあっても、決して縫製工として評価が与えられている訳ではないからである。モード業界においては、ミシン縫いの利用を隠し、手縫いの印象を付与することによってブランド販売力を維持しているのではないかという疑念が生じる(仁野覚『フランスファッションの光と影』(繊研新聞社、2000年)によると、1860年代のパリでは337台のミシンが活用され既製服産業が成立したが、それをテコにして、後のオートクチュールに繋がるモード産業が、シャルル・フレデリック・ウォルトに代表される旧来の(手縫い的)仕立業者を駆り立てたとされている。フランス服飾史にミシンを導入した貴重な研究ではあるが、モード産業の方には手縫い・ミシン縫いの記述が一切ない点は、本文で記した疑問が残る。)。
そもそも、衣服史研究において頻繁に利用されているテーラーや仕立という職業用語には注意が必要である。テーラーは、19~20世紀衣服史の花形職業として描かれる側面があるが、モード業界について触れられることの多い国、フランス衣服史においてすら、生産体制にまで丁寧に確認した研究は少ない。20世紀に、製造工程とデザイン工程の分化によって後者が高く評価されるようになり、「高級」と形容される仕立業者たちは、自らの職業的立場が好印象を得られるために、製造部門で利用している方法・機械を公開しないのが常套手段となっている(仁野覚『フランスファッションの光と影』(繊研新聞社、2000年)では、19世紀フランスにおけるミシン普及と既製服成立を同時並行的な事態として理解しているが、後のパリ・オートクチュール組合を形成していくような手工業者たちをミシン普及と対立的に捉えている点は説得性に欠ける。フランスを中心にしたモード業界の文脈では、とりわけミシン普及に抗した手工業者たちの態度を強調する研究が多いが、「手で縫っていた」という一言は必ず叙述されない。塚田朋子は、自著『ファッション・ブランドの起源-ポワレとシャネルとマーケティング』(雄山閣、2005年)で、その点に注意を促しているが、資料的制約という限界を簡単に認めてしまっており、手工業者たち自身が製造工程を切り離し、フランス政府の庇護の元に、自らはデザイナーとしてトップ・ブランドを築き上げていった20世紀フランス・モード史は、製造業者の存在が消去された歴史であったともいえる。)。
