隠すことと見せること
ファッションの基本が、誰のためであろうと「可愛く見せる」「奇麗に見せる」という本人の気持ちに基づいているのは言うまでもないが、この見せるという気持ちは、どういう意味なのだろう?
私たちが服を着るとき、まず気になるのはスタイルや色合いだ。今日は引き締まったラインにしようとか、天気が優れないので地味にしていこうとか、友達とカラオケだからラフなものにしようとか・・・。
でも、どんな予定が入っていても、そしてどんなファッションをしても、その時の気持ちに必ず当てはまるのが、よく言われるようによく見せたいという点である。わざわざ他人の評価を下げることを私たちはしようとしない。
だが、よく見せたいという気持ちは、実は、もう一つ奥深い気持ちに根づいている。それは、ズバリ、隠したいという気持ちである。これは無意識といってもいい。
隠したいという気持ちは、ファッションが「表現する」と同時に「隠す」という行為を伴う二面的なもので、対立するものが両立する、不思議な文化現象の一つだといえる。当然だが服を着た場合、服の部分には身体が隠れている。逆に、これも当然ながら、服を脱げば、脱いだところには生身の皮膚がみえる。
このようなファッションの典型例が、シースルーとよばれるものだろう。皮膚の色が変わったとでもいうくらい、服からはほど遠いようなシースルーは、見えるようで見えない、見えてないようで見える、という背反的なものが両立している。身体のほとんどを見せるようで、肝心なところは隠してあるという二面性に面食らう男性は多いだろう。シースルーの女性がどこか戦略的に思えるのは、この二面性による、つまり、最初は「見える」という錯覚、次に「なんだ、見えない」という落胆を男性に誘発させるからだ。
この二面性は、特にファッションが性と接触する大切なポイントである。肝心なところを見ることができるのは、その女性が選んだ男性だけに与えられた特権だからだ。
このような二面性を前にした一般の男性からすれば、シースルー、もっといえばファッション全般は、肝心なところを見ることのできるかどうかに関わる競争といっていい。つまり、男性は競争するつもりが無くても、既に競争に組み込まれているというのが、女性のシースルーに代表されるファッション戦略だといえるのではないだろうか。見えそうで見えない、厳密にいえば、途中まで見せて途中からは見せない二面性は、19世紀に首から下を全て隠すファッションが主流だったヨーロッパの伝統より後の時代の話になるが、女性が男性に餌を与え、選ばれた男性が女性に奉仕するという、動物的な本能も垣間見える、歴史的であると同時に自然でもある、二面的な文化現象だと思われる。
