モード論の諸相
このページでは、服や下着と身体との関係を探ってみましょう。服や下着は身体の一部なのでしょうか、それとも反対なのでしょうか?
はじめに~皮膚の位置づけ
1995年2月9日(木曜日)付けの朝日新聞朝刊の「文化」欄のコピーが、今私の手元にある。このコピーは、「変わる身体」シリーズの二つ目「「多感覚的」時代―皮膚で情報交換する」と題した当時のファッション論・ポルノ論の紹介となっている。
鷲田清一と山田登世子との比較して論じるに当たって、まず注目すべきは、「皮膚」の位置づけである。これには両者とも手短な文章や語句として、端的に表現している。
鷲田清一の論点について
まず、鷲田においては、その著『皮膚へ―傷つきやすさについて』(思潮社、1999)の帯に記した二つ目のサブタイトルとでもいうべきものにおいて、「触れる哲学へ」向かうものとして皮膚が位置している。しかし、彼の作品では、ファッションが第一の衣服をなしており、肉体の表面を被っている皮膚は、第二の衣服(=ファッション)と位置づけられる。次に山田であるが、彼女は、上記の新聞の文化欄のなかで、次のような言葉を述べている。「いま私たちの皮膚そのものが、表面であり、ファッションだったことに気ずかされるようになりました」(朝日新聞朝刊、1995年2月9日)
すなわち、鷲田において皮膚とは、ファッションそのものであり、身体の皮膚が第二のファッションであったのと同様に、山田のいう身体の皮膚とはファッションになったものである。しかしながら、両者の違いははっきりしている。ファッションの二重性、すなわち、皮膚とファッションとは、鷲田において、第一・第二というように、秩序だったものであったのに対し、山田が展開してみせるのは、それぞれが別々のファッションであるという点にある。『皮膚へ』の二つ目のサブタイトルは「触れる哲学へ」であった。本書は、見ることから触れることまでを念頭においたファッション論となっているのであり、だからこそ、彼には衣服が秩序だっている必要があったのである。そして、哲学はまだ皮膚に触れておらぬ。
ここで、やや詳細に二人の話を辿っていこう。
まず鷲田の構成では、コムデ・ギャルソンとかシャネル(これはアンチ・ディオールとして述べられている点が特徴的)とかへの書評ならぬ服評が一方に配置され、片方で街角女性のファッションに対する印象が対置されている。片方で川久保玲やココらによって創出されるファッションの意味を、専門のメルロ=ポンティをはじめ、ベンヤミン、バルトらを駆使して多様に展開しているが、これはファッション・ショーや展覧会という制度的なものを考察の土台にしており、他方では、街のモードを観察するという枠組になっている。
ここで勘の良い方は、鷲田の消極的なファッション論を嗅ぎつけられると思うが、実際その通りであり、街角女性へのシャネルの浸透という背景が欠落しているのが、読んでいて否応なしに分かる。つまり、鷲田は、片方でモードと呼ばれる制度化された安全なファッション展開(場所は建物の中)と、他方ではイレギュラーな「流行」と呼ばれるモードへの距離を置いた盗み見(場所は街角)という二つの展開を予め区別しているのだ。そして、紙数に裂いた量だけではなく、彼の眼差自体も制度化されたモードにアクセントがおかれているのも、目次を辿るだけで一目瞭然である。このことを証明する氏の象徴的な論点は、日活ロマン・ポルノに最も多く登場したといわれる女優宮下順子を論じた点にある。氏は宮下の、グラマラスでもなく印象深い顔でもない姿態を日本的と位置づけて、特徴の際立っていない点を女優業の長さに準えて評価している。
すなわち、鷲田は際立ったものへの拒否をつうじて、日常的なファッション、スタイルなどを強調しようとし、そして、例えばパンティ・ストッキングを例に取れば、その密着性を現代の身体性の問題と捉えることによって、さらに身体を精神の外部として捉えることによって、パンストではなく皮膚そのものを第二の衣服と逆転させたかのように論じる。そして、その身体性において、玄人と素人とが接近したかのような印象を与えてしまう。しかしながら、目標がどれほど素人のファッション観を応援するものであっても、氏の発想の土台が常に思想であり、また展覧会・ショーである以上、素人ファッションからの疎外を克服することが実現していない。いや、むしろ、玄人のファッションに氏が近しい関係にいる点が強調されるというスタンスになってしまう。鷲田氏のパンスト論は、どこまでも第一の衣服の域を出ず、その特徴は「肌理の均一性」だといいきるわけだが、ここに氏の眼差の定点を伺い知ることができる。すなわち、氏のパンスト観は、女性が穿く前のそれであって、太股・脹ら脛・つま先・踵などによって肌理の濃淡が異なるようなパンストが想定されているわけではない。このような視点において氏は素人女性を守るのだが、それは同時に、女性不在のファッション論に格下げしてしまう。だからこそ、それはモノ論になっているのだ。氏の論考において登場するのは、やはりココであり、川久保であった点を忘れてはなるまい。玄人は固有名詞で登場し、素人はファッションの傾向を表現する者としてのみ登場するという、配役の違いも象徴的である。
とすれば、玄人を熟知している一方で素人に対しては未経験という現象、すなわち、われわれが忌まわしいと思う、素人童貞の論点になってしまうのではなかろうか。あるいは、玄人を論じることで素人に自由を与え(つまり触れるだけで関わらない)、ファッションを行なう女性自身に自信を持たせる構造を備えているといえる。そこで問題になるのが、鷲田氏によって自信が与えられる女性というのは、どういうものなのか?ということである。彼は玄人を思想で読解し、素人を印象で触れるという二つのスタンスを使い分けるわけるが、ここでは、単に触れられるだけで了解できる女性、すなわちファッションに自信のない女性だということである。どこまでいっても安全な域を出ない鷲田氏のファッション論の内実は、それは女性不在の、身体を架空に想定した衣服論だということが伺い知れる。もし仮に、シャネルが現実の目標となるようなファッション・センスをもっている者がいるとして、彼女がどれほど鷲田氏の論点を参考にできるというのだろうか?
山田登世子の世界
触れることへ向かうに過ぎない、以上のような鷲田の眼差しに対して、山田の感覚は触覚そのものから出発している。それは、愛についての彼女の甘美なエッセイ『声の銀河系』において、相手と身体との媒体、すなわち触覚としての声が比類なき特権を与えられているが、彼女は『娼婦』において声と同じ役割をファッションに与えている。鷲田が「視覚」の機能に囚われすぎた他方で、山田は、「視覚優位からのブレ」(同朝刊)を直視しているのだ。『声の銀河系』が織りなす星座は、タイトルどおり「声」にあるが、それはどちらかというと女性のそれだと特定化することも出来るものの、男女の間に横たわる「距離」に関わるものとして捉えられている点からすれば、それは両性のものだともいえる。
この銀河系の輝きの下、声は電話をつうじて最も距離を埋めると同時に身体は不在であるというパラドックスをプルーストなどを駆使して展開されている。この「系」全体の構造は、電話などの声の社会史的な分析から始まり、声のもつフェミナンな共同体を具体的な作品をつうじて展開し、声の男性的な問題(声変わり)をつうじて音楽論に触れ、音との関わりを論じ、声も音も吸収される先にある「森」の言語(=女たちの沈黙の言語)の存在を「聴く力」として至高の場所に明示してデュラス論で締めくくるという展開を示している。この銀河系が最も輝きを増している点は、各所各所が蜜の濃い香りがする場面設定になっている点にあるだけではない。ほとんどデュラス絶賛のスタンスのもとで、身体不在の声の存在をデュラスをもってなそうとするかのような、「声の冒険小説」とでもいうべき内容をもっている点にも強度の輝きを放っている。
