2011年3月アーカイブ

花様年華/花樣年華 ウォン・カーウァイ(王家衛)『花様年華』(原題「花樣年華」、2000年、香港)

クローズアップの手法と音の配置によって官能の気配を存分に出した作品。互いに歩み寄る二人がほとんど触れることなく恋情を極大限にまで引き延ばし、禁欲的に着られたスーツと旗袍を伝って臭覚にまでエロスが忍び寄る。

スー・リーチェンを演じるマギー・チャン(張曼玉)は、この作品で20着以上もの旗袍を着ている。旗袍の出てくる映画を見倒したというデザイナーの中野裕通(ヒロミチ・ナカノ)は、この作品で着られた旗袍が、他のどんな映画にもまして鮮やかなデザインで高品質だったと絶賛。続編ともいえる『2046』(原題「2046」、2004年、香港・中国・フランス・ドイツ・日本)では、チャン・ツーイー(章子怡)が旗袍のオンパレードを行なっている。両作品とも美術・服装指導は、ウィリアム・チャン(張叔平)、撮影指導はクリストファー・ドイル(Christopher Doyle;杜可風)。
flag of honourティン・シャンシー(丁善璽)『旗正飄飄』、1987年、台湾。日本未公開作品

男装の麗人といわれるブリジット・リン(林青霞)が持ち味を余すところなく披露した政治サスペンス。上海のクラブを取り巻く日中スパイ合戦が見物で、ブリジット・リンをはじめに主演女優たちのドレスが目白押し。

美術指導は、1973年の李行監督作品『彩雲飛』で台灣1973年第11屆金馬獎最佳彩色影片美術設計を受賞した鄒志良(Zou Zhiliang)。他にも『玉卿嫂』などで美術指導を担当、007のパロディである『008皇帝ミッション』では編集を受け持った。

特にお勧めは、2枚。1枚目のブリジット・リン演じる秦鳳が上海を発つ最期の場面で見せる黒のコート。男装の麗人の一場面である。また、2枚目は、上海のクラブで情報戦の疲れを秦鳳が一瞬癒す場面で、淡いピンクのサテンが輝くマーメイド・ドレス。

ブリジット・リン満州事変・上海事変を経た1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両軍の戦闘は、8月13日に上海へ拡大した。ここに日中全面戦争が始まったわけだが、本作品は、以後12月に南京が陥落するまでの上海における、日本の女性スパイ川島芳子を探す中国側と、彼女を隠しつつスパイさせる日本側との女性特務員を中心にした確執が描かれている。

ブリジット・リン川島芳子は、東洋のマタ・ハリと呼ばれた中国人スパイ。清朝最期の皇帝(愛新覚羅溥儀;爱新觉罗溥仪)の親戚にあたるため、国民党や共産党とは敵となり日本軍に従事したというのが彼女のおかれた立場で、作品にもその複雑さが垣間見られる。

川島芳子は、上海側の女特務である秦鳳を逮捕しようとするが、秦鳳の方は川島に個人的な恨みを抱いており、クリスマス・イブの日、運命の対決の舞台となるダンス・パーティが催される。
若き仕立屋の恋ウォン・カーウァイ(王家衛)『若き仕立屋の恋』(原題「手」、2005年、中国)

仕立屋の「手」に注目した名作。

注文生産タイプの仕立屋は、丁稚奉公から始まる歴史があり、技術を身につけるのに大変時間がかかったといわれるが、技術的に難しいのは「縫合」ではなく「裁断」にある点を、仕立と恋愛とを重ねながら描く。

その意味で、この作品自体、コン・リー(鞏俐)とチャン・チェン(張震)との関係が「縫合する」よりも、最後の場面で「裁断される」所に、非常にインパクトがある。
パトリス・ルコント(Patrice Leconte)『仕立屋の恋』(原題「monsieur hire」、1989年、フランス)

仕立屋の「手」に注目した名作。室内でのカメラ移動が抜群。宮尾登美子や水上勉ら、近代日本の娼婦を描いてきた作家たちが担わせていた男女の立場を逆転させたような感覚に、脚本まで担当したルコントの手腕が光るところ。列車内での男性2人・女性1人でなされる逢瀬の「手」の配置構造は見事だ。この配置は、『戀戰。沖繩』(邦題:恋戦。OKINAWA Rendez-vous)にヒントを与えている。
Blow-up(邦題『欲望』)
ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)『欲望』(原題「Blow-up」、1966年、英)
製作年 : 1966年
製作国 : イギリス
配給 : MGM
キャスト(役名)
Vanessa Redgrave ヴァネッサ・レッドグレイヴ(Jane)
David Hemmings デイヴィッド・ヘミングス(Thomas)
Sarah Miles サラ・マイルズ(Patricia)
Verushka フェルシュカ(Verushka)
Jill Kennington (Models)
Peggy Moffitt (Models)
Rosaleen Murray (Models)
Ann Norman (Models)
Melanie Hampshire (Models)
スタッフ
監督 : Michelangelo Antonioni ミケランジェロ・アントニオーニ
製作 : Carlo Ponti カルロ・ポンティ
原作 : Michelangelo Antonioni ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本 : Michelangelo Antonioni ミケランジェロ・アントニオーニ / Tonino Guerra トニーノ・グエッラ
撮影 : Carlo Di Palma カルロ・ディ・パルマ
音楽 : Herbert Hancock ハーバート・ハンコック

『欲望』は、20歳の新進気鋭のカメラマンの日常にターゲットを絞り、60年代ロンドンのポップカルチャーをとても暗く撮した作品だ。半ば冗談だが、この作品のなかで輝いていた唯一の場面は、ヴァネッサ・レッドグレイヴの背中だけではないか!?

確かに、ファッション雑誌の写真撮影ではピエール・カルダンを思わせる宇宙服を着たモデルがたくさん出てきて、観ている分には楽しいが、主人公のカメラマンがモデルに対して接する立場は超越的で傲慢そのものだし、ジミー・ペイジとジェフ・ベックがダブル・ギタリストとして活躍した頃のヤードバーズのライブも後半に挿入されているが、ライブ会場から一歩外へ出れば、それまでの熱狂が冷めるものとして挿入されているに過ぎない(それにしても、ジミー・ペイジが楽しそうにギターを弾いている傍らで、ジェフ・ベックが調子の悪いアンプにギターをぶつけて壊してしまうシーンがあるが、その後の彼らを予言しているような貴重な映像だ)。

さて、アントニオーニの商業映画として知られるこの映画は、他の作品に比べてワンシーンの時間が短くなっており、批判の的となったが、当時のロンドンの若者文化を象徴する場面がいくつも出てくるのに、いずれも陰鬱なイメージとして描かれているから、単に商業映画として片づけるのは勿体ない。

この作品は当時のロンドンでは発禁まがいの経緯を持っている。ドラッグ・パーティのシーンあり、3P一歩手前の場面あり、、、。でも映画のメッセージはそういう破廉恥な部分にあるのではなく、カメラマンが現像した写真が映し出すモノ、そしてその写真がなくなった場合、果たして言葉で説明することは可能か、あるいは、真実を伝えることができるのか、という問題を繰り返し提出している。

前半は、ファッション・モデルやモデル志望の女の子に対するカメラマンの傍若無人な態度が執拗に繰り返されるが、偶然殺人事件を撮影していたことを知った瞬間から後半に移り、写真と真実との関係が語られはじめる。そして、写真が撮しだすイメージが「全てのこと」を語っている一面で、「真実」を語っていることにはならないというアントニオーニ独自の判定が下される。彼によれば、真実とは見せかけ(仮象)の下に存在し、その下にはさらなる真実が存在するという。そうして、どんどん深く真実は潜っていくが、結局のところ、その真実はそれまでの真実が描ききられ分析された後に出てくるもので、抽象絵画のようなポジションを占めている。アントニオーニは、写真がどこまで真実を語るかという問題だけでなく、その写真が失われたとき、どれほど真実というものは信用されるのだろうかという問題をぶつけてくるが、それに対する答はとても難しい。この映画でも、明快な解答は避けられている。
ジャン・リュック・ゴダール『愛の世紀』2001年、フランス・スイス

をテーマに、歴史とは何かを問いかける。

恋愛については定番4点、すなわち、出逢い・肉体的関係・別れ・再会のテーマを取り上げており、それを記憶の問題や戦争の問題と結びつけることで、出演者たちは自分の歴史認識を手探りで探している。

また、世代のテーマにおいても感慨深い問題が投げられている。普通、私たちは子供から大人に変化することを「成長」とよぶが、ゴダールはその発想を拒み、人間のなかではっきりとしている世代は子供と老人だけであって、大人という存在は不明瞭なものだと論じている

また、戦争の問題では、アメリカ合衆国はもちろんのこと、ヨーロッパ諸国の内戦や侵略などが随所に「記憶」として蘇ってくる展開がみられ、「裁きなくして平和なし」、「我々は無力だ」といった威力ある台詞がラッシュのように迫ってくる。この作品からは、アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国の人々の記憶形成や歴史形成に役だった点や傷を付けた点が匂わされているが、それは逆に、合衆国と、その国民自体に歴史や記憶は形成されたことがないという皮肉でもある。
戦争犯罪と人道に対する罪を裁くことは不可欠で基本であり、実行されるべきだ。記憶や普遍性のない地にレジスタンスはない。


また、資本主義諸国が宗教(キリスト教)という人道的な救済の道具を用いて侵略や占領を行なってきた事実に対し、ゴダールは次のように批判する。
技術(テクノロジー)が歴史を変化させたのは奇妙だ。政治も福音書で変わるかね。教会は時代と歩む。物資補給が困難な諸国を進軍する。兵隊たちのように。いかにして教会は神の正当な継承者 貧者へ、来世の王国を譲るのか考えもしない、真実とは悲しいものか。


服飾史にキリスト教を重ねると、日本における洋裁普及で最初に宣教師たちが果たした役割が想起される。その後の日本史はキリスト教色が薄らいだが、日本列島に住む人間たちは、果たして小袖を守り育むことができたか?
マックジー『チャーリーズ・エンジェル』2000年、アメリカ合衆国エンジェルズの魅力をファッションと彼女たちの美しさだと監督のマックジー(マックG、McG)は断言します。ノックス役のサム・ロックウェルも彼女たちの衣装が「カッコ良すぎる」と絶賛。

マックジーが記憶モードで絶賛するエンジェルたちの衣装は、キャメロン・ディアス(Cameron Diaz)のTシャツ&ジーンズのサーファー・スタイル、ルーシー・リュー(Lucy Liu、劉玉玲)の深紅のドレスにウェット・スーツ、ドリュー・バリモア(Drew Barrymore)も含め3人が着ていた自動車レースの青のピット・ウェア等。

エンジェル3人の個性

衣装デザインを担当したジョゼフ・ジー・オーリシは、映画冒頭で紹介された3人のエンジェルたちの個性に忠実であろうとしたそうです。テレビ版の『チャーリーズ・エンジェル』では3人のエンジェルの体型が似ていた点が、ジョゼフ・オーリシの不満であり、昔々 タイプの違う3人の娘がおりました

という出だしを衣装でも再現させようとしたのですね。

例えば、ナタリー・クック(飾キャメロン・ディアス)がパーティのウェイトレスをしているときの衣装。大柄・大胆だがお茶目で照れ屋でもある彼女だからこその特徴を出していました。また、ディラン・サンダース(飾ドリュー・バリモア)の場合は、自由を求める放浪者として、最高にクールで、タフかつセクシーな雰囲気が十二分に出ていたと製作担当のナンシー・ジュボネンはご満悦。

他にも、オーリシは、淡い感じの昔のスペイン風ショールや古着も取り入れられています。

アレックス・マンディ(飾ルーシー・リュー)の場合は、都会的、国際的な個性。黒が多く、ダークで強烈な色を使ったとオーリシはいいます。また、革の服もアレックスは多用しているが、これは身体のラインが強調され、彼女の定番ですね。

60・70年代ファッション

なお、チャーリーとエンジェルたちの橋渡し役を務めるボズレーの場合、60年代後半~70年代前半のファッションに貫かれているのも見落としたくないところ。開襟シャツ、タートル風の襟などが代表的で、ボズレーを演じたビル・マーレーは、そんなオーリシのデザインが「昔一目惚れしたデザインに執着している」と指摘。雑誌に1度だけ載った程度で2度と流行らないと分かっているのにオーリシが固執する点を、楽しくマーレーは語っていました。

作品全体の印象

作品全体の印象としては、カラーリングや生地に優雅さが取り入れられているという点に尽きます。その優雅さを応援するのが、随所に見られるビーズでしょう。

ナタリーがダンス・フロアに登場したとき、青いシフォンに透明なビーズを散りばめたドレスを着ていました。これは50年代のミュージカルを念頭においたデザインだそうです。アレックスの場合も、京都から輸入したという会場で、ビーズが縫い込まれた深紅のパーティ・ドレスを披露していますね。このパーティ・ドレスのスカート部分は着脱可能で、アレックスは、ヤセ男を追いかけながら下半分を脱ぎ捨て、中からキャット・スーツが出てきたというわけです。

つまり、オーリシは、優雅でありながらアクションにも対応できる衣装デザインにこだわっているのです。

他にもこの作品はたっぷりと衣装を楽しめます。例えば、70年代のバンド風の衣装、ベリーダンスでのエキゾチックな衣装(ヘソピ付き)、そして、ヨーデル娘3人に変装した謎めかしの服など、キリがありません。

日常服と舞台衣装の融合

そんな中で一つ注目したいのが、エンジェルたちが会社に侵入する際、アレックスが社員教育を施す場面です。ここでは、ナタリーとディランが男性の通勤スーツを着ていて、アレックスだけが黒のレザーに加工されたボディコン風のジャケットに、同素材のタイト・スカートを穿いていました。ビュンビュンと木製の鞭を撓らせ、男性社員を魅了させた場面ですが、このスーツ・アンサンブルはアレックスの個性が十分に出されたファッションでした。この場面では日常の服と舞台衣装が混在しており、双方の魅力をミックスさせるのが難しかったと、オーリシは伝えています。

追記風に…

あと、ファッションといえるのか、とても難しいのですが、エンジェル一人一人を紹介する冒頭で、ナタリーが起き抜けに配達ピザを受け取りに玄関へ向かう場面。私としてはとてもインパクトのあるシーンでした。ニコニコ笑いながら、お尻を突き出してプリプリと横に振りながら、スキップもそのまま横へ…。

そのパンツも可愛いのですが、天真爛漫なダンス、いや、単に一人の世界に入って小躍りしているだけでしょうが、それが大きなパンツと、大きな柄とフィットしていて、ナタリーが可愛くて仕方がありませんでした。

以上ご紹介したように、この作品の衣装は実にさまざまなものですね。でも、キーワードとして言えるのは、スーツ

ではないでしょうか…?

セキュリティー・システムを突破してナタリーが会社の中枢的なコンピュータ・システムへ侵入するときの、白のニットっぽいボディー・スーツもかっちょ良かったですね。
マーシャ・メリルジャン=リュック・ゴダール『恋人のいる時間』(原題:Une femme mariée: Suite de fragments d'un film tourné en 1964)、フランス、1964年。主演は、マーシャ・メリル(Macha Méril)、ベルナール・ノエル(Bernard Noël)。

原題を直訳すると、「既婚女性─1964年に収斂された一映画の破片の連続」。60年代のフランスが舞台で、既婚女性が、恋人と旦那という二人の男性に挟まれながら、現代の都市生活のなかで生じる二分法を自問自答しつづける映画。

恋人と旦那、室外と室内、下着と裸、外出着と下着、キス・愛撫と挿入、妊娠と避妊、危険(danger)と天使(angel)、実子と養子、仕事と恋愛、演技と本気、機械と人間、長所と短所、彼女(ELLE)と私(JE)、存在と不在、といったように、実にさまざまな二分法が出てくる。

それらの二分法的な問いは、はっきりとした解答が出されないまま、それぞれが絡まりながら、既婚女性のなかで、ひたすら自問自答は続けられる。問いの間に挿入される長短いくつかの場面もまた、これらの問いのヒントになりながらも解答をもたらさない。

主人か恋人か、いずれの子供か分からない妊娠を知ってから、最終的に女性が気づくのは、それらの問いが「あれか、これか」という「選択」の問題だということだ。とはいえ、俳優をしている恋人との最後の問答でようやく解答らしきものが出てくるが、明瞭な解答は用意されているわけではない。

映像的な評価としては、主演男性二人の区別が曖昧にされている一方で、主演女優マーシャ・メリルのチャーミングで少し小悪魔の笑顔と、彼女の一人目の子供の表情の2点が浮き彫りにされている点を挙げることができる。また、白黒映画にも関わらず、カラフルに描かれた点も映像的に称賛できる。

衣裳担当は、ロランス・クレルバル(Laurence Clairval)で、ジャック・ドゥミー『ロシュフォールの恋人たち』(1966)、アニエス・ヴァルダ『幸福』(1965)などでも、衣裳やワードローブを担当している。

1886年にドイツのコルセット製造業者から出発し、フランス進出が1960年代初頭までもたついたものの、当時のフランスで爆発ヒットした下着メーカー「トリンプ」の広告が随所に挿入されている。

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