エドワード・モリヌー:Edward Molyneux

このページでは エドワード・モリヌー について(1)用語解説・歴史(2)関連情報(サイト内記事、リンク、商品紹介)などを掲載しています。

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(1)用語解説・歴史など

1894年、イギリスのハンプステッド生まれ。アイルランド系のイギリス人。

画家志望だったが、17歳の時にルシル主催のデザイン・コンクールに応募し優勝。以後、デザイナーに転向してルシルの店に入店。作品は清楚で上品なのが受け、イギリス王室のドレスを全て任されるようになった。

第1次世界大戦中、陸軍大尉として従軍し、片眼の視力を失う。通称「キャプテン・モリヌー」は、この時につけられた。負傷のため、戦後、王室向けのドレス製作はノーマン・ハートネルに代わった。

帰還後の19年、パリのロワイヤル通りに婦人服のサロンを開業。プリント・シルクで、オール・プリーツ・スカートのテーラード・スーツを考案。ソフト仕上げのスーツは有名で、ラベルに花を挿すためのボタンホールを考案し、ドレスのヒップにも造花を付けてロー・ウェスト・カットを強調するなど、斬新な発想が話題を呼ぶ。身体にフィットさせるため、服にファスナーを採用したのモリヌーのアイデア。また、スポーツ服、ランジェリー、アクセサリーのブティックを、他に先がけて開設している。

こうして、20年代は、シャネルやパトゥと並び「ギャルソンヌ・ルック」の先頭に立ち、イングランド的な風格とシンプリシティで脚光を浴びる。さらに、メゾンの支店をモンテカルロ(25年)、カンヌ(27年)、ロンドン(32年)にオープン。主な顧客は、ウインザー公夫人をはじめ、イングランド王室、映画スター、名流夫人たちだった。

30年代には、ゴーギャンの絵の明るいピンクやダークなローズ色のシフォンを使い、流れるような優雅なドレスを作った。

第2次大戦中はパリの本店を閉じてロンドンに亡命し、婦人の戦時服(ユーティリティ・ドレス)の製作に協力した。大戦後の46年にロンドンで店を再開し、毛皮、香水、ランジェリーなどの部門を新設したが、健康を害したためパリの店をジャック・グリフに譲り、自らは西インド諸島・ジャマイカ島に隠退した。

65年、知人に説得されてパリへ帰り、既製服だけをあつかう「ステュディオ・モリヌー」店を開き、プレタ・ポルテで復活。しかし、2年後の67年、甥のジョン・テュリスに経営を譲ってアンティープ近郊に隠棲し、74年にモナコのモンテカルロで死去した。引退直前の68年秋冬コレクションでは、ジョン・チュリス(イギリス人)、マリオ・ビアンケッチ(イタリア人)、ラルス・ヒリングゾ(デンマーク人)、ミシェル・フィリップ・ラローシュ(フランス人)の4人のモデリストを使って、盛大に発表を行なった。

メゾンからは、ピエール・バルマン、マルク・ボアン、ジェフリー・ビーン、ジョン・ワイツたちが巣立っている。また、1937年のパリ万国博覧会で、ランバン、シャネル、スキャパレリの作品とともに、ユベール・ド・ジバンシーに強烈なインパクトを与えたのは有名。また、現在でも香水ラインは健在で、モリヌーの代名詞になっている。

(2)関連情報

関連用語(内部リンク)

関連デザイナー(内部リンク)エルザ・スキャパレリ:Elsa Schiaparelli

  • ジェフリー・ビーン:Geoffrey Beene
  • シャネル:Chanel
  • ジャン・パトゥ:Jean Patou
  • ジョン・ワイツ:John Weitz
  • ピエール・バルマン:Pierre Balmain
  • マルク・ボアン:Marc Bohan
  • ユベール・ド・ジバンシー:Hubert de Givenchy
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