纏足

概略

纏足(てんそく)とは、幼女の足を布で縛ることで発育を停止させ、成人しても小さい足を維持させてきた中国および周辺諸地域の風習。「裏足」とも言います。英語ではBounded footやFoot boundingとよばれ、縛られた足を意味します。

古代から中国では小さな足の女性は美しいとされ、纏足は蓮(はす)の花に譬え「三寸金蓮」と称賛されてきました。さまざまな刺繍が施された纏足靴もまた、美を示すものとして長い間、纏足女性たちに愛用されてきました。纏足靴はヨーロッパ発祥のハイ・ヒール・シューズに少し似ていますが、纏足自体は幼女期から足の形を人為的に固定させる点に特徴があり、奇習といわれています。

上の写真は、19世紀後期中国の纏足靴です。贅沢なコップ(DAINTY CUP)というべきでしょうか、コップがしばしば纏足靴・金蓮靴(ロータス靴)の踵ポケットに置かれて、男性の飲酒行事の一環でした。(A DAINTY CUP was often placed in the heel pocket of a Lotus Shoe and incorporated into male drinking rituals.)〔出典:Linda O’Keeffe, Shoes: A Celebration of Pumps, Sandals, Slippers & More, Workman Pub Co, 1996, p.444〕(同書の私の書評はこちら

纏足は10世紀頃から清朝滅亡までの10世紀近い間、主として上流社会で続いてきました。最も普及したのは清朝期で、一部の少数民族や多数の下層階級を含み中国全土で広まったそうです。なお、少ない割合ですが、朝鮮、日本、インドネシア、モンゴル、チベットその他のアジア諸地域で纏足が行なわれてきたことがわかっています(ウィリアム・A・ロッシ『エロチックな足』 山内昶・山内彰・西川隆訳、1999年、57頁)。中国では纏足をする男性もいたようです。

纏足の方法

纏足の方法は以下の通りです。読むのが辛い方は以下の段落だけ飛ばしてください。

幼女が3歳くらいになると、親指を除く第2趾以下の脚指を裏側へ折り曲げ、硬い布で幾重にも包みます。その上で纏足用の靴下と纏足靴を履かせ、布は3~5日ごとに取り換えます。これを2年間続けます。その後、足首を絹布で縛り、纏足靴を常時履かせます。そうして成人とともに絹布を解いたとき、足の骨格は既に固定されています。

纏足賞賛の理由

纏足が賞賛されてきた理由として、以下の5点がよく挙げられます。

  1. 足の小さいことが女性美の象徴として尊重された。
  2. 女性を家庭内に縛り付け、外出を禁止させる。
  3. 女性は男性の玩具とされ、纏足の足もその対象であった。
  4. 人体変形が一種の芸術作品と考えられた。
  5. 宋代(960~1279年)の厳しい儒教倫理観が女性の人権と自由を拘束した。

女性から活動性を奪うことが、女性自身にとっても家族にとっても、そして夫にとっても社会的威信を付与したわけです。家族のメンバーに生産労働から離れた人間を抱える大黒柱のステータスは、ソースティン・ヴェブレンの指摘した有閑階級の基本的な特徴です。

纏足が賞賛された観念的な理由は上記のとおりですが、その唯物的な理由はほとんど知られていません。3点目に関わることですが、ウィリアム・A・ロッシ『エロチックな足』には、纏足の内側に丸め込まれた指と踵との間に男根を挿入して性交渉を行なったというエピソードが紹介されています。ヒンドゥー教の性典では蓮が女陰を意味しますが、中国で纏足が三寸金蓮と呼ばれたことと関係があるかも知れません。なお、男性の纏足も、唯物的にはホモ・セクシャルの性交渉に使われたようです。

上の写真は19世紀中国の纏足靴です。普通、性交の前戯として、中国の夫は丁寧に妻の靴を脱がせ、足を解きました。長さ10フィートの綿製か絹製の包帯は束縛行為中の妻を保護しました。(As standard foreplay, a Chinese husband would gently remove his wife’s shoes and unswathe her feet. The bandages, 10-foot-long strips of cotton or silk, sometimes held wives secure in acts of bondage.)〔出典:Linda O’Keeffe, Shoes: A Celebration of Pumps, Sandals, Slippers & More, Workman Pub Co, 1996, p.451〕(同書の私の書評はこちら

纏足の起源

纏足の始まりには次のように多くの諸説があります。夏禹時代、商代、春秋時代、戦国時代、秦代、漢代、晋代、六朝時代、隋代、唐代、五代説、北宋、両宋(南北宋)。

このうち、伝説や神話の域を出た、史書や史籍で確認されるのが五代から北宋・両宋時代であり、近年は考古学の発掘調査で両宋時代が有力視されるようになりました。関連ページに紹介した「纏足_百度百科」や、高洪興『纏足史』は両宋時代説を踏まえています。

纏足禁止令と纏足の消滅

時代をさかのぼるにつれ纏足は上流階級に限定されたものでしたが、明代、清代と下るにつれ纏足は階級・身分・家庭状況、そして民族を超えて広がりました。

中国歴代王朝の纏足禁止令が確認されるのも明代と清代です。まず、明代、一次的に労働者家族の婦女子への纏足を禁止する試みがなされたが、効果はありませんでした。ついで、清代、康煕帝は1662年以後に生まれた幼女を対象に、満族・漢族を問わず、64年に纏足禁止の勅令を出しました。しかし、纏足の普及は止まらず、漢族の官僚たちから勅令が猛烈に反対されたこともあり、68年7月に解禁令を出しました。

ladies with bounded foot in the old Qipao, in the latest Qing Dynasty.(旧旗袍を着た纏足女性たち、後期清代)

その後も、19世紀項後半に起こった太平天国の乱によって纏足は反対され、また多数のキリスト教宣教師たちが異議を唱えたものの、纏足が下火になったのは自ら纏足者であった西太后の1902年の禁止の厳命のことでした。1912年に辛亥革命が終結し、中華民国政府が正式に纏足の禁止を表明したことで新たな纏足者はほぼなくなりました。19世紀末から辛亥革命にいたる時期の纏足反対運動は「解纏足運動」または「天足運動」といわれました。なお、女性の纏足とともに廃止されたのが男性の辮髪です。台湾でも1912年以降に纏足は急減しました。

最後に、中国の民俗衣装・民族衣装として有名な旗袍は清朝期の旧式と中華民国期の新式に大別されますが、旧式は纏足と、新式はハイ・ヒールと組み合わされることが多かったです。旧・新旗袍(チーパオ)、纏足・ハイヒールは封建制と資本制の特徴を示す対照的な事例であり、一考に値します。

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