落地生根

中華会館編『落地生根―神戸華僑と神阪中華会館の百年―』研文出版、2000年

本書は神戸開港から20世紀前半における華僑の概況が詳しく述べられています。当時、神戸市に2,000名以上の華僑が居住していた規模は、開港地から始まった日本の近代化を検討する上で避けることのできない高い位置を有しています。日本の衣服産業の展開に果たした華僑の役割を中心に以下で紹介します。

中国と日本では19世紀中期に開港地から洋服仕立業(注文仕立業)が開始されました。中国の開港地は、広州、福州、廈門、寧波、上海の5港(1842年の南京条約)、日本の開港地は、神奈川、長崎、函館、新潟、神戸の5港(1858年の日米修好通商条約)です。いずれの開港地でも洋服(中国語では西服)の注文仕立業が勃興し、後には既製服産業も展開しました。シンガー社を始め米国ミシン会社によって20世紀転換期には衣服産業が地球規模で同時に展開しましたが、これには、ミシン普及と小規模仕立業の急速かつ広範な勃興・展開がタイアップした面が大きいです。

Kee Cheong, Tailor and Outfitter, 其昌號. The Japan Directory 1884, p.109.
神戸居留地43番地にあった洋服雑貨店「其昌號・其昌号」Kee Cheong, Tailor and Outfitter. The Japan Directory 1884, p.109.

衣服史では無視されることが多いのですが、開港の順序に即し洋裁の普及で中国は日本に先行していました。開港場となった横浜や神戸では必ずしも欧米系の人々だけが教えたわけではなく,欧米系の人たちに追随してきた中国人たちもまた日本人へ洋裁を教授しました。日本への洋裁普及に言及した多くの日本語書籍群では必ず欧米のキリスト教宣教師たちの活躍から記述が始まりますが、技術移転における欧米→中国→日本という連関も存在します。

本書によると、1869年の英字新聞『ヒョーゴ・ニュース』に洋服仕立(製靴との兼業)の中国人業者の広告が掲載され、以後、新聞広告には中国人及び西洋人の洋服店が広く見られるようになりました。内地雑居後20世紀に入ってからも、貿易商に留まらず三刀業(飲食業、裁縫業、理髪業)やペンキ職を中心に華僑はさまざまな職業に従事していました。1904年には、神戸市の在留華僑合計2,151名のうち裁縫業者は89名を数える(この数値は田中鎮彦編『神戸港』神戸港編纂事務所、1905年、に依拠されています)。国籍別職業別人口をフラットに把握したいところですが、『兵庫県統計書』では不可能であるため、便宜上、『日本全國商工人名録』(鈴木喜八編『日本全国商工人名録』1898年<渋谷隆一編『都道府県別資産家地主総覧 兵庫編2』日本図書センター,1991年所収>)から日本人裁縫業者を合算しますと、「足袋商」5名、「洋服商」(卸業込み)5名、「莫大小及びシャツ」商2名、「鞄商」2名、「靴製造販売」2名、以上、衣料・服飾品の全てを取り上げても16名を数えるに過ぎません。

中華会館編『落地生根―神戸華僑と神阪中華会館の百年―』研文出版、2000年


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[投稿日]2017/01/30
[更新日]2017/05/04