モデラート・カンタービレ

恋愛エクスタシー5秒前

恋人に女性が射殺される現場から別の男女の物語がはじまる作品、マルグリット・デュラスの最重要作品の一つ『モデラート・カンタービレ』を扱っています。

マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳、河出書房新社、1985年

0 はじめに

『モデラート・カンタービレ』はデュラスの作品のなかでも難解な部類に入るといわれるが、ここで展開されている男女の物語は、何ら高尚な恋愛関係ではなく、むしろお茶の間に浸透した日常茶飯事といってよいものだ。本稿ではこの点に注目し、以下数節にわたって一通りの分析をしたうえで、節の終わりごとに電話相談をしてきた主人公のアンヌという架空の想定のもとで、私が「キヲモンダ」氏となって彼女に対する相談を随所受けることにする(架空の電話応対は節の最後に記しておいた)。

1 射殺される女

マルグリット・デュラスの戦闘的な名作『モデラート・カンタービレ』は、ブルーカラーの男性が、その雇用者の妻に恋をするという相思相愛物語である。夕方という限られた時間のなかで8日間にわたって火花が散らされる「戦争」は、キスをするかどうかに向かって全てが用意されているといっても過言ではない程までに、逆説的にもある種のストイックさが徹底されている。

読後にあれこれと出てくるこの小説の驚くべき技巧の一つは、数々の小説に出てくる男のなかで、これほど事細かに女を揺さぶる格好いい奴がいたのかと驚かされる一方で、ふと気づけば徹底的にその容姿が定かではない点にある。本作品で描かれているのが口説き倒す男(=射殺する男)ではなく、口説き倒される女(=射殺される女)である所以だ。

ピアノソナタ第31番(ベートーヴェン)第1楽章「モデラート・カンタービレ」

ピアノソナタ第31番(ベートーヴェン)第1楽章「モデラート・カンタービレ」 via ベートーヴェン ピアノソナタの名盤(2) 第31番 – 緑陽ギター日記

2 窓からエクスタシーがきこえる

社長夫人として家にいることの多いアンヌは、息子のピアノレッスンに付き添うことが唯一といっていい外出の機会をもっていた。日暮れ時にピアノの先生宅の開けっ放しにされた窓から聞こえてきた銃声が、どうやら近所の喫茶店からのものだと知った彼女は、息子のレッスンをそっちのけで「外」にばかり気が向いてしまう。そう、レッスンの付き添いとて、彼女の所属する階級にあっては、「内」つまり自分の家庭内の延長にすぎなかったのだ。

レッスンの後に息子を連れ、銃声が気がかりな彼女は喫茶店へと向かうが、そこにショーバンという、夫の雇う一人の肉体労働者がいた。痴情の縺れと思われる殺人事件(被害者は女性)が起こったのだと知ったアンヌに、ショーバンはその殺人の原因を探るような問いを投げかけた。それが彼女たちの出逢いだったのである。

死と隣り合わせになった愛をみてしまったアンヌに対し、ショーバンは喫茶店で8日間にわたって彼女を蹂躙しつづけた。彼は愛と死を同義語にしようと最期の一点を除いて努力はしたし、口説きのテクニックも上等この上なかった。アンヌの頭脳を押し倒し麻痺させ、自分で彼女を押し倒したくせに、今度はアンヌの心に手を伸ばせて立たせてあげるかと思えば「何でお前は倒れているのだ?」と、さも自分は関係がないかのように振舞うことまで行なっている。本作品で縦横無尽に彼女を揺さぶりつづける一番のテクニックは、長々と殺人事件の顛末を想像しながら彼女に伝える一方で、想像の終わりでショーヴァンが必ずいう台詞「・・・とかいっても、私は事件のことについては何にも知りませんよ」にある。

アンヌ 息子のレッスンに付き添って出かけても、外出してるという実感がないの。
キヲ そりゃそうですよ。あなたの用事ではなく家の用事で出かけてるのですから。
アンヌ でも、家の用事は私の用事だわ。

3 アンヌ―囲われ女のみつけたもの

初日の出逢い以来、常日頃から先生が息子に言っていた≪ゆっくりと弾きなさい(モデラート・カンタービレ)≫という注意に対しアンヌはウンザリしはじめており、子供のピアノレッスンの意義自体を疑問に思いはじめてもいた。息子にやる気を出させるのは自分の役目と錯覚して、仕方なしにアンヌは先生に対してその旨を告げる。しかし相手は教師だ。先生は冷静にも、倦怠の渦を纏わせた一言で次のように反論する。「説明してやることなんか何もありません。ピアノをやるかやらないかは、本人が決めるべき事柄じゃないんです。奥さま、それが教育というもんですよ」。この言葉をきっかけに、アンヌはこれまで思っていた「教育を受けさせること」を反省しはじめる。息子の関心に耳を傾けることなく普通に(=モデラート)教育を受けさせてきたことと、息子の関心に即して子供がのびのびと(=モデラート)暮らしてゆくこととの落差…。

ところが、『モデラート・カンタービレ』という号令が恐ろしいのは、この落差ではない。子供に受けさせる習い事とは、そもそも子供のためではなく親のためものにすぎないというのは自明のことだ。アンヌが気づいたのはこのことではない。

ピアノの前に不似合いに座る息子の背中をみて彼女は愕然とする。臆病者だとしても決して鈍感ではないアンヌは息子の教育を反省すると同時に、すでに彼女自身の生活を脳裏に映し出している。毎夜毎晩、晩餐会の名の下に食事のマナーが普通に(=モデラート)なされることを強要される生活。ふてくされながらピアノの前に座るお人形さんは、実は予定されたマナーとトークがつづく晩餐会でチェアーに座る私のことではないのかしら? アンヌが先生に対して漏らした、「時々あの子は、わたしの想像の世界に生きているような気がして」という発見は、もしかすると彼女自身のことだったのかも知れない。

アンヌ 私は息子と同じなの?・・・そういえば、彼が「息子さんの状況はよく分かっています」と何度も言うの。それって、私のことなの…?
キヲ そりゃそうですよ。ショーバンというあなたのお気に入りの彼は、息子さんのことをあなたに喋らせながら、実はあなた自身の気持ちを語らせているのですよ。
アンヌ ショーバンは息子よりも、わたしのことを百も承知だったっていうの? 恥ずかしい。それに、わたし、息子の何を話したのか細かく覚えていません。

4 くださいエクスタシー

これまでピアノレッスンの付き添いで外出してきたのは母として妻としてだったのだ。外出や散歩が実は「室内」で行なわれていたのだという勘が確信に変わったものの、確かな答えをみいだすのを怖がったアンヌは、息子のレッスンの送り迎えをつづけながら、喫茶店に通いはじめる。自身の抱く怖れを逆説的にも身体でたたき込んでもらうために。喫茶店でショーバンはその都度アンヌに手練手管の口説き文句を打ちまくる。いわばショーバンによってアンヌは出逢ったきっかけの射殺を洗礼に受け取ったのだが、喫茶店の外ではアンヌの息子が一人で遊んでいる。息子が一人で遊んでいる…。レッスンではないのだ。…そのときアンヌは、もちろん母ではなかった。

アンヌは恐怖の在処をショーヴァンとともに探そうと試みるわけだが、もちろんショーヴァンの方はその在処を既に熟知している。殺人事件からはじまったアンヌの死への衝動は、それまで麻痺していたエクスタシーの体験に他ならなかったが、そもそも女が自身の愛の在処を問い直すとき、女の側から意図的に男とともにそれを行なおうとする以上、愛の所在は二人のあいだにあるからだ。女が気づかないだけで男は既に何もかも知っていた。

アンヌ そうだわ。たまには、わたし、男性の方と喫茶店でお喋りくらいしたかったのよ。息子も喫茶店についてきたじゃない。
キヲ でもアンヌさん、息子さんは確か喫茶店に入らず、外で遊んでいらしたのですよね。ということは息子さんが喫茶店に来たかったのかというと疑問です。
アンヌ えぇ、確かに、息子は外で砂弄りをしてましたわ。では息子は何を? そして、わたしは何を?

5 やっぱり怖いですエクスタシー

8日間にわたる喫茶店での二人の逢瀬は、ショーバンとキスした時点でのアンヌの謝罪に終わる。アンヌは次に進めなかったのだ。その理由は、目撃者が多数いる喫茶店に通った時点で、アンヌに家庭があるといった倫理的なものではなかったのは明らかである。それはエクスタシーへの怖れそのものにあった。では、二人の愛=エクスタシーが成就しなかったことに対し、「根性なし」のアンヌだけが責められるべきだろうか。

私はそうは思わない。最終的に実を結ばなかったという点で、何が・誰が悪いかといえばショーヴァンである。しかも、家庭・有閑階級という制度から脱出させる手助けをしなかったという意味においてではなく、喫茶店から連れ出さなかったという点においてだ。アンヌが家庭という想像の場所から抜け出せなかったのと同じように、ショーバンもまた二人の出逢った場所、すなわち喫茶店という想像の場所に甘んじた結果がこのような結末を生んだのだと思えて仕方がない。なぜなら、愛とは出逢いからの距離によってしか測りえないからだ。

アンヌ 実はわたし、ショーバンと手も握りました、キスもしました。でもそれだけでした。
キヲ ええ、そうですね。息子さんも砂を弄っただけです。
アンヌ でも息子は楽しんでいたと思います。
キヲ ええ、そうですね。砂と戯れましたね。しかしあなたは男性の方と戯れずに自分のポジションを確認することしかできなかったのですよ。でもアンヌさん、何事もこれからです。ショーバンに行くもよし、家庭のなかで恋をするのもよし。でも焦ってはいけません。時には状況に身をゆだねるってことも大切なのです。

  • この小説は、ピーター・ブルック監督、ジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンド主演の『雨のしのび逢い』(1960年)に映画化された。
  • このエッセイはメールマガジン『アルゴノート@21』2002年3月号(第7号)に掲載された(廃刊)。

Marguerite Duras, Moderato cantabile, 1958 aux éditions de Minuit

マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』田中倫郎訳、河出書房新社、1985年

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