女官通解

浅井虎夫『新訂  女官通解 』は、漢文・国文の古典を整理し、女官(女性官僚・女性職員)たちの仕事内容を網羅的にまとめた著書。対象の時代は平安期ですが、大宝律令から養老律令までの諸法令との比較もなされており、古代法制史の段階的変化がよくわかります。私が古代の女官に関心をもつのは、中学・高校と日本史を学んできたことが大きな理由ですが、その間に生まれた疑問が「租庸調の租税体制では織物が納品されたことがあるが、なぜ服は無かったのか」というものでした。この疑問に本書は見事にこたえてくれました。

浅井虎夫『新訂 女官通解』所京子校訂、講談社、1985年

そもそも衣服生産は対人要素が強いため、古代から糸や織物ほど大量生産できません。調庸布という言葉で知られるように、糸や布は徴税対象になりましたが、それは地方での量産が布までしかできなかったからです。また、衣服や身の回り品を献上させても、体型に合わない場合は利用できません。そのため、衣服と関連品を作る場所は中央政府、すなわち朝廷だったのです。このため、縫殿寮や縫部司といった裁縫部門を多数抱えていました。本書は、このような勘(長年の疑問)を見事に受け止めてくれました。

中央政府における裁縫集団は、757年に施行された基本法令「養老律令」で確認することができます。この律令は「職員令」と「後宮職員令」から構成され、川上(糸生産部門)・川中(織物生産部門)・川下部門(衣服生産部門)が存在したことを明記しています。

「延喜式」に至るまで職員の部署は異動が激しいのですが(阿部猛編『日本古代官職事典』増補改訂)、大まかには、糸生産部門は「糸所」、布生産部門は「織部司」に限定されていただけです。これに対し、衣服生産部門は、「內藏寮」と「縫殿寮」が中務省管轄内に、「典縫司」、「縫部司」、「縫司」、「縫女部」が大蔵省管轄内に配置され、複雑かつ大規模な組織を有していました(阿部猛編、同上書)。799年(桓武期)には、中務省縫殿寮と大蔵省縫部司が合併し大蔵省縫部司へ一括されました。この際、縫女部には女嬬という職種が補充されています。

現段階で把握できた職員数ですが、織物部門の「織部司」で15名(ただし、下部組織の作業者数は増えると考えられます)であるのに対し、裁縫部門では、中務省管轄内で200名程度、大蔵省管轄内で50名ほどの規模でした。967年施行の「延喜式」以後は女嬬だけでも100名にのぼります。このように、織物部門に比して裁縫部門の職員数が大規模なのは、先述したように衣料が租庸調の対象とならず、朝廷内で生産する必要が大きかったためです。また、朝廷で着用された礼服・朝服・制服などは、冕服に代表されるように多種類の品目によって構成されていたため、種々の品目を現場の必要性に応じて生産するためでもありました。古代から高度に発達していた糸と織物の商品化(徴税対象化)には衣服の自給自足的生産が対応したわけです。

浅井虎夫『新訂 女官通解』所京子校訂、講談社、1985年

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